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あの資生堂のキーデザインデザイン黎明期を支えた山名文夫さん


こんにちは!
デザインこねこの長嶺きわです。

急に涼しくなり過ごしやすいですよね。
朝夜少し肌寒いので気をつけたいです。


休日に、また、パンを焼きました。
パン作りは波があり、作る時は毎週のように作るのですが、パタっと作らなくなり数ヶ月たったりします。不思議です。

今回は、パンドミのリベンジと、ベーコンエピを作りました。

前回の教訓で、ガス抜きのパンチはあまりしなかったのですが、
やはり、ズッシリしてしまい、理想とは違っていました。

ベーコンエピは2本作って、1本はとても美味しくでき、嬉しかったです。


最近、日記をつけ始めました
小学生の頃、母に勧められて6年間日記を続けていましたが、それ以降は書かなくなっていました。
何かコツコツと続けられるルーティンを増やしたいと思っていたこともあり、ちょうど夫がMOA美術館で開催されていた「ポケモン×工芸―美とわざの大発見―」展のお土産として、日記にぴったりのノートを買ってきてくれたのをきっかけに、また始めることにしました。



あの資生堂のキーデザイン

デザイン黎明期を支えた

山名文夫さん

今回は、日本のグラフィックデザインの黎明期を支え、資生堂のキーデザインや紀伊國屋書店のロゴ、新潮文庫の葡萄マークなどを手がけた先駆者、山名文夫さんをご紹介します。


生い立ちから図案家になるまで

山名さんは1897年、広島県広島市に生まれました。少年期から竹久夢二北野恒富オーブリー・ビアズリーに憧れ、模写に没頭したといいます。
1916年、19歳の時に大阪に出て、画家・赤松麟作が主宰する「赤松麟作洋画研究所」に第2期生として入所し、絵画を学びました。同研究所の第1期生には佐伯祐三さんがいました。

20歳になる1917年、同人誌『Chocolate』(チョコレート)に加わり、竹久夢二や北野恒富、オーブリー・ビアズリーらの絵に影響を受けた作品や詩を発表しました。



1923年26歳の時に、「クラブ化粧品」で知られる大阪の化粧品会社・中山太陽堂が併設する出版社「プラトン社」に入社。図案家として雑誌『女性』や『苦楽』の表紙装丁やカットなどに腕をふるいます。同期入社のデザイナーには、同い年の山六郎さん、編集者には、小山内薫さん(築地小劇場の開設者)の推薦で入社し、のちに小説家となる、直木三十五(当時「直木三十二」)さん川口松太郎さんの2人がいました。山六郎さんからは、イラストレーションや漢字のレタリングを学んだそうです。



1924年27歳の時、第一回「大阪市美術協会展覧会」に入選。同年、雑誌『サンデー毎日』(毎日新聞社)に挿画を連載し始めます。

1928年31歳、プラトン社が廃業し、翌1929年32歳、資生堂の意匠部に入社します。

プラトン社で培われた実力がここで花開き、アール・デコ調の「モダン・ガール」を資生堂広告紙上で完成させていきます。大正期の日本に、女性をめぐって起こりつつあった新風俗や新文化にいち早く呼応して、日本の新しい風俗や文化を視覚表現として形にしていきました。1931年、34歳で資生堂を退社し、フリーランスとして独立。同年、「東京広告美術協会」を設立しました。

戦中から戦後まで

1933年36歳の時に、報道写真家・名取洋之助さんが主宰する日本工房(第2期)で対外宣伝グラフ誌『NIPPON』の編集に参加しました(写真家の土門拳、藤本四八、グラフィックデザイナーの河野鷹思、亀倉雄策とともに)。

写真のトリミング、編集レイアウト、欧文レタリングなど、名取さんがドイツで学んだ前衛的な技法を習得します。
これまでデザインを職人的な経験値で会得してきた山名さんにとって、日本工房での仕事は「最も張り合いのある勉強の時代」となりました。



1936年39歳の時に、資生堂の福原信三社長の要請で資生堂宣伝部に復職。福原信三さんの美意識と経営理念に共鳴していた山名さんは、それまでに培った力を大いに発揮し、水を得た魚のように活躍を始めましたが、戦争の激化とともに広告の仕事は減少し、1943年に資生堂を再度退職。その後、森永製菓の新井静一郎さんと報道技術研究会を立ち上げた山名さんは、戦時下で唯一残された広告宣伝であった戦意高揚を図る国策宣伝のデザインに携わり、戦争遂行に協力しました。



教育者としても多くのデザイナーを育てています。

1947年から1967年まで、多摩造形芸術専門学校(現・多摩美術大学)の図案科教授を務め、1965年には、日本デザイナー学院を設立し初代学院長を務めました。



1951年54歳で日本宣伝美術会(日宣美)の初代委員長に就任し、多くのデザイン論を発表するなど、デザイン界の発展に尽力しました。

資生堂の仕事

1945年、48歳で太平洋戦争の終戦を迎え、資生堂に呼び戻された山名さんは、同社再生を賭けた「ドルックス化粧品」のリニューアルデザインに取り組みました。

資生堂のシンボル「資生堂唐草」をデザインに取り入れ、独自のスタイルを確立しました。
1970年には、唐草の起源を求めてレバノンのバールベックにある古代ローマ遺跡を訪れ、その経験を小冊子にまとめました。さらに、1973年には唐草のイラスト集『唐草幻像』を私家版として出版しました。



資生堂がようやく再出発できる環境が整いつつあった頃、福原信三社長は病に倒れ1948年に他界。

山名さんはその理念を引き継ぎ、資生堂のデザインポリシーを後進に指導しました。



資生堂創業100周年という大きな節目を目前に控えた頃の「資生堂のデザイン・ポリシーについて」というタイトルの文書によると、デザインポリシーとは「企業理念のビジュアライゼーション」であり「企業を文明史の中に位置づける能力と方法を持つこと」であると記されています。
そして「企業は単に経済的な役割を果たすだけでなく、文化的な価値で支えられているべき」であると続いています。

戦後の山名さんは、福原信三社長のデザイン・ポリシーを復権させようとする、ディレクターのような立場の印象が強かったそうです。



1969年72歳のとき、資生堂の宣伝部制作室長を退任します。

有名な資生堂の「花椿マーク」福原信三社長が原案を起こし、山名さんが最終的に完成させたものです。
山名さんは、資生堂在職中はもちろん、資生堂退社後も、顧問や宣伝部制作室長として、資生堂の一連の仕事を行い、繊細な女性美を表現し続け「資生堂スタイル」のデザインを確立しました。

1974年77歳のときには、主要な漢字と、ひらがな・カタカナ、欧文アルファベットの書体(タイプフェイス)の手引書(いわゆる、資生堂書体)を作成しています。

資生堂の新入社員のデザイナーは現在も、この手引書をもとに、必ず先輩の指導で、1年間手書き練習して身につけるそうです。

いかがでしたでしょうか?

今回は、日本のグラフィックデザインの黎明期を支え、資生堂のキーデザインを手がけた、山名文夫さんをご紹介しました。


資生堂の、カリグラフィのようなペンで描かれた女性や唐草模様のビジュアルは、

まさに福原信三社長の「RICHなもの、RICHであること」というデザイン理念を踏襲しているデザインだと思います。

RICHとは心の豊かさであり、卑俗=POORなものや表層的な華やかさを徹底して排除してきたこと、そうした理念の集約が資生堂のマークやロゴタイプであり、立ち戻る原点なのだそうです。


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