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建築を仕事にしなかった私にとっての建築学科という最高の環境

ITエンジニア向けの編集者の仕事をしている私が「実は建築学科だったんです」と人に言うと、たいてい驚かれる。そして「なぜ建築の道に進まなかったのですか?」と聞かれるのもよくあるパターンだ。

高校生の時、進路を決めかねていた私は、担任の先生より「そろそろ具体的に進路を決めなさい」と言われていた。当時、吹奏楽部員でコンサートに行くことが好きだったこと、絵を描くことがそれなりに得意だったこと、アートや社会、サイエンスなどさまざまな学問と接続していることから、「コンサートホールを作りたい」と建築学科を志望することにした。

一浪を経て、第一志望の大学の建築学科に入学した私は、早々に挫折を味わった。

新入生向けのゼミとして、音響工学の先生が担当する授業があったので、わくわくしながら「私、コンサートホールが建てたいんです」と話しかけた。その先生は「日本にもうコンサートホールは建たないよ」と言った。私はなんのために建築学科に来たのかとショックを受けた。それもそのはず、コンサートホールは全国各地に建てられ、箱物行政の象徴として扱われているのだ。そういえば、人口4万人にも満たない地元にも市民ホールがあった。

その他の挫折として、設計の課題についていけなかったことが挙げられる。建築学科の授業の花形である設計演習。設計演習は、場所や用途などの条件が与えられ、仮想の建築を設計し、図面や建築パースを書き、模型を作り、コンセプトとあわせてプレゼンするというもの。厳しくもやりがいのある課題だ。最初は意欲的に取り組んでいたものの、課題の難易度が上がるとともに、製図室での和気あいあいとしたコミュニティに馴染むことができず、上級生から個人的に教えを請うていた同級生たちにどんどん差がつけられ、夏休み最終日に宿題を仕上げるような仕上げ方で課題をやっつけ、もう二度と見返したくないと思いながら提出していた。学年が上がるにつれ、CADやCG、Adobeのソフトなどの活用の機会も増えてくる。これらのソフトも独学で学んでいく必要があったのだ。

建築学科に入学する多くは、一度は設計に憧れた人たちだろう。こうした厳しい設計演習によって、設計から脱落する人が多数出てくるのである。私もその中のひとりだった。

さて、当初やりたかったコンサートホールを作ることは難しいし、設計も自分には向いてないと悟った私は、学部生も半ばにして「建築を建てる仕事はしたくない」と感じていた。まちづくりやアートマネジメントにふらふらと興味を持ちながらも、大学最終学年での研究室配属では「建築史学研究室」を志望した。

なぜ建築史だったのか。学部生の最初に受けた「日本都市史」の授業で「(大学のある)京都の街を考察しなさい」というレポートの課題が課された。私は京都の通りについて、市内中心部にある通りを片っ端から自転車で走り、写真を撮り、文献で調査し、通りの特徴を考察した。この先生は絶対に優(最もいい評価)を付けないという評判だったにも関わらず、なんと私は優が取れてしまったのだ。そのことが印象に残っていたのと、きっとあまり志望する人がいないだろうということも相まって、その先生の研究室を志望した。

建築に対してどこか距離をとっていた私。大学卒業後は同じ研究室に進学するイメージも描けず、ふらふらと少し就職活動をし、中途半端に大学院受験をして、進路が決まらないという状態のまま学部を卒業することとなった。

依然として「建築を建てる仕事はしたくない」と思い続けていた私は、建築以外も含めて進学先を考えていたものの、大変ユニークな教授と出会うこととなった。そのユニークさといえば、研究室見学に行った帰り、Twitterにそのときの感想をつぶやいたところ、教授からメールが飛んできて「Twitterに僕のことを書くのはやめなさい。でも君、面白いね」と言われたのだ。どうやら、私のTwitterの過去ログを読んだらしい。教授の行動に驚きながらも、そういう運命のような出会いに弱い私は(もちろん研究内容も面白そうだと思っていたので)、大学院の受験勉強も本腰を入れて取り組み、無事合格することができた。その研究室も建築史をテーマにしている。

大学院での研究室は、都市を歩きながら建築を見て回る、フィールドワークを重要な調査手法として捉えていた。大学院に入学したのは311の直後。震災後の被災地を歩いたり、ジャカルタの過密住宅地を歩いたり、市民と一緒に街を探検したりしながら、世の中に対して何らかの前向きなアクションを起こそうとしていた。

そのような研究をしてきた私は、これまたストレートな道のりではなかったが、現在ITエンジニア向けの編集者の仕事をしている。ときには、これまで建築界隈で学んできた7年間は何だったんだろうと思うこともあったが、今では建築学科で学んできたこと、建築史研究室で体得してきたことが今に生きていると強く感じる。

例えば、挫折を味わった設計の課題。うまくできなかったにせよ、ちょっとしたデザインは自分でできるし、課題に対するプレゼンテーション能力も鍛えられた。編集者という、書き手やデザイナーなど多くのプロフェッショナルを相手にする職業では、自分でちょっとしたものづくりができると作り手の立場も分かるし、意図も伝えやすい。自分一人で設計の課題をやるときにはうまくできなかったが、他のプロフェッショナルの力を借りればいいものが作れた経験は大きな自信になった。

さらに現在、IT業界のさまざまなコミュニティに入り込み、交流ができているのも、レポート課題のために自転車で走り回って街を調査したことや、大学院で各地をフィールドワークしたこと経験が生きていると感じる。いわば私は、IT業界のフィールドワーカーなのだ。

そして、「建築を建てる仕事はしたくない」と思いながらも建築に寄り添い続けてきた姿勢は、今の仕事において、ITエンジニアの当事者ではないながらも彼らに寄り添うアプローチと似ている。建築とITという異なる業界を経験している私は、専門職の人と比べより俯瞰して、異なる概念をつなげる力が他より長けているように感じる。その姿勢は、書き手の持つ専門性の高い情報を、広く読者に届けるために媒介するという、編集者の仕事そのものではないかと思った。

自分にとって建築学科とは、その業界に居続けることには到底興味が持てなかったものの、建築学科で学んだことは非常に役に立っているという意味で、最高の環境だったのだ。


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