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【読書備忘録】幻獣辞典からマリーナの三十番目の恋まで

 今回で【読書備忘録】は30回目を迎えました。数ある記事の中から、この小さな書評集を見付けて読んでくださっている方々には感謝の言葉もありません。今後も出会ってきた良書を紹介するとともに、読書の楽しさを伝えていけるよう精進します。
 推薦図書の決まりは特にありません。強いていえばバラエティは意識していますね。国内外の書籍を選んだり、翻訳書でも新刊から旧刊まで対象を広げるなど、少しだけ意外性を含ませながら精選しています。もっとも多様性を求めているとはいえ、過去記事が物語っているように推薦図書の過半数は翻訳小説であり、中でもラテンアメリカ文学はほぼ確実に一冊は入っているのですよね。これはもう好みの問題なので仕方ないと諦めます。むしろ変に手を広げるより今の傾向を武器に換えて、連載開始時から続けている「自分の好きな本をひたすら紹介する」という方針を貫きましょう。
 これからも【読書備忘録】を何卒よろしくお願い申しあげます。


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幻獣辞典

*河出文庫(2015)
*ホルヘ・ルイス・ボルヘス(編著)
*柳瀬尚紀(訳)
 子供の頃から動物図鑑を開いていると不思議な喜びを覚えた。掲載されている写真や絵を眺め、説明文を読むとその動物が頭の中で自由奔放に動き始める。そうした想像に耽るのは楽しい。実在する動物だけではなく、架空の生物にも好奇心を刺激されるもので、世界各国の神話・伝説に登場する幻想的な存在、日本の妖怪、ロールプレイング・ゲームのモンスター。興味の対象をあげると切りがない。東西南北の奇妙な存在を辞典におさめ、空想の世界を紹介していくホルヘ・ルイス・ボルヘスは、未知なる存在に惹かれる読者の好奇心に応える幻想の案内人といえる。彼の解説はサラマンドラやバハムートなど見聞きしたことのある幻獣に新鮮味を与え、プリニウスやプルタルコスやパラケルススといった知の巨人たちをリスペクトするように書棚を飾っていく。そうして読者はボルヘス流の図書館が築きあげられる過程に接し、気が付けば完成した図書館を彷徨することになる。この知的冒険を体験させてくれる『幻獣辞典』は、短編小説家で、随筆家でもあるボルヘスの図書館を閲覧できるおいしい書物である。

書影 7



*新潮クレスト・ブックス(2020)
*アリ・スミス(著)
*木原善彦(訳)
 イギリスの欧州連合離脱を決める国民投票がおこなわれ、世界中が衝撃的な結果を目のあたりにしたのは記憶に新しい。ましてイギリス内での動揺に至っては想像の域を超える。その歴史的変動に対して即座に創作活動で応えた一人がアリ・スミス氏だった。そのスミス氏による「季節四部作」の秋を飾る本作品の舞台は、国民投票がおこなわれた二〇一六年のイギリス。元作詞家の老人ダニエルと変わりものの女性エリサベスの奇妙な、それでいて温かみのある交流を根幹とする、哀愁と郷愁をにじませる小説である。二〇一六年現在、一〇一歳のダニエルは養護老人ホームで眠り続けており、エリサベスは大学非常勤講師として生活している。見舞いに訪れる彼女をダニエルは眠りながらも出迎える。彼の寝姿は年老いても一緒に散歩したり哲学的な話をしていた頃の面影を残しているのだ。こうして物語は二人の共有された意識を体現するように、過去から現在までのエピソードの束を断章的に描きだしていく。その構成はエリサベスの研究対象であるポップアーティストのポーリーン・ボティのコラージュ技法を連想させるものがあり、主題と形式の結合を見ることもできる。

書影 8



トニオ・クレエゲル

*岩波文庫(2003)
*トーマス・マン(著)
*実吉捷郎(訳)
 月並みな言葉だが、身につまされるような、痛いところを突かれたような読後感がある。クレエゲル名誉領事の息子であるトニオ・クレエゲルの遍歴を辿り、芸術家と俗人の対立を浮きあがらせるとともに、どちらにも属することのできない人間の苦悩を表現した『トニオ・クレエゲル』は世紀をまたいでも色褪せることはない。青春期は持ち前の芸術家気質が祟り、少年と少女との恋愛に失敗する。ところが後年作家となったトニオは、胸の奥底でくすぶる俗人に対する憧憬をおされられなくなっていく。凡庸な日常を捨てて美を追究する芸術家と、凡庸な日常に幸福を見出す俗人。その世界観は相反するものであり、トニオは芸術家と俗人の狭間で煩悶することになる。対立する思想や共同体の板挟みに陥ることは往々にしてある。現代日本の読者が本作品を読んで「まるで自分のことが書かれているようだ」と思うのも、トニオの苦悩が普遍的なものだからといえる。なるほど。こう解釈すると女性画家リザベタ・イワノヴナがトニオを「踏み迷っている俗人」と断言したのも頷ける。余談ながら実吉捷郎訳では「俗人」と表記されているが、最近は「市民」と表記されているようだ。

書影 9



美しい星

*新潮文庫(2003)
*三島由紀夫(著)
 飯能市の旧家である大杉家は、飛行する円盤を見て異星人として覚醒した一家だった。夫の重一郎は火星人。妻の伊余子は木星人。息子の一雄は水星人。娘の暁子は金星人。水素爆弾の開発により現実味を帯びた人類滅亡を危惧した重一郎は、故郷との交信を試みる傍ら三流雑誌の通信欄に同志を求める広告をだし、宇宙人であることを隠しながら「宇宙友朋会」を結成。また「世界平和達成講演会」を開催するなど活動範囲を広げていく。ところが白鳥座六十一番星あたりの未知の惑星から飛来した、核兵器による人類の安楽死を唱える集団は重一郎の平和運動を快く思わず、計画を阻止するため結託することに。おおまかな流れは前述の通り。異色作と呼ばれる理由はSF的設定と荒唐無稽なストーリーにある。けれども本作品の特色はSFの発想を借りる程度でとどめ、核兵器問題や倫理的問題を地球外から客観視するという実験を試みている点である。つまり『美しい星』はSFに属さないことでSFの束縛を受けず、既存の純文学から脱することで旧態依然とした純文学の風潮の束縛も受けず、自由奔放な発想を叩き込むことに成功した貴重な例なのだ。こうした実験は現代でも冒険なのに、半世紀以上前の日本で実行するのだから三島由紀夫の度胸と先見性は見事としかいいようがない。

書影 10



グアバの香り

*岩波書店(2013)
*ガブリエル・ガルシア=マルケス(著)
 プリニオ・アプレーヨ・メンドーサ(著)
*木村榮一(訳)
 マジックリアリズム(魔術的リアリズム)とは超現実的現象を通して現実を表現する技法で、生来の語り部であるガブリエル・ガルシア=マルケスを象徴するものの一つにあげられる。その意味はラテンアメリカ文学とマジックリアリズムをイコールで結び付けるような大雑把な区別ではなく、想像力は現実的な世界を作るための道具であり、創造の源泉はあくまで現実にあるというガルシア=マルケス自身の言葉に立脚する。それではガルシア=マルケスの世界観は如何なるものなのか。回答は『グアバの香り』の中で語られている。小説に対する彼の認識は実生活で育まれていた。例えばよく物語を聞かせてくれた祖母の語り口を再現することで世界的大作『百年の孤独』の文体は完成し、両親の逸話を素材にすることで『コレラの時代の愛』は誕生した。また、将来妻となるメルセーデス・バルチャとの結婚を直感的に確信したり、独裁者ペレス・ヒメーネスの大統領宮殿が爆撃される直前「間もなく何か大きな事件が起こる」と予感するなど、彼自身驚異的なエピソードを豊富に持っている点も要注目(ちなみにペレス・ヒメーネスの失脚は『族長の秋』が生まれるきっかけとなった)。そんなガルシア=マルケスの起源を知ることのできる『グアバの香り』は貴重な対談集である。

書影 11



吐き気

*水声社(2020)
*オラシオ・カステジャーノス・モヤ(著)
*浜田和範(訳)
 優れた文学作品を生みだしてきたラテンアメリカの中で、あまり小説とは縁のないエルサルバドルに現れた異端児の初期短編小説集。殺害された人物の謎を探るため面識のある人々を訪ねる『フランシスコ・オルメド殺害をめぐる変奏』、生前の拳銃自殺者を見たばかりにしがないバーテンダーが理不尽な暴力の渦に巻き込まれる『過ぎし嵐の苦痛ゆえに』と絶品が続く。でもここでは表題作『吐き気――サンサルバドルのトーマス・ベルンハルト』に絞らせていただきたい。本作品は母親の通夜に出席するためエルサルバドルに帰国したベガという男の独白で、祖国に対する幻滅を罵詈雑言で表現する問題作である。この小説ははっきりいって凄まじい。エルサルバドルを憎悪するベガは、エルサルバドルのすべてを否定する。飛行機で会った夫婦、居酒屋のビール、ププサ、売春宿の娼婦。何よりベガを苛立たせたのは弟の存在だった。価値観がまるで違う弟には反感しか抱かず、弟の家族にも、家族が愛好するものにも、弟の散歩に付き合わされているときに見聞きするあらゆるものに「吐き気」を覚える。バリエーションが豊富すぎる痛罵の数々。しかも改行がない。オーストリアの文豪トーマス・ベルンハルトの技法を模した文体で描きだされた幻滅と罵倒は、エルサルバドル中の読者を動揺させることになり、著者宛てに殺害予告が出るほどの騒動に発展。今は緩和されたようだが、これからも賛否両論の問題作であり続けるだろう。

書影 12



夜のガスパール

*岩波文庫(1991)
*アロイジウス・ベルトラン(著)
*及川茂(訳)
 一九世紀の西洋文学界で流行していたロマン主義と韻文詩に背を向け、散文詩という新たな分野を開拓したアロイジウス・ベルトラン(ルイ・ベルトラン)の散文詩集で、後世に多大な影響を与えたことから知名度は高い。とはいえ時代を先取りする技法の宿命か、三四歳の若さで死去するまで彼の前衛的な試みが評価されることはなかった。本作品が息を吹き返すにはシャルル=ピエール・ボードレール、ステファヌ・マラルメなどの詩人と、モーリス・ラヴェルという音楽家による発見を待たなければならなかった。もしも小泉八雲ことラフカディオ・ハーンがベルトランを紹介しなかったら、本邦に伝わるにはかなり時間を要したと思う。構成を見ると、序文、献辞、詩、断章と細かくわかれている点からわかるように、なかなか複雑な出版過程を経ている。全体的に叙情性より怪奇と幻想を匂わせる作風であり、中でも第三の書「夜とその魅惑」では何度もあやしげな情景が描きだされている。第三の書には「オンディーヌ」「スカルボ」といった馴染みのある詩も含まれているので、ラヴェルの音楽が好きな人なら反応を示されるのではないか。かくいう私もラヴェルの楽曲で『夜のガスパール』という散文詩を知った一人なのだ。もっとも「スカルボ」は断章におさめてある方だし、悪夢を見ている心地にさせされる「絞首台」も断章である。もしかすると断章に『夜のガスパール』の真髄を見出す人は多いのかも知れない。

書影 13



辺境の聖女と拷問人の息子

*インゲン書房(2020)
*松代守広(著)
 noteで連載中『拷問人の息子』の続編が登場。黄印の兄弟団が支配する国家「帝国」が舞台であり、クトゥルフ神話という骨子にマカロニウエスタンで肉付けした新感覚の小説世界が蘇る。高度な能力者「辺境の聖女」を崇拝する集団に紛れ込んでいる元将校を処罰するため、不老難死の奇跡術者「非神子」である機械化異端審問官メルガールは、管区の筆頭拷問人を務めるエル・イーホをともない、鋸歯魚の庭と呼ばれる辺境の地に向かう。狡猾な元将校。また、メルガールとおなじ「非神子」である「辺境の聖女」が見せる陰。崇拝者たちの異様な様相。無機的な情景表現と能動的な情緒表現の巧妙なバランスから生まれる切迫感に、読者(私)は息苦しくなるほどの緊張を覚える。この緊迫はハードボイルド小説の醍醐味ではないだろうか。これもマカロニウエスタンの武器であるなら実に魅力的な技法といえる。そのマカロニウエスタンの定義は後書きで詳述されているので、気になる人には読んでいただきたい。作品の解説であるとともに、歴史と技法をまな板に載せたコラムとして享受できる達文である。

書影 14



モナリザの微笑 ハクスレー傑作選

*講談社文芸文庫(2019)
*オルダス・ハクスレー(著)
*行方昭夫(訳)
 ディストピア小説の傑作『すばらしい新世界』を始め、二〇世紀前半のイギリス文学を牽引したオルダス・ハクスレーの短編小説集。収録作は五編。恋愛遊戯に耽る有閑知識人が鮮烈な竹篦返しを受けることになる『モナリザの微笑』、類まれな才能の持ち主である美少年がその才能故に悲劇的結末を迎える『天才児』、高価な壁画を所有するイタリア人伯爵家の裏舞台に迫る『小さなメキシコ帽』、吃音症の青年が理想と現実との非情なまでのギャップに煩悶する『半休日』、文芸批評家が死去した財界人との交流を辛辣に振り返る『チョードロン』。全作品に共通しているのは、二〇世紀前半のイギリス及びイタリアにおける気質を根幹として、文学・音楽・絵画などの芸術全般を積極的に取り入れている点だ。イギリス人批評家の視点で描きだされる伯爵家の壁画は絢爛豪華であり、皮肉屋の文芸批評家による財界人批評は引用に引用をかさねた複雑なコラージュである。また、音楽と数学の密接な関係を、数学者の卵の表現法に用いるところにも妙味がある。ハクスレーの小説においては如何なる文化人も滑稽な面を隠せないし、きらびやかな装飾品を並べても内面の汚さはごまかせない。ハクスレーのアイロニカルな小説技法は洗練されているため、世紀をまたいでも斬新性は健在である。それどころか半世紀以上経ても愚かなままの人類を、作品の中で嘲笑しているような印象を抱いてしまう。

書影 15



マリーナの三十番目の恋

*河出書房新社(2020)
*ウラジーミル・ソローキン(著)
*松下隆志(訳)
 小説家であり前衛芸術家でもあるモンスターの息吹を感じる。本作品ではペレストロイカ前の閉塞したモスクワを舞台に、愛を渇望するマリーナの恋愛遍歴が語られる。男との性交では絶頂に至れず、同性愛者として生きている彼女は複数の顔を持つ。文化施設でピアノ教師を務め、権力者たちと性的関係を結び、ソルジェニーツィンを崇拝して反体制運動に関わる。しかし利益を得るために奔走しても心が満たされることはない。鬱屈した日常は変わるどころか、二九回目の破局を契機に彼女はますます堕落していく。前半の筋を概観すると退廃的な官能小説といった趣がある。また後期ソ連の風景を浮きあがらせる固有名詞の洪水も効いていて、読み手はマリーナとおなじ目線で社会を眺めることになる。けれどもソローキン作品は常に読者の予想を超えていく。しかも本作品を執筆したのはコンセプチュアリズム芸術運動に関わっていた頃なのだ。マリーナの運命はある工場の党委員会書記にして熱烈な共産主義者との出会いをきっかけに変化を遂げる。その変化とは如何なるものか。変化は如何なるかたちで表現されるのか。物語の核心に関する事柄なのでここでは触れないが、常識を覆すほどの大転換に驚愕することになる。なお『マリーナの三十番目の恋』にはフランス語訳版とドイツ語訳版が先に出版されたという経緯があり、ロシアでの出版はソ連崩壊を待たなければならなかった。読めば納得の事実である。

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〈読書備忘録〉とは?


 読書備忘録はお気に入りの本をピックアップし、短評を添えてご紹介するコラムです。翻訳書籍・小説の割合が多いのは国内外を問わず良書を読みたいという筆者の気持ち、物語が好きで自分自身も書いている筆者の趣味嗜好の表れです。読書家を自称できるほどの読書量ではありませんし、また、そうした肩書きにも興味はなく、とにかく「面白い本をたくさん読みたい」の一心で本探しの旅を続けています。その旅の中で出会った良書を少しでも広められたい、一人でも多くの人と共有したい、という願望をこめてマガジンを作成しました。

 このマガジンはひたすら好きな書籍をあげていくというテーマで書いています。小さな書評とでも申しましょうか。短評や推薦と称するのはおこがましいですが、一〇〇~五〇〇字を目安に紹介文を記述しています。これでももしも当記事で興味を覚え、紹介した書籍をご購入し、関係者の皆さまにお力添えできれば望外の喜びです。


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