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最後まで母だった母と、いつまでも子どもだった俺。

うまくまとまらない。
ただ、書いておかないと、
きっと、母の死に際して自分が何を考えていたのか、忘れてしまうような気がする。
この1年を振り返ることで、今の気持ちを残しておきたい。

「胃がんやった。もう、手術もできないって、、、」
2020年9月、普段電話をしてくることのない父が、珍しく電話をしてきて言った。
歳だからとかではなく、もう手術で取り除けるような状況ではない。そんな話だった。

あまりにもご飯が飲み込みづらいから診てもらう。
そう言って近所のクリニックを受診した母に、CTを撮った医者は、

「すぐに総合病院で診てもらってくれ。去年の画像と違いすぎる。」

定期的に近所のクリニックに通っていたことも、
毎年、そこのクリニックで検査してもらっていたことも初めて聞いた。
(てか、そのクリニックCTあるんか?すごいな)
とにかく、その場で、紹介状を書いてもらい、近くの総合病院へ行った結果、そのまま入院となったそうだ。

手術ではどうしようもない。
つまり、他の場所に転移しているか、胃を突き抜けてしまって広がっているということか、、、などと思いながらも、
「今すぐ行くから」
「それがな、このコロナの状況やろ、俺かて着替え持って行って、受付で看護婦さんに渡すだけや、、、」
「そうかぁ、、、わかった」と、ほわっとした返事をして、電話を切る。

実家を出て30年、実家との連絡はそんな感じだった。
お互いに要件を伝えるだけ、そんな電話。

変化があったとすれば、うちの子どもたちがしゃべるようになって、
母と話をすることが増えた程度。
どうしてる?なんて、何も用事がない時に電話なんてしたことなんてなかった。

それでも、抗がん剤の周期に合わせて退院してきた母は、
抗がん剤で髪の毛抜けたとか、吐き気がきついとか、文句を言いながらも、電話をくれて
うちの子どもたちとは、学校はどうだとか、いつものように話をしていたようだ。

年末、実家に帰ろうと思っていたけれど、
感染拡大しており、万が一自分が父母に感染さえせてしまうことを考えると、
実家に帰るわけにはいかなかった。

「お前が大学行ってた時の仕送りの郵便局の口座に〇〇円入れといたから、
孫たちの大学行く費用の足しにして」
まだ寒かった頃に、突然、電話口で母が言った。
年金暮らしの両親がなんでそんな大金を持っているのか?全く意味がわからなかった、、、
「仕送りの口座って、また、懐かしいな。キャッシュカード探してみるけど、、、急にどうしたん?」
「上の子もそろそろ高校受験やから、ちゃんと準備しておかな、、、」
「そうか、、、ありがとう」
いきなり、なんなのか、整理できないまま、そうか、じゃあ、こどもNISA口座でも作るか、、、なんて考えていた。

春休みが近づいた頃、やっぱり、感染は拡大していて、
会いに行ける状況じゃなくなっていた。
GWには、おさまってるかな?なんて言っていたら、GWにもおさまらず、
夏休みには家族みんなで行けるといいね。と、どんどん先送りされていった。

そんな7月頭。やっぱり父からの電話だった
「ちゃんと話ができるのは最後かもしれないから」って母が言うから帰ってこい。
驚いて、慌てて週末に一泊の予定で1人で実家へ。

実家に着くと、どちらかというと、ふっくらしていたはずの母は、痩せていた。すごく痩せていた。
そうだ、胃がんで死んだ母方の祖父のようだ。よく似てる。そんなふうに思った。
「昨日、やっと、介護保険の認定もらって、介護保険でベッド借りてん」
なんて、電動ベッドを操作しながら、笑っていた。

話ができるのは最後かもしれない。って言われて飛んできた俺に母が話してくれたことは、
如何にうちの父が破天荒な暮らしをしていたか、という話だった。
パチンコが電動になる前にパチンコにハマっていたことも、競馬好きだったことも知っていたけれども、うまく言えないけれど、そんな程度だと思ってた。
母の話す父は、俺が全く知らない父で、なんていうか、春團治かよ!みたいなすごい破天荒な男の話だった。

そんなことより、体調はどうなんだ?痛いとかないのか?って聞いても、
ちょっとお腹が張ったりして気持ち悪いことはあるけれど、それくらいかな?
なんて、笑いながら話していた。

それでも、色々辛くて、今までやってきたように体が動かない。そう言いながら泣く母に、
いやいや、これまで完璧にやり過ぎてたんや、気にせんでもええ、のんびりしたらええねん。
そんな話をした。

晩御飯用意するのも大変だからと、父が駅前の王将まで餃子を買いに行き、
さぁ食べようか?とか言っていると、2階から降りてきた母は、
足りてるか?卵焼くか?お茶あるか?漬物あるけど食べるか?明太子はどうだ?
と、いつものように、俺の世話を焼き、父とビールを飲みながらバカ話するのを笑いながら見ていた

翌朝、いつものように、母が用意してくれた朝ごはんを食べながら、
「そういえば、俺も明日職域でワクチン打てることになったんだ。うちの奥さんも水曜日に打てることになった」
そんな話をして、自宅に戻る。
「おかあさん、どうだった?」
と、心配してくれるうちの奥さんには、
いつもと同じで、そんなに大変な感じなかったよ?いつも通り腹一杯飯食わされたし、家も綺麗にしてた。
なんて話をした。

オリンピックが始まろうか、と言う頃、またしても父からの電話。
「先生が、赤十字病院の緩和ケアってところに移ったほうがいい。って言うから、移ることになった」
「いや、そもそも、いつから入院してんねん?」
「9日から」
「俺が行ってすぐじゃないか?そんなに悪かったんか?」
とか、そんな話で、緩和ケアの病棟に転院した。

「だから、もう眠らせてほしい(西智弘)」を読んでいたので、
緩和ケア病棟とはどう言うところなのか、理解できていた。

つまり、急性期の病院では、もう、母にできることはない。と、総合病院の先生が判断したと言うことなのだ、、、と、頭では理解しながらも、気持ちが追いつけなかった。
だって、この前会った時は、あんなに元気だったじゃないか、、、、

ワクチンの2回目を打って、これでワクワクチンチンなどと思っているところに、やっぱり父から電話。
「緩和ケアの先生が一度話をしたい。お母さんと話をできるのは最後かもしれないから、ぜひ来て欲しいって言うから、明日来てくれ」
「わかった、明日15-17のお見舞いの時間に病院行けるように行くわ」
なんて言っていたら、そこからワクチンの副反応に苦しみ39度の高熱で朝を迎える。
とてもじゃないけれど行けないし、そもそも熱があっては病院にも入れてもらえない。と、
父に電話をし、翌日にしてもらう。

翌日、朝にはすっかり熱も下がっていたので、実家へ。昼飯の準備ができたか聞くと、親父は銀行に行った帰りに買った弁当があるというので、俺も駅で弁当を買い、2人で実家で食べる。

「ビール飲むか?」
実家に帰るといつもビールだ。晩酌の習慣のない自分にとっては、別にビールはいらないのだが、親父は俺とビールを飲むのが楽しいというか、そもそも、大人はビールを飲むものだ。とすら思っている節がある。
「あ、ごめん、俺、先週、人間ドックでピロリ菌がおるからこのままやったら胃ガンになるで、言われて、除菌の薬飲んでてビール飲んだらあかんねん。これまでは無視してたけど、さすがにな、、、、」
「そか、ほな、お茶入れようか?」

と、父が準備をしながら、ぶつぶつ言っているので、どうしたのか聞くと、

あのな、お湯は今やかんで沸かしてる。急須はここ。お茶っ葉もここにある。でもな、いつも、確か、お茶っ葉を袋に入れてたはずなんだけど、その袋どこや?

って言いながら、あちこちの引き出しを探してた。
俺の頭の中で、槇原敬之の「もう恋なんてしない」がフルボリュームで流れていた。


15時から面会時間やから、そろそろ行こかと、2人で病院に向かう。病院に向かうバスの中で
緩和ケア病棟っていうのは、死が近づいてきた人の痛みをとることで苦しむことがないようにしてくれるところだから、きっと、先生の話は、薬を強くするから後は眠るようになりますよ。ってことじゃないか?
なんて話をする。
そうか、「緩和」ってそういうことか、、、と言っていた父は、緩和ケア病棟がどういうところなのかは、わかってなかったのかもしれない

病室に入ると、母は、ぐっすり寝ていた。すこー、すこーと、寝息が聞こえる感じで、ぐっすりだった。鼻に酸素のチューブがあったので、息苦しかったのが楽になったからよく寝てるのかなぁ。なんて親父と話をする。

昨日までは、15−17の面会時間だが、の駅まで無料のシャトルバスの最終が16時なので、16時になると、もう時間だから帰れ!っていう程度には元気だったらしい。

看護師さんがやってきて、あら息子さん?お母さん寝てはるけど、起こそうか?とか言って、起こしてくれるが、
「息子さんきましたよ!」
「お袋、来たで」
目がゆっくり開き
「ああ、来たんか、、、、ごめん、な、、、」
一言二言喋って、また寝てしまう。
それにしても、7月に会った時よりもさらに痩せてるな。食えてないんだな、、、なんて思いながら、病室で過ごす。

病室は、明るく、天井は高いし、暖色系で、ちっとも無機質な感じはしない、なのに、うまくいえないけれど、母から感じる、圧倒的な、死のイメージ。とにかく、痩せたのよね。この前も痩せたなとは、思ったけれど、そこからもう二回りくらい痩せて、ほんとに骨と皮な感じ。

担当の先生が、外来に行かれているということで、戻られたら先生と話しましょうね。と看護婦さんが伝えてくれてから、ちょっとして、呼ばれたので、部屋へ。

なんというか、物腰の柔らかな、先生で、なんか、病棟の雰囲気とあっていた。
せっかく呼んでいただいたのに、ワクチンの副反応で高熱だったのですみません。なんて話をしつつ、
炎症の数字が高くなっていっていること、熱が上がっていることから、前日から解熱剤を増やしたこと、医療用の麻薬も増えていっていることなどを聞く。やはり、薬の量を増やすのでしっかり話をできる最後かもしれませんよ。と呼んでくれたようだ。

お父さんとは入院以来何度かお話しさせていただいていますが、息子さんから何かありますか?

と、聞かれ、

うちの母は、父の妹、母の父母が癌で入院している時に、毎日見舞いに通って、癌になって病院で死ぬ。というのがどういうことか見てきたんです。20年以上前の話とはいえ、痛い痛いというのをさすってやる事しかできないのを看取ってきました。だから、痛かったり苦しかったりしないようにしてやってください。

もう、なんか、泣けてきて、ちゃんと言えてたかどうかわからなかったけれど、

大丈夫ですよ、ここはそういう場所ですから。

って言ってくださった。そう、そういう場所で最後が迎えられるのだ。すごく安心した。

他にも、新型コロナに対する恨みとか、お袋がガンになって初めて担当してくれる医師に会えたのに、緩和ケアの医師という悔しさとか、7月頭に元気に今まで通りの母を見せてくれたこと自分自身で長くないことをわかっていたんじゃないかとか、そんな話もしたかもしれない。

これからのことをお話ししましょう。

と切り出した先生は、

9月を迎えられない。と思ってください。いや、9月というよりもお盆を越せるかどうか、そういう状況です。

ある意味予想通りだった、、、、とはいえ、目の前にいる医師から言葉として出てくると重い

一緒に聞いていてくれた母担当の看護師さんと部屋に戻りながら、

正直、何かあってもこの距離では間に合わないと思う、看護師さんに会うのはこれで最後になるかもしれないけれど、母のことを頼みます。

と、お願いする。

やっぱりぐっすり寝ている母に声をかけ、病院を後にする。

病院のシャトルバスは終わっている時間だったので、病院敷地の外にあるバス停まで歩く。
「それでな、もう、葬式も身内だけ、家族だけでやろうと思うねん」
突然、何を言い出すんだ親父は?とか思ったけど、親父も覚悟を決めているのだろう
その覚悟に乗っかる。
「そうやな、親父の兄弟とお袋の兄弟と、うちの家族と、それくらいでええんちゃうか」
「それでな、兄貴に相談したら、お盆はお寺さん忙しいぞ。ってわろとった」
「こういう時に何をしたらええんかさっぱりわからんな。お袋が全部やってたもんなぁ、、」
「あ、そうや、お前、葬儀屋かなんかの書類がどっかにあるって聞いてるか?」
「それ、7月に来た時、ベッドのとこの押し入れの引き出しに、、、って言ってたで」
「色々メモに書いて残してくれてるんやけど、違うところって書いてあったな、、、ほな帰ったらさがそか、、、」
思ったよりも、親父は、受け止めれているようだ。

家に帰ってきて、7月にお袋が親父の破天荒時代の話をしてくれたよ。とか言いながら晩飯を食う。細かい破天荒エピソードについてどれも否定しなかったから、事実なんだろう。
ただ、2人して一致したのは、お袋の言う「お父さんは外の人で、私はウチの人」と言うのは、まさにその通りで、母が家のことをしっかりやっていたからこそ、親父は外で、
破天荒なことも、そうでないいろんなボランティア活動も、なんでもやってこれたのだ。
PTA役員、PTAソフトボールチーム、青少年指導委員、防犯委員、福祉委員、地域の老人会役員、登下校見守りボランティアなどなど、お袋が、お父さんはええかっこしいやからなんでも引き受けてしまうんだ。ってぼやいてたけど、
なんで市議会議員やらへんねん、俺が2000票くらい集めてやるがな。
そういってくれた人もいたくらい、地域のために活動してきたのだ。

とにかく、家のことだけは完璧だった。ガンになってしんどいのに、毎日毎日階段拭き掃除して、ほんま、ようやってくれた。

そういう親父に、

なぁ、親父もええかっこしいのとこあるけど、おふくろもそうなんちゃうか?
この前、7月に帰ってきた直後に入院したって言ってたけど、実際俺が帰ってきた時も俺に腹一杯飯を食わせることに必死やったし、こんなにしんどいのに、家中ピカピカやし、ジャガイモと玉ねぎの備蓄がたくさんある。お袋のプライドとして、母として妻として、ええかっこしいやねんで

なんて言ったら、親父はそうかもしれんなぁ。とか言いながら、いつの間にかビールじゃなくて焼酎の水割り飲んでた

そんな話をしていたら、母の妹である、おばさんから電話があって、
今日はずーっと、寝てたよ。なんて言ったら、驚いて

どうして!昨日はねーちゃんから電話くれて、いっぱい話せて嬉しかったのに!

そう、うちの母は、最後まで、妻として、母として、姉として、見せたい姿を見せれたんだなぁと、なんだか、納得できたのでした。

その納得は、自分にとって、母の死と向き合うことから逃げる魔法だったのかもしれない。
自宅に戻って、会社の上司に8月中は突然休む可能性があるから、仕事を減らしてくれ。とお願いし、進行中の案件でもリーダーには同じように話をした。おかげで、仕事が減ったので、逆に、仕事以外のことを考える時間が増えてしまって、いつ電話があるかわからない。とビクビクしながらも、母は最後までちゃんと母だったのだ。そんな思いが、母の死を現実感のないぼやっとしたものにしていたんだと思う。

そう、その日は、突然やってくる。8月18日21時。病院から電話がかかってきた。

あまりよくない状態です。息子さんは遠いところにいらっしゃるので、急がれた方がいいかもしれない、、、

そんな話だった。
実家にも電話したけれども、繋がらない。と言う話だったので、実家に電話をすると、親父は風呂に入っていた。

とにかく、病院から電話がかかって来たから、状況を確認しろ。って言って病院に電話をかけさせる。折り返しかかって来たら、今すぐどうってことじゃない。ってことだったので、安心して寝る。

翌朝5時。伯母からの電話で目が覚める。「病院にいる親父」から、いよいよダメだ。と連絡があったらしい。あれ?親父なんで病院にいるの?とか思ったが、とにかく、オロオロしながら、出かける準備をする。

準備をしているところに、親父から電話。

05:38、確認しました。9時ごろまでしか病院に居られへんそうやから、これから葬儀屋に電話するから、お前ちゃんと服持ってこいよ。それから、お前1人で来い。こんな状態でお前の子どもらが「夏休み、おばあちゃんち行ってきた」って言おうもんなら、まわりに何を言われるかわからんから。

親父は、こういう時、オロオロしそうなのに、しっかりしているな。と思いつつ、俺はオロオロしているので、準備が進まない。なんとか用意をして出かける。

葬儀場の控室的なところにつくと、さらにお袋が小さくなってた。
線香に火をつけて手を合わせる、そのことで、急に母の死が現実としてのしかかってきた。

お袋が、こんなに小さくなってしまう前に、なんで帰ってこなかったのか、大学入学と同時に実家を出て30年、本当に自分の人生これでよかったのか?責め続けた。耐えられなかった。それでも、ええかっこしい家族の一員として、泣いてられなかった。

父の兄とその家族に会う。
久しぶりだな、何年ぶりだ?そうか、ばあさんの葬式以来か、もう、15年になるか?
そんな話をしながら、その15年前のことを思い出した。生まれたばかりのうちの長男を連れて行くことができなかったので、うちの奥さんは欠席してた。そういえば、結婚式は夫婦と両家の両親だけでハワイでやったから、そもそも、うちの奥さんをちゃんと紹介できてない。今回もそう、コロナの問題があるから、俺1人で来た。

誰が悪いわけじゃない、その時その時で、最善の選択をして来たつもりだ。それでも、この30年間の俺の行いは正しかったのか?親の死に目に会えない、何かの報いじゃないのか?最後の最後まで、お前の思う通りにしたらええよ。そう言う、お袋に甘えてたんじゃないのか?責め続けた。

出棺の時、列席していた親族が先に部屋の外へ出て、お寺さんと俺と親父が残り、お寺さんを先頭に、位牌の親父、遺影の俺、そういう形で、進んでいきますけども、まずはトイレにしましょうか。という司会の言葉に、親父がトイレに行った時だった。


長男さん、遠くから来られた。ということですけど、間に合われたんですか?

と、お寺さん

辛かった。なんて答えていいかわからなかったけれど、

間に合いませんでした。家を出て30年間、何もしてやれなかったんじゃないか?って後悔してます。

涙が、溢れた。

お寺さんは、その時は、何か答えたのか、答えなかったのかもはっきり覚えてない。けれど、お通夜から、葬式にかけて、泣いたのは、その時だけだったと思う。

出棺、お骨あげ、初七日と、無事に進み、お寺さんが、話を始めた。7日ごとに修行をして、極楽浄土に行くんです。というような話だったと思う。まぁ、それはいい。

実は、出棺の時にね、旦那さんがお手洗いに行かれている少しの間お話ししたんですけども、長男さんが家を出て30年間後悔してる。っておっしゃった。

と、あの懺悔の話を、始めた。一体なんの話か、と、緊張しながら聞いていたし、仏教の難しい言葉とともに話をされたので、どういう言葉だったのかは覚えてない。ただ、彼の言ったことは、

先輩に奢ってもらったのなら先輩に返すのではなく、自分が先輩として後輩に奢ってやれ。
という話は、親子関係にも有効だ。30年前にそうやって家を出て暮らす自由をもらったのなら、自分の子どもにもそういう自由をあげなさい。

そういうような話だった。俺がそう受け取った。という話なので、先輩とか後輩とかは言ってなかったし、なんか、もっと難しい言葉だったけれども、とにかく、そういう話だった。

救われた。
すごく腹落ちした。

最後の最後まで、俺が腹一杯かどうかばかり気にしていた母に、与えてもらうばかりで、ひとつも返せてなかった。母は最後まで母で、俺はいつまでも子どもだった。そう思っていたけれど、それでいいんだ。そう思えた。

慌ただしかった週末が明け、
健康保険、介護保険、市営バスのバス券、年金などなど、役場に申請しなければならないものを一通りこなした後、飯を食いながらビール飲んでた時、

「おい、初七日の後、お寺さん、出棺の時にお前と話をした。って言うてはったやろ?あんな話したんか?」
「親父がトイレ行ってる時にな、間に合ったのか聞かれてな。そんな話したんや」
「そうか、今回、兄貴の家のそばのいつものお寺さんが都合つかへんかったから、別のお寺さん来てくれたやろ?どんな人かおもてたけど、ええ人やったな。あの人やったら任せられるわ。なぁ、そう思うやろ?」
「そうやな、あの人やったら、任せられる」
「あのあと、墓の時(市営の墓地に親父とお袋の墓を建てた時)にも来たみたいなこと言うてたやろ?墓の時は石屋に任せてたからわからんかったけど、宗派で探したらあの人が一番近いから、あの人呼んでくれたんかもなぁ。縁やなぁ、、」
「そうやなぁ、縁やな。おもろいなぁ」

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