【小説】素敵な人

 さちの恋人は素敵な人だ。
 優しくて、真面目で、ちょっとユーモアに欠けるところもあるけど、穏やかで紳士的な、いい人。
 一流企業に勤めて、広すぎずそこそこ立地の良い1LDKに住んで、すらっとした体にセミオーダーのスーツをまとっている。顔は取り立ててかっこいいわけじゃないけど、清潔感があって優しげだ。
 こまめに連絡を取り合い、毎週のようにデートして、たまにさちの手料理をねだる。普通の日にしては手の込んだ、けれど平凡な料理をほめちぎり、また作ってと約束を取り付ける。月に1度は一緒に映画を見に行って、ショッピングをして、高すぎないけれどパーカーで入るのは気後れしてしまうようなところでディナーを食べる。さちの誕生日にはホテルのレストランを予約して、誕生年のワインにはちょっと手が出なかったと笑って少し高いシャンパンを開ける。気に入ると良いんだけどと、小さなダイヤモンドがついたネックレスを手渡す。
 本当に、本当に素敵な人だ。良い人と巡り会えて本当に良かったと思う。何しろさちは、すごくかわいくて良い子なのだ。

 でも。時々わたしは思う。
 でも彼は、きっとさちの好みのタイプを知らない。料理が好きじゃないことも、たいして映画に興味がないことも、ラーメン屋さんみたいな気軽なお店も好きだということも。シャンパンよりもビールが好きだと言うことも、普段アクセサリーなんてつけないことすら、きっと彼は何にも知らない。
 そういう何もかもを、彼はこれから知っていく。
 学生の頃、初恋の人のことをひとつ知るたびに私に幸福を語った横顔を思い出す。
 それは、きっと素敵なことだ。

「それじゃあ、また連絡するね」

 彼の前でさちがどんな顔をするのか、私は知らない。どんな料理を作るのか、映画を見てどんな感想を語るのか、どうやってシャンパングラスに口づけるのか、私は、何も知らない。
 わたしの知らない彼女がどんどん増えていく。たまに会って、昔話に花を咲かせて、そうして少しだけ、わたしの知らない彼女を知る。
 それはきっと、素敵なことなのだ。
 素敵な彼にさらわれて行った彼女を笑顔で見送って、それから私は、少しだけ泣いた。
 勢いよく背を向けたさちがほんの少し泣いていたことを、わたしは、知っている。

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