山崎るり子「僕のおばあさん」を読む
おばあさんはニャアと鳴く
歯のぬけたトンネルの口を
光の方に向けて
ニャアと鳴く
しわの中で 目が細くなる
夏 家の中の
一番涼しい場所で
おばあさんは ニャアと鳴く
おばあさんはツメを立てる
カッととつぜんするどく
お母さんの手から
血がこぼれる
僕はピアノで
ネコふんじゃったを ガンガンひく
おばあさんは一日中
とろとろねむる
うす目を開けて
ごろごろのどをならして
冬 家の中の
一番暖かい場所で
おばあさんは とろとろねむる
僕はいつも
そおっと 歩く
この詩の中に登場する「僕のおばあさん」の正体は、ネコである。語り手である「僕」は、自分の家で飼っているネコのことを、「おばあさん」と呼んでいるのだ。「僕」は、この「おばあさん」の正体が、人々がネコと呼ぶ動物であることを説明しないが、「おばあさん」についての描写の端々から、そのことが窺える。また、「僕」が「ネコふんじゃった」をピアノで弾くという記述があり、これもヒントになっている。
ではなぜ、「僕」はネコのことを、「おばあさん」と呼ぶのだろうか。
それは、彼の中で、「おばあさん」の定義は、“歯が抜けていて、しわの中で眼を細め、夏は家の中の一番涼しい場所にいて、冬は一番暖かいところにいる、そして一日中とろとろ眠る生き物”というものだからである。この「おばあさん」のイメージは、祖母と一緒に暮らしたことのある人なら誰でも分かる。要するに、祖母が一日中うたた寝をしている姿を想像してもらえれば良い。
ここで注意したいのは、この詩の中では「おばあさん」という語は、必ずしも、「年老いた女性」を意味していない、ということである。先ほど想像してもらった祖母のイメージは、年老いた女性の姿というよりはむしろ、不思議な生き物のそれとして我々の脳裏に焼き付いている。我々は、「なんでそんなに寝てるんだろう」と思いながら、「おばあさん」がウトウトする様子を眺める。そのように、自分とは異なる不思議な存在として認識される、「おばあさん」のあの姿——。その姿を「発見」したことに、この詩の存在意義はある。
一方、そのように我々の脳裏で像を結ぶ「おばあさん」という言葉を、その定義の段階に戻したい。それは、“歯が抜けていて、しわの中で眼を細め、夏は家の中の一番涼しい場所にいて、冬は一番暖かいところにいる、そして一日中とろとろ眠る生き物”というものであった。この定義には、なんと、ネコという動物も、偶然当てはまってしまうのだ。ネコも、人間よりも歯が少なくて、しわのある顔の中で眼を細め、涼しいところや暖かいところを見つけてそこに移動し、またよく眠る生き物だからである。先ほどの定義の下にあっては、「おばあさん」という語は、ネコという意味を内包してしまうぐらい、包容力のある言葉になるのだというのが、この詩におけるもう一つの「発見」である。
以上より、この詩は、「おばあさん」という語のポテンシャルを試す、挑戦的な作品であると言える。