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自分の知力を過信しない —吉岡実の詩「楽園」について—

 今回は、詩人・吉岡実の詩「楽園」について見ていきます。


   楽園 吉岡実

  私はそれを引用する
  他人の言葉でも引用されたものは
  すでに黄金化す
  「植物の全体は溶ける
       その恩寵の温床から
              花々は生まれる」
  かつて近世の女植物学者はそのように書いた
  灰色の川のふちに乱れ咲く
  百千の花菖蒲はまるで
  翼の折れた鳥のような花弁を垂らす
  悪天候の楽園のなかで
  私は不可解な麩という食べものを千切り
  浅瀬を游ぎまわる小魚を養う
  そして妄想をくりかえし
  老いたる姉妹のように
  木馬にまたがる
  いずれにせよ
  「人間の全体は溶ける」
  かかる時点で地の上に何が遺るか
        水の上に何が浮ぶか
  見れば見るほど微少なる
  「熱い灰の一盛りと
            火箸」
  それは永遠に運搬できぬしろもの
  この世にまだパン粉を捏ねる人がいるとしたら
  その全人間的な人の背後を
  老いたる兄弟は通り
  川のながれにまかせて
  夢の波に乗る
  謎(エニグマ)
  沖は在る


 この詩の語り手は、のっけから自信満々です。「私はそれを引用する/他人の言葉でも引用されたものは/すでに黄金化す」。これは、大げさに言えば、「他人という愚かな存在が考えたつまらない言葉でも、自分という偉大な人間が引用すれば、それは素晴らしい考えになるのだ」という意味です。この三行しか読まなければ、たいそうな自信家だな、と思ってしまいますが、作品全体を読むと、彼の自信にはれっきとした根拠があることが分かります。
 しかし、ここではまず、話の続きを見てみましょう。語り手が引用した、「他人の言葉」とは、「近世の女植物学者」の、

  「植物の全体は溶ける
       その恩寵の温床から
              花々は生まれる」

 という言葉でした。この、「近世の女植物学者」が誰なのか、また、そもそも実在するのかについては確認することができませんでした。ですから、ここでは、そのような女植物学者が実在し、その人物の言葉を引用しているのだという、語り手の言葉を信用することにしたいと思います。
 語り手が、そのような植物にまつわる言葉を思い出したのには理由があります。彼は今、花の咲き乱れる雨天の観光地(作中では「楽園」と表現されています)に来ているからです。そこで、彼は、川の浅瀬を泳いでいる小魚に、麩を千切って与えます。しかし、その麩については、「不可解な麩」と形容されています。どうやら、語り手にとっては、麩というものが不可解な存在に感じられるようなのです。彼のこの変わった性格については、後に触れるので、覚えておいてください。
 さて、次の三行を見てみると、

  そして妄想をくりかえし
  老いたる姉妹のように
  木馬にまたがる

 とあります。語り手は「楽園」に置いてある「木馬」にまたがるのですが、「木馬」というのは、それにまたがっても前に進むことができないため、語り手の愚鈍さのようなものを表しているように、一見、感じられます。「妄想をくりかえす」というのも、世間的には無益な行為であり、今、指摘したような語り手の愚鈍さを強調しています。「老いたる姉妹のように/木馬にまたがる」という表現は難解ですが、「ように」という表現があるため、語り手がすなわち「老いたる姉妹」であるというわけではないことが分かります。ここでは、あくまでも「老いたる姉妹」のふりをしている語り手の姿が浮かび上がります。

  いずれにせよ
  「人間の全体は溶ける」

 次の二行を見ると、「人間の全体は溶ける」という、ドキリとする言葉が登場します。もちろん、これは、先ほどの「近世の女植物学者」の「植物の全体は溶ける」という言葉を、語り手が「人間」にも敷衍したものです。しかし、人類全体がやがて滅びる運命にある、と言われているようで、衝撃を受けます。

  かかる時点で地の上に何が遺るか
        水の上に何が浮ぶか
  見れば見るほど微少なる
  「熱い灰の一盛りと
            火箸」

 この、「熱い灰の一盛りと/火箸」は、おそらく、次のような意味であると考えられます。すなわち、語り手の「妄想」の中のにおいて、今、人類は滅びています。滅びた人類の、全ての人間を火葬した際に生まれた灰と、骨を拾うための火箸が、ここでは描かれているのではないでしょうか。彼の頭の中では、人類は滅びて、ついに「熱い灰の一盛り」という「微少」な存在になってしまうのでした。
 ここで、次の四行を見ると、

  それは永遠に運搬できぬしろもの
  この世にまだパン粉を捏ねる人がいるとしたら
  その全人間的な人の背後を
  老いたる兄弟は通り

 とあります。ここでは、全ての人間は滅びたけれど、誰かその灰をまるで「パン粉」のように捏ねる人がいると仮定しているのです。その、全ての人間の灰をひとまとめにして捏ねることで、新たに一人の人間を生むことができます。これは、「植物の全体は溶ける/その恩寵の温床から/花々は生まれる」という植物の例を踏まえています。「人間の全体は溶け」ても、その灰から、「全人間的な」一人の人間が生まれるのです。
 その背後を、「老いたる兄弟は通り」ます。この「老いたる兄弟」とは、おそらく、語り手自身のことを指しています。先ほど、語り手は、「老いたる姉妹」のふりをしていましたが、実は、彼は「姉妹」ではなく「兄弟」だったのです。これは、やや分かりにくい表現ですが、おそらく、最初に示された語り手の愚鈍な性格と関係していると思われます。つまり、「姉妹」から「兄弟」への転換は、一見、愚鈍に見える語り手が、実は誰よりも賢かったという転換を示していると考えられます。なぜ、語り手が誰よりも賢いと言えるのかというと、「全人間的な人の背後を/老いたる兄弟は通(る)」からです。全人類を象徴している一人の人間の「背後」を通るというのは、語り手は、全人類の向いている方向とは全く異なる方向へ進んでいくということです。つまり、人類が滅んだ時も、語り手は一人生き残り、全人類とは異なる方向へ進むと言うのです。

  川のながれにまかせて
  夢の波に乗る
  謎(エニグマ)
  沖は在る

 ここで、先ほど見た、「木馬」にまたがっていた語り手の様子を思い出してください。「木馬」に乗っても、全く前に進めないため、語り手は、端から見て愚鈍な存在に感じられていました。しかし、そのような語り手は、実は、他人からは理解できない次元で、前に進んでいたのです。それも、全人類とは全く異なる方向へ、「川」を流れていって、「波」に乗り、「沖」まで行くと言うのです。
 では、語り手の進む方向とは、具体的には、一体、何なのでしょうか。それは、「謎」を追いかけるという方向です。最初に、語り手は、麩について、「不可解な麩」と表現していました。「麩」という、誰もがその存在に疑問を抱かない食べ物にも、語り手は疑問を抱いてしまうのです。つまり、語り手には、はっきりと分かっていることは何もなく、彼の前にあるのはただ、「不可解」な「謎」ばかりなのです。しかし、まさにこのことこそが、語り手を賢者たらしめているのではないでしょうか。
 私たちは、何かを知っていると思っている。しかし、その実、何もはっきりとは知らないのです。語り手は、自分が無知であることを自覚していて、全てのことに対して「謎」であると感じています。その姿勢により、語り手は人類の中でたった一人、生き延びることができたのです。逆に言えば、彼の「妄想」の中で滅んだ人類は、自らの無知を自覚しなかった傲慢さのために滅んだのだと考えられます。
 このように、作品冒頭から窺える語り手の自信は、一見、彼の傲慢な性格を表しているように感じられます。しかし、実は、語り手は、人類の中で最も謙虚なのでした。なぜなら、自分の前にあるのは「謎」ばかりであると考え、自分の知力を過信することが無かったからです。この詩はまた、何でも知っていると傲る人類に対して、警鐘を鳴らしてもいるのです。

 


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