見出し画像

ことばの旅

あてのない文字列を並べていく。
      
Twitterは、人と人が、言葉で何を交換し、何を得て、何を失い、何を増やし、何を減らすかを見せるバーチャルリアリティの世界だ。俺はその言葉の宇宙で田中泰延という星を見つけた。彼は「ボケは仮説だ」と言う。些細な事象をベースに、彼は突如ボケという光を暗闇に放つ。
      
ボケの光に寄せられたフォロワーという衛星がさらなるボケを重ねて小爆発を起こし、その爆発に刺激された「泰延系」の外にいる人々が爆発を重ねる。全体として円周を拡大し続ける無数の打上花火が如く輝きを増し、超新星爆発のようにボケが熱的死を起こし収束していく。この超新星爆発を見て人は「バズ」だとかいう。
     
「泰延系の星々」は何をやっているのか。私は「ことばの旅」に見えるのだ。言葉の一般的な意味定義を外れた別の可能性を見出す旅。検証されることのない仮説。究極の予定不調和へ突き進む目的地なき集団的特攻。それは「日常の外」へ出ようとする行為であり、端的に言えば「旅」ではないか。
      
日常とは「こうすればこうなる」因果の世界だ。俺がマニュアル的成功法則や効率や生産性の追求を息苦しく感じるのは、仕事を予定調和の世界に取り込んで日常化しようとする行為に思えるからだ。「本はマーケティングから最も遠いところにある」という #ロバートツルッパゲ に俺は体感的に共感する。
      
著者と編集者の人生の旅の交差点で生まれたflybyの可能性がどこまで世界に受け容れられるかを証明する新たな旅に、予定調和ほどの阻害要因もないだろう。どうせ死ぬ身なら、どうせ宇宙の藻屑なら、自分を中心に置いた同心円の拡大と反比例してどこまでも小さくなっていく自分を笑いながら死にたい。
     
旅の話だ。旅とは何か。「予定不調和と偶然を愛する心があれば、それは旅になる」と、岡田悠という書き手が言った。物理的に遠くに行くことが旅なのではない。日常の中に非日常をこじ開ける行為は全て旅になりうる。人は生まれた瞬間にそれぞれの旅に放り出される。終幕を約束された旅に出る。表裏一体の生死の狭間を拡げる旅に出る。止まれば終わる旅に出る。
       
モスコミュール、シャンゼリゼ、ブルックリンから対岸のマンハッタンへステップしてヨコハマへ漂着したダイヤモンドプリンセスの悲劇を、都市を超えた超新星に預ける。とりあえずカクテルとウィスキーの旅に出る。旅と思えばそれは旅だ。旅が人生の比喩なのではない。人生そのものが旅なのだ。

眠りのために作られたゴールドベルク協奏曲が覚醒を促す。冷静と情熱、昏睡と覚醒、健康と不健康、喜びと悲しみ、生きることそのものが対極を往復する反復横跳びであり、戻れない可能性を引き受けて伸ばす未知の足長が生み出す空間のすべてが生と死の狭間にある。

俺は旅の本を作ろうと思う。

今も昔も、そしてこれからもずっと、ことばの旅の中に在る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?