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大人の童話 —吉岡実の詩「低音」について—

 今回は、詩人・吉岡実の「低音」という詩について見ていきます。


   低音 吉岡実

  ブランコのりの少女がひとり
  辻公園にいる
  とわたしは想像し
  肉体と紐を使って
  苦い荷をはこぶんだよ
  方解石
  漆
  いまとびあがる少女の薄布の
  支離滅裂の
  尻を大写しで見よ
  その移動することだま
  発光する水晶でなければ
  それはプラスチック
  木の球
  花嫁
  みずみずしく
  防疫人が調べる
  輝かしい孔類
  それは点になるまでコイルで巻かれて
  青空へ至るんだ
  母恋うる声
  向うを老人や草刈機が通り
  わたしが通る


 この詩は、語り手である一人の男性(「わたし」)が、自分の身体に紐をくくりつけて、「苦い荷」を挽いている場面を描写しています。「苦い荷」とは、要するに重い荷物のことで、具体的には、作中に記されている「方解石」や「漆」を指すのだと考えられます。そのように、重い荷物を運んでいる彼は、一人の少女が公園のブランコに乗り、軽やかに宙を舞っているところを想像します。そうすることで、荷物を運ぶ際の彼の苦痛は、少し和らぐのでした。彼は、少女の尻が宙を行ったり来たりする場面を考え、さらにはその尻が青空へと飛び立つところを想像します。
 この時、注意してほしいのは、語り手の男性は、少女が宙を舞うところを想像しながら、自分の身体感覚を彼女と一にしているという点です。彼は、空中を行ったり来たりする少女のことをただ考えるだけではなく、彼女の身体に自分が乗り移って、自分自身が宙を舞っているような気分になっていたのです。なぜそう断言できるかというと、「紐」というキーワードからそれが分かります。男性は身体に「紐」をくくりつけていますが、少女の乗るブランコも、「紐」状の金具を持つことによって身体を固定し、空中を舞う遊具です。そもそも、男性がブランコと少女のことを想像しだしたのは、自分自身が、軽快に空を飛んでいる気分になることで、重い荷物を運ぶ憂鬱さを忘れたいという考えからでした。これらのことから、男性が、ブランコに乗る少女のことを想像している時、彼の身体感覚は、少女と共にあるのだと言えます。だから、男性が、少女の尻が青空へ飛び立つという想像をしている時、彼自身もまた、青空を舞っている気分でいるのだということが考えられます。
 ここで、先ほど、重い荷物の意味だと説明した、「苦い荷」という表現について、もう一度考えてみましょう。「苦い」という言葉には、「つらい、苦しい」といった意味があります。このことから、「苦い荷」というのは、単に具体的な荷物のことを指しているだけではなく、苦しみに満ちたこの人生そのものを指しているのだと考えられます。語り手の男性は、「苦い生」というものを背負っているため、その負担を軽くしたいと考え、軽快に宙を舞う少女を想像したのだと言うことができるのです。
 話を元に戻しますと、男性は、少女の尻が青空へと飛び立つという想像をしたのでした。この時、尻は「コイル」を巻かれて飛び立っているため、少女は、もはやブランコのように「紐」で繋がれた遊具に乗っているのではなく、空へ無限に飛ぶことが可能な状態にあるのでした。しかし、それも全部、男性の想像の中で繰り広げられる出来事です。ということは、男性は、もはや、この「苦い生」を捨て去って、空の彼方へ行ってしまいたい、という願望を抱いているということになります。
 しかし、その瞬間、彼は、「母」を恋うる声を出してしまうのでした。作中には、「母恋うる声」とありますが、タイトルには「低音」という言葉が登場します。作中で、“音”について描写した箇所は、この「母恋うる声」という箇所しかないため、「低音」とはこの声のことを指しているのだと分かります。そして、これは、語り手自身の声であると推測されます。なぜなら、反対に、もしこれが、外部から語り手の耳に入ってきた音声ならば、普通、「低音」(男の低い声)であることはあり得ません。なぜなら、「母」を「恋うる」という行為は、普通、幼い子供がするものであり、成人男性は、情けないと思われるため、あまりそういった姿を見せないからです。だから、現実に、そのような声が、周囲の雑音として語り手の耳に聴こえてくるということは、考えにくいです。
 ですが、だったら語り手も男性なのだから、「母恋うる声」を出すのはおかしいではないか、と思われるかもしれません。しかし、ここでは、「母」というのは、比喩として機能していると考えられます。その比喩は、ブランコの少女を「花嫁」と表現している箇所と対応しています。  

  いまとびあがる少女の薄布の
  支離滅裂の
  尻を大写しで見よ
  その移動することだま
  発光する水晶でなければ
  それはプラスチック
  木の球
  花嫁

 ここでは、まず、少女の尻が、「移動することだま」と言い換えられています。少女の尻は、ブランコに坐って揺れているため、「移動する」と表現されていることには納得がいきます。さらに、その尻は、「発光する水晶」に喩えられた上で否定され、「プラスチック」、「木の球」、「花嫁」に喩えられています。尻が「花嫁」というのは少し違和感を感じるので、「花嫁」は少女自身のことを指していると考えられます。
 この「花嫁」の対立項として登場しているのが、「母」という表現ではないでしょうか。つまり、語り手の男性は、地上にいる「母」と、天を舞う「花嫁」との間で、引き裂かれているわけです。それは取りも直さず、「苦い生」と、そうした苦しみから解放された世界との間での葛藤を意味します。その、「苦しみから解放された世界」とは、おそらく、死後の世界のことを指すと思われます。語り手は、こうした、生と死の間で葛藤し、死の世界を選び取ろうとしていました。しかし、その抜き差しならない瞬間に、「母」を恋うる声を上げてしまうのです。これは、語り手が、苦い生の世界で生きることを引き受けたことを意味しています。
 そして、

  向うを老人や草刈機が通り
  わたしが通る

 という末尾に辿り着きます。語り手の男性は想像から覚め、現実に立ち返り、再び重い荷物を挽いて歩いて行くのでした。
 このように、この詩は、死への願望を抱こうとした語り手が、咄嗟の瞬間に、「苦い生」を引き受けることを選択してしまう、というドラマを描いたものでした。このドラマは、「死ななくて良かった」という単純なハッピーエンドの物語として捉えるよりも、「死への願望を抱こうとしても、結局は生への未練を断ち切ることができなかった」という、まさしくほろ苦い結末を持つ物語として捉えたいと思います。この詩は、そのように、苦さを湛えた大人の童話として味わうことが可能なのではないでしょうか。



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