【短編小説】少女と父親とコーヒーと

【一】
 初老の武夫は、自営で自家焙煎珈琲屋を営んでいる。自身の店舗でコーヒー豆を焼き、豆売りとコーヒーを提供する形態のコーヒー屋だ。武夫はコーヒー以外に能がなく、生きていくには自分にはこれしかないと、目の前の仕事をこなす毎日を送っている。
 今日も、そんな毎日のうちのただの一日。時計の針は十五時過ぎを指していた。武夫が、ふと店の入り口に目をやると、珍しい年頃のお客さんが立っていた。
「おじさん!コーヒーをください!」
 小学二年生の優子。少女は、その年頃に見合う無垢な笑顔で、武夫に話しかけた。武夫は一瞬、意を突かれたように、焙煎機を回す手をぴたっと止めて、優子のほうを見た。二人の目が合って、数秒の沈黙が流れる。
 武夫は眉間に皺を寄せて。
「なんだ子どもか。お前みたいな子どもに、飲ませるコーヒーはない。帰ってくれ」
 予想もしていなかったコーヒー屋の店主の反応に、優子は固まった。不思議と怖いという感情はなかったが、なんだか悲しさが込み上げてきた。大人から、こういった反応をされたのは優子にとっては初めてだったからだ。
 優子は戸惑いはしたものの(大の大人としてどうかと思ったが)、ここで引き下がるわけにはいかなった。なぜなら、優子にはミッションがあったからだ。仕事を夜遅くまで頑張っている父親に、おいしいコーヒーを買って喜んでもらうという大事なミッションだ。
 優子は武夫との間に、分厚い壁を感じながらも、負けじと先ほどよりも大きな声で言った。
「おじさん!私にコーヒーをください!」
 これには店の外を歩く商店街のお客さんも驚いた。足を止めて武夫の店の中を遠巻きに覗き込んでいる。
 武夫は通行人の視線を感じると、優子に向かって口の前で人差し指を立て、静かにしろというポーズをする。面倒な子どもが来てしまった。これだから、これくらいの年頃の子どもは嫌いだ。顔も見たくない。そういった言葉が喉元まで出かかったが、さらに面倒なことになるのは御免だったので飲み込んだ。通りを歩くお客さんたちに聞こえないように、声を落として言った。
「わかった。わかったから、静かにしてくれ」
 武夫は一呼吸置いて、こう切り出す。
「でもな。コーヒーは子どもの飲み物じゃないんだよ。お前みたいなのは、興味本位で飲みたがるが飲みきった試しがない。コーヒーを粗末にするやつは俺は嫌いだ」
 これは、半分本心だったが、半分は断り文句だった。一刻も早く、優子には帰ってもらいたかった。息が苦しくなる。
「そんなことない!優子は全部飲むもん!」
 武夫は、ここで初めて、この少女の名前が優子であるということを知った。たが、武夫にとってそんなことはどうでも良かった。もう、この子どもと関わることはない。
「とにかく帰ってくれ。どうしても飲みたいなら、お母さんかお父さんと一緒に来るんだな。今日はもう店仕舞いだ」
 時刻は十五時半。店仕舞いするには全くもって早過ぎる時間だが、この子どもには帰ってもらいたかったし、武夫はもう仕事を続ける気にはなれなかった。
 行った行ったと、優子に向かって手で追い払うような仕草をすると、優子を半ば強引に店から出るように誘導し、店のシャッターを下ろしてしまった。
 シャッターを閉めた店の中には、コーヒー豆の焦げた匂いが充満してきていた。ガスコンロの上で回転させられずに放置されたアルミ製の焙煎機から、バチバチとコーヒー豆が爆ぜる音が聞こえる。
「あの子どものせいで、豆が無駄になった」
 武夫は急いでガスコンロの火を止めた。
 焦げ臭いコーヒー豆の匂いと爆ぜる音、それから焙煎機から立ち上る灰色の煙で一杯になった店内で、武夫は頭を抱えた。矛先のない怒りと嫌気に喉を締め付けられるような感覚を覚えながら、駄目になった豆の片付けに取り掛かるしかなかった。

【二】
 次の日も、優子は同じ時間(十五時頃)にやってきた。この時間は、優子の学校の下校時刻だからだ。優子は昨日、武夫に店を追い出されてから、「絶対にコーヒーを買うまで諦めない」と心に誓ったのであった。優子は何としても、父親に美味しいコーヒーを買って行ってあげたかったからだ。優子は、父親の笑顔がどうしても見たかった。
 優子の父親は、たまの自分へのご褒美に買う珈琲屋さんのコーヒー豆を、自分で挽いて淹れるのを何よりの楽しみにしていた。挽いたコーヒー豆の香ばしい香りに満たされた部屋の中、淹れ立てのコーヒーから立ち上る湯気を見つめ、優子の父親はよく言ったものだ。
「くー!やっぱりコーヒーは苦いのに限る」
 優子の父親は、年季の入った丸メガネを曇らせながら唸る。優子は、そんな父親の姿を見るのが大好きだったし、幸せだった。愛おしいとさえ思っていた。
 優子の父親は、曇らせた丸眼鏡を押し上げながら言う。
「でもな。ただ、苦けりゃ良いってもんじゃないんだ。苦味の中に、ほんのり舌の上に乗っかるような甘味がある。これが、美味しいコーヒーの証拠だよ」
「って、こら。コーヒーは子どもの飲むもんじゃない!」
 優子は父親が話し終わらないうちに、父親のコーヒーカップに手をかけて口に運んでいた。苦くてほんのり甘い。そんなものがあるのか。
「にが」
「だから言っただろう」
 優子の父親は、呆れ顔だったが、愛しむように微笑みを湛えていた。
「でも、なんかいつものと違うね!」
 何が違うのかよくわからないけど。と、優子はぼそっと付け加えた。優子は以前に何度か、父親が飲んでいるインスタントコーヒーをつまみ飲みしたことがあるのだが、それはまるで苦くて飲めたものではなかった。ただ、このコーヒーは苦いだけではなくて、何かが違うのだった。
「優子、強がらなくて良いんだぞ。子どもが飲むものじゃないんだから」
 と、優子の父親は苦笑いをする。だけれども、優子がコーヒーを飲んで、わかったような素振りをしてくれたことが嬉しかった。自分が大好きなコーヒーに関して、どこか通じ合えたような気がしたからだ。
 優子は、父親に子ども扱いされたことと、理解されなかったことに対して腹を立てていた。
「強がってなんかないもん!本当だもん!」
 実際、強がっていないというのは本当だった。何かが違うような気がしたのだ。それがなんなのかは、優子の持っている語彙では表せなかったが、確かに何かが違っていた。
「わかったわかった。父さんが悪かった。寝られなくなるから、ほどほどにしておくんだぞ」
 父親は優子の小さな頭を優しく手のひらで包むように二回叩いて、微笑みかけた。
 優子は、まだ少しだけ腹を立てていたが、同時に笑顔になった父親を見て、ほっとしてもいた。父親が笑顔でいてくれること。それが優子の何よりの願いだったからだ。
「おじさん!私にコーヒーをください!」
 優子の決意は固かった。前回は追い出されてしまったが、今日は意地でも帰らない。コーヒーを買って飲んで、そのコーヒー豆を買うまでは。そう決心して、今日はここに来たのだ。
 武夫は、見覚えのある(というよりも記憶に新しい)少女が、店の入り口に立っているのを見た。一瞬、驚きで目を見開いて固まったが、次の瞬間にはため息が漏れた。
「また、お前か」
 武夫はもううんざりだと言わんばかりに、呆れた顔で優子のほうを見る。もやもやとした嫌な感覚が胸の辺りに起きるのを感じる。武夫は、この感覚が嫌で嫌で仕方なかった。自分が矮小な存在に感じるからだ。
 そんな気持ちを起こさせる少女とは言葉を交わすこともしたくなかったが、そういえば、と武夫が疑問に思ったことが口を突いて出る。
「なんで、コーヒーなんか飲みたい?子どもには苦いだけの飲み物だろうに」
 武夫は、あえて「コーヒーなんか」という言い方をした。普通の(大人の)お客さんには、そんな言い方は口が裂けてもしないが、この場ではその表現が適切だと感じた。いや、この子どもに、そう思ってほしいと念じているような感じだった。
「お父さんに買って行くの」
 優子は毅然とした態度ではっきりと言った。その表情は一寸の曇りもなく、堂々として大人びていた。一連のやり取りを見るに、どちらが大人で子どもか分からなかった。
 武夫は、なるほどと一定の理解をしたが、やはり優子の行動が引っかかっていた。
「買っていくだけなら、飲まなくても良いじゃないか」
 確かに武夫の言い分は最もだったが、優子にとってコーヒーを飲んでからコーヒー豆を買うかどうか決めることは必須だった。なぜなら、コーヒー豆ならば何でも良いというわけにはいかなかったからだ。父親が喜ぶ「苦いけれども、ほんのり舌の上に乗っかるような甘みがあるコーヒー」である必要があるのだ。そのためには、一度、飲んでみないと判断ができない。
 だが、優子はそれを上手く言葉にすることができなかった。確かに言われてみれば武夫の言う通りだったからだ。でも、優子の中では一度飲まなければいけないということだけははっきりしていた。言葉にできないもどかしさに悔しさを感じながらも、やはり毅然とした態度で続ける。
「飲んでからじゃないと決められないの!」
 それは一定、筋が通っている言い回しだったので、武夫も優子が言わんとしていることはわかった。わかってしまった。
 しかし、この優子という子どもにコーヒーを飲ませるのは嫌だった。飲ませてしまうと、武夫は心の柔らかいところを針のような尖ったもので突かれたような気持ちになるからだ。武夫はそれを潜在意識で拒絶していた。
「とにかく、お前に飲ませるコーヒーはない。頼むから帰ってくれ」
 武夫はこの日も、先日と同じように無理矢理に優子を店の外に締め出し、シャッターを下ろしてしまった。連日、閉店時間よりも幾分早い時分に店を閉めてしまうことになり、武夫はとんだ営業妨害だと思った。実際は、武夫が一方的に誤っており、優子が営業妨害をしているわけではないのだが。
 それから数日間、優子が店に現れて、武夫が優子を帰すという日々が続いた。「コーヒーを飲ませろ」「お前に飲ませるコーヒーはない」の押し問答で、全くもって進展しなかった。断り続ける武夫も武夫だが、断られても一向に諦める気配のない優子も優子で大人気なかった(大人ではないから、大人気ないという言い回しが正しいのかわからないが)。
 こんなことを繰り返すうちに、武夫はコーヒーを飲ませてしまったほうが、かえって楽になるのではないかと思えてきた。優子と毎日のように顔を合わせるほうがよっぽど苦しく、辛いのではないかと感じ始めていた。
「明日来たらさっさとコーヒーを飲ませてやって、それでお終いにしよう。それがいい」
 武夫は、そう決心して、次の日、優子を待ったが、待てど暮らせど優子は姿を見せることはなかった。とうとう久しぶりに通常の閉店時間まで営業をしてしまった。

【三】
 武夫は優子を待ったが、優子は、明くる日も、そのまた明くる日も姿を見せることはなかった。平穏な営業日が続いていた。だが、武夫の心の中は、まるで平穏ではなかった。
 武夫は思い出す。六年前とそれからそこに至るまでの数年間の苦くも甘いひとときを。深煎りコーヒーに、角砂糖を一欠片溶かしたような、そんな日々を。
 その当時のことが頭を過ぎると、胸焼けがするように苦しくなる。武夫は、その記憶を必死に心の押入れの隅っこの方に押し込めていた。しかし、ここ最近の一連の出来事が、武夫の押し入れを無理矢理にこじ開けて、記憶を引っ張り出そうとするのだ。
 六年前まで、武夫には妻と娘がいた。当時、娘は八歳。小学校に上がり立てで、お金も手もかかる年頃だ。妻は、そんな娘を育てるため、育児をしながらパートにも出ていた。
 武夫はというと、その当時も自家焙煎珈琲屋として自営業を営んでいた。むしろ、今よりも熱心に仕事に打ち込んでいた。毎日、豆を焼き、お客さんにコーヒーを振る舞っていたが、とてもじゃないが家族二人を養えるだけの利益はなかった。そういうわけで、妻も子育ての傍ら、なけなしの生活費を稼ぐためにパートに出ていたのだった。
「お父ちゃん、コーヒー淹れて!」
 娘は、武夫の淹れるコーヒーと香り、そして武夫のコーヒーを淹れる姿が大好きだった。仕事人間の武夫の気を引けるのが、コーヒーを介してだったというのも大きな理由の一つだ。つまり、端的にいうと、娘は武夫に構ってほしいのだった。
「おっ、コーヒー飲むか?よし、淹れてやるから待ってろ」
 武夫も武夫で娘のことを愛していたから、娘がコーヒーをねだってくることにはまんざらでもなかった。武夫にとっても、仕事の合間の娘とのコーヒータイムは、何よりの至福の時間だったのだ。
 武夫がコーヒーを淹れてやると、娘は小さなその両手でコーヒーカップを支えながら口に運んだ。少しだけ啜って、コーヒーカップを机の上に戻した。娘は毎回、明らかに苦そうな顔をするのだが。
「お父ちゃんのコーヒーは、苦いだけじゃなくて何か違うよね!」
 何が違うのかよくわならないけど。と、娘は付け足して言ったものだか、やはりその表情は苦味に引き攣っていた。
「無理して飲まなくて良いんだぞ」
 と、武夫は苦笑いを浮かべながら、娘の小さな頭に骨張った大きな手を置く。毎日、焙煎機を回している年季の入った手だ。
「無理してなんかないもん!本当だもん!」
 そうかそうか、と武夫は苦笑いのまま、どこか愛おしそうに娘がコーヒーを少しずつ啜るのを見ていた。そんなひとときが、武夫と娘にとっての幸せな時間だった。たが、その幸せは長くは続かなかった。
「他の仕事を探さないなら、あなたとはこれ以上やっていけないわ」
 妻は、呆れたような疲れたような表情で武夫にそう言い残し、娘を連れて家を出て行った。娘の親権は、妻が持つことになった。それ以来、武夫は娘とは一度も顔を合わせていない。
「俺には、これしかないんだよ」
 武夫は、コーヒーに心底惚れ込んでいたし、他の仕事に移る気もさらさらなかった。というよりも、他の仕事を経験したことがなかったため、コーヒー以外の仕事ができるとは到底思えなかったのだ。
 そんな自分に嫌気が差したし、情けなかった。妻と娘を守れなかった悔しさと、自分への不甲斐なさに涙が頬を伝った。涙は溢れて溢れて止まらなかった。
 頬を伝ったひと雫の涙が、武夫の口に入る。その涙は、コーヒーで出来ているかのように苦く感じられた。

【四】
 優子が店に最後に来た日から、およそ一ヶ月が過ぎた。この一ヶ月間、武夫はぼんやりと夢の中にいるような感覚で過ごしていた。目の前のお客さんにも集中できず、「あー」とか「おー」とか言って、ろくに会話もできないような状態が続いた。
 それは、紛れもなく優子が引き金となっていた。あの少女の元気いっぱいな声が、少し怒ったように眉間に皺を寄せる表情が、武夫の脳裏にこびりついていた。「おじさん!私にコーヒーをください!」。その言葉が、何度も何度も、あの少女の声と表情で脳内再生される。
「おじさん!私にコーヒーをください!」
 ああ、まただ。とうとう目の前に、あの子どもの姿が見えるようになってしまった。俺はそろそろ本当に駄目なのかもしれない。今日は店仕舞いにして、寝てしまおう。
 武夫は意気消沈して、店の前まで出る。シャッターを閉めようと、シャッターに引っ掛けるための長い棒を手に取った。そのとき、背中から、慌てた様子の男性の声がかかった。
「すみません!うちの娘が入ってしまったようで。もう、閉店の時間でしたか?」
 振り向くと、丸眼鏡をかけた30代後半と思しき男性が、膝に手をついて方を上下させてこちらを見ていた。どうやら、走って来たらしい。その顔は、どこか優子に似ていた。
「あ、いや、まだ大丈夫ですよ」
 武夫は我に返って、店内に目をやる。すると、そこには無垢な笑顔でこちらを覗き込む少女がいた。優子だった。

【五】
 優子と優子の父親はカウンター席に座り、武夫はコーヒーを淹れていた。開店当初から使っている手挽きのコーヒーミルを回して、コーヒー豆を挽いていく。
「うちの娘がご迷惑をおかけしたようで。何度も押しかけてしまいすみません」
 コーヒーミルを回すと、金属が軋む音が店内にこだまする。優子の父親は、申し訳なさそうに苦笑いを浮かべて、罰の悪そうな顔をした。「一人でやってきた子どもに、コーヒーなんて飲ませないですよね」と、武夫の対応に理解を示した。
「あ、いや、まあ」
 武夫は、挽き終わったコーヒー粉を、ドリッパーにセットされたペーパーフィルターに移しながら、歯切れ悪そうに答える。
 コーヒーは子どもに飲ませたらよくないから、そんな正当な理由で優子にコーヒーを出さなかったわけではないからだ。それは、完全に武夫の個人的な理由によるものだった。
「この子は、僕にコーヒー豆を買って帰りたくて、それでマスターのお店に通ってたんです」
 私が、コーヒーの本当の良し悪しは実際に飲んでみないとわからないなんて言っていたものですから。と、これまた申し訳なさそうに、頭を掻きながら優子の父親が言う。
「それはよくわかりますよ」
 これは、武夫の本心でもあった。どうぞと、武夫は今しがた淹れたコーヒーを、優子の父親の前に差し出した。
「うわ!ありがとうございます!美味しそう」
 優子の父親は、コーヒーカップを鼻に近付けて、香りを楽しむ仕草をする。おお、と自然と口からため息が漏れた。
 そんな父親の姿を見て、優子も満面の笑みで微笑んだ。優子にとって、この時間が何よりの幸せだったからだ。
 優子の父親は、コーヒーを一口啜ると、これだこの味だ、と頷く。年季の入った丸眼鏡を曇らせながら。
「実は、こんなことを言うのも何なんですが、この子には母親がいなくて。僕一人で育てて来たんです。ろくに構ってやれなくて。それで、先日も、僕が仕事に出ているうちに、マスターのお店に押しかけてしまって」
「そう、だったんですか」
 武夫は相変わらず歯切れが悪い。奥歯に物が挟まったような言い方だ。
「生活に余裕があるわけでもないので、どこかに連れてってやることもできなくて。でも、僕も娘もコーヒーを一緒に飲む時間だけは、楽しみにしているんです」
 さっきまで申し訳なさそうにしていた優子の父親の表情が、花びらが開いたように明るくなる。
 ほんのたまに美味しいコーヒー豆を買っては、家でコーヒーを淹れていること。そのコーヒーを優子が飲ませてくれとせがむこと。少しだけにしとけよ、と言いながら飲ませてやること。優子が苦そうな表情をしながら、強がって最後まで飲むこと。
 まるでその情景が目の前に浮かび上がるかのように、ありありと説明をする優子の父親は、幸せな表情に満ちていた。
 優子の父親は、そこで咳払いをして気を取り直す。少しばかり熱く語ってしまったことに、恥ずかしさを覚えながら。それから、少し申し訳なさそうな表情をして。
「だから、今日は、この子にコーヒーを飲ませてやってくれませんか?」
 武夫は、優子のほうに目をやる。優子も武夫のほうを見ていた。自然と目と目が合う形になる。
「おじさん!私にコーヒーをください!」
 いつもの元気はつらつな、少し怒ったような、でも、胸を張って大人びた表情で言う。それが、武夫には何故だか少し可愛く、愛おしく感じられた。同時に郷愁の念にも駆られる。
 武夫は真一文字に結んでいた口元を緩めて、顔を綻ばせた。肩の力が抜けたように柔和な表情だった。
「今日は特別だ。お父さんも一緒だからな。約束したしな」
 それを聞いた優子の顔が、花火のように輝く。武夫は言い終える前に後ろを向き、年季の入った手挽きのコーヒーミルでコーヒー豆を挽き始めていたが。
 武夫は背中で、コーヒーを片手に笑い合う親子の会話を聞いている。幸福に満ちた娘と父親の会話を。
 コーヒー粉にお湯を注いでいる武夫の頬に、一筋の涙が伝って口を湿らせた。やはり、その涙の味は苦かったが、どこかほんのりと甘くも感じた。武夫がこの親子に淹れるコーヒーの味のように。

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