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見ないフリの嗜虐性

動物の捕食動画には格闘技のKOシーン以上に異常な再生数のものが多いが、人はそれを語らない。捕食動画をよく観ていると言えば、「実はあいつ残虐だったんだな」とか「頭おかしいから近寄んのやめようぜ」とか「キミは心理学的に危ういぞ」とか、もはや犯罪予備軍だとすら思われやすいからだろう。

ただ、この類の動画を観るときの感覚は独特である。無視できない。看過してはならぬ気がする。

例えばある鳥類の巣でかわいい雛が口を開け、親の嘴から与えられた幼虫を飲み込んでいる。しばらくして親鳥が去り、そこに別の鳥類が襲いかかる。親かと勘違いした雛は開けたその口を何度も啄まれ息絶える。ゾワッとする。この「ゾワッ」は一概でなく、分解できる。

まず、あまりに直接的な弱肉強食の現場を目の当たりにする希少価値への興奮がある。「怖いもの見たさ」だ。次に、喰われる側への感情移入による恐怖がある。最近の漫画で言えば『進撃の巨人』や『九条の大罪』や『地獄の教頭』や『ザ・ファブル』のように、圧倒的な暴力を受ける視覚的な光景から被害者になる想像が湧き起こり、身震いする。自分が死ぬまで殴られたら。生きたまま喰われたら。鼠蹊部が縮む。目を覆いたくなる。この時点で「観ない」と決めるのも当然だと思うくらいに心が騒つく。

しかし、その先に、喰う側への感情移入がある。この類の動画をして人に語らせない原因の大部はおそらくここにある。動物的な嗜虐性が刺激されたことへの危機感だ。

この自分の中に眠る嗜虐性とどう付き合うかは、社会的な問題になる。そのまま発揮すれば即刻社会から退場させられる。一生剥がせないレッテルが貼られる。ならば見て見ぬフリをすればいいのか。そうは思えない。当然人間社会においても歴史的に発揮され続け、今なお戦争犯罪が、いじめが、動物虐待が幼児虐待が、マウンティングが、消える気配すらないからだ。自分が意図的に無意識に加害者にならないと言い切れるわけがない。

そして嗜虐性は中毒性を伴う。動物虐待をする者や暴力を振るい収監された者の手記には、嗜虐性の自家中毒に陥って抜け出せなくなった過程が描かれる。自分の中にも嗜虐性と、嗜虐性を押し殺したいと、虐げられるものを守りたいと思う「嗜虐性への嗜虐性」がある。非常に危ういバランスをとりながら社会生活を送っていると気づく。

しかし、誰かに教え込まされた善悪の基準に無自覚であるほうが危ういと思う。加害者でも被害者でもない状態とは何なのか。自分の感覚を取り戻してバランスをとり直すには、加害者の論理と被害者の論理の双方を読もうとするならば、自身の両極の範囲を知らねばならない。どちらもが自分の中にあると、自分自身が世界の縮図であると痛感せねばならない。

特に表に出ないのは、理解されにくいのは、加害者の論理だ。喰われる鳥には断末魔を伴いつつ受け容れるしかない悲嘆が色濃いが、喰う鳥にはコントロールの余地があるように見える。喰う意志があるように見える。捕食動画を観ることでわたしはどちらかと言えば、自分が加害者になった状態を強い鳥類に代理させている。加害側へ振り切れた先の姿を見ようとする。

そして喰う鳥も、別の動画では喰われている。わたしはなんらかの場面で強者になり、別の場面で弱者になる。きっとすでに両方を何度も体験している。この先それにできる限り自覚的であれるように、バーチャルに呼び覚まされた嗜虐の中毒性を自ら断ち切るように、わたしは動画アプリを閉じる。

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