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がらくたの家 2 (小説)

次の朝、暑さのせいか初めて飲んだワインのせいか、少しだるい身体を無理やり起こしてTシャツとショートパンツに着替えた凛が居間に降りていくと、夕べの気配は全く残っていなかった。テーブルはきれいに片付けられ、床にも塵一つ残っていない。

まだ朝だと言うのにその温度と湿度に辟易しながらぼんやりと突っ立っていると「おはよう!」と大きな声がして、エプロン姿の祐生が現れた。
「はい、麦茶」
水滴のついたコップに並々ついだ冷たい麦茶を手渡す。凛は自分がとても喉が渇いていたことに気づき一気に飲み干した。喉から胃まで冷たい麦茶が滑り落ちてゆくのがわかる。
「おいしい」
祐生はにっこりして
「すぐ朝ご飯できるからね」
と台所に戻って行く。 
凛は縁側に出て晴れ渡った空を見上げた。

八月の東京、ここは吉祥寺。凛の中にまたわくわくした気持ちが湧き上がる。ここでなら、私も何かみつけられるかもしれない。

祐生は、ご飯、だし巻き卵、焼き鮭、サラダ、味噌汁という、まるで旅館のような朝食を用意していた。
トーストにジャムかクリームチーズを塗って紅茶で流し込むように食べる凛のいつもの朝食とは全然違う。
「こんなに食べたら太る」
凛の言葉を七海も祐生も気にも止めなかった。
「朝しっかり食べて夜控えればいいのよ」
と言う七海に、
「でも昨日の夜だってものすごい食べたよ」
と言い返す凛の正しさに七海は黙って味噌汁をすすった。
そんな七海を見て祐生は笑う。
結局凛はおかわりこそしなかったものの、全てきれいに食べた。
 
居間には開け放した大きな窓から風が入ってくるけれど、それでもやはり暑かった。エアコンは見当たらない。大きな扇風機が一つ置いてあるだけだ。こんなに暑いのに食欲があるなんておかしなものだと思う。いつもなら冷たい飲み物やアイスクリームしか食べる気にならないのに。
「ごちそうさまでした」
凛が席を立とうとすると七海が声をかけた。
「凛ちゃん今日暇?井の頭公園に行かない?」
「井の頭公園?」
「すぐ近くの大きな公園だよ」
それくらい凛も知っていた。吉祥寺特集の雑誌にも載っている。滞在中に一度は行こうと思っていた。本当は一人で行きたかったけれど初めてで不安もあった。だけどそんな気持ちはおくびにも出さず凛は七海に「まあ行ってもいいけど」と応えた。

祐生の食器洗いを手伝っていると銀行員の刈谷がやってきた。昨日はスーツだったけれど今日はカジュアルな格好をしている。相変わらず愛想がないなと心の中で思いながら「どうも」と凛は挨拶する。「おはようございます」と礼儀正しく言った刈谷はそのまま二階に上がって行く。
七海も祐生も気にも止めていない。
「あの、刈谷さんはどこへ?」
凛の言葉に七海がアトリエでしょ、と応える。
「この居間の絵も刈谷くんが描いたの、素敵でしょう」
凛は息を止めるほど驚いた。居間に飾られている不思議な絵。初めて見たときからとても心惹かれたあの絵を描いたのが刈谷だと言われても、真面目でとっつきにくそうな刈谷があんな絵を描くなんて信じられない。
「井の頭公園でね、刈谷くんの絵を売るの」
続く七海の言葉に凛はまた驚く。
「じゃあ井の頭公園には刈谷さんも一緒に?」
刈谷が嫌いなわけではなかったが何となく苦手な感じがして凛は聞く。
「刈谷くんは今日は描きたいみたいだから、凛ちゃんと大志で行ってもらおうと思って」
大志?
「大志は刈谷くんの息子なんだけど、あれ?ついてきてない?」
七海が言ったそばから台所に子供が顔を出した。小学校の中学年といったところだろうか。
「おはようございます七海さん、祐生さん」
大志は小学生とは思えないきちんとした挨拶をした。さすが刈谷の子供だけはある、と感心していると大志が凛をじっと見た。
「凛さんですね?父から聞いています」
大人のようにそんなことを言う大志に凛は「ああ、はい」と答える。
「大志です。よろしくお願いします」
頭を下げる大志に凛も慌てて頭を下げる。
「刈谷さんはしつけがしっかりしてるんだね」
思わず凛が口にすると大志が凛の顔をまっすぐ見て
「しつけは現在の父が厳しいだけで、実の父は何も言いません」
と言うのだった。
現在の父?実の父?凛が救いを求めるように祐生や七海の方を見ると、祐生は水筒に麦茶を詰めるのに必死で、七海は大志の頭にぽんっと手をおくと「今日は私仕事だから一緒に行けないの。でも凛ちゃんが一緒に行ってくれるから」と言ってそのまま台所を出て行ってしまった。
え、ちょっと。凛が戸惑っていると祐生が「いってらっしゃい」と水筒を差し出して「洗濯、洗濯」とつぶやきながらやはり立ち去ってしまうのだった。
大志と二人台所に取り残された凛は困った顔をして心の中では毒づいていた。勘弁してよ、子守りじゃないってば。
そんな凛の気持ちを知ってか知らずか、大志は淡々と「では父から絵を受け取ってきます」と言うとアトリエへ向かった。

井の頭公園には人が溢れていた。七海の家から十数分の道のりを、大志と凛は五枚の絵を分担して持って歩いた。五枚の絵は居間に飾ってあった絵に比べると随分小さい。大志に聞くと、居間の絵は十五号で売りに行く絵は四号ということだった。
大志は黙々と歩いたので、凛は気詰まりで「何歳?」「大志くんも描くの?」「お父さんの絵は好き?」「よく公園に売りに行くの?」などと聞いた。
その都度大志は生真面目に「十歳です」「僕は描きません」「心の中がざわざわする感じがして好きです」「父との面会日に売りに行きます。七海さんや祐生さんが一緒の時もあれば刈谷の父とも行きます」などと答えるのだった。
刈谷の父。離婚して母に引き取られその母が再婚したのだろう、ということは凛にも察しはついた。ついたけれど、そういう立場の子供にどのような態度を取ればいいのか見当がつかない。

井の頭池と呼ばれる大きな池には、白鳥の形をしたボートがたくさん浮かんでいた。池の周りの道沿いには、すでに多種多様な露天がでている。
大志は迷わずに進み、ある箇所で止まるとリュックからさっとシートを取り出して地面に広げた。花見なんかで使うレジャーシートだ。シートの上に持ってきた絵を取り出して並べる。それらの絵は一枚一枚ラップのようなものでくるまれていた。凛も慌てて自分が持っていた絵を取り出して並べる。
絵には、どれも妖精と思われる羽の生えた不思議な生き物が描かれていた。それぞれ花の上に座っていたり、三日月にぶら下がっていたり、湖上に寝そべっていたりする姿が描かれている。しかし、どれも一枚に一人(妖精の数え方が定かではないけれど)しか描かれていないので、美しいけれど寂しい絵だった。その寂しさが確かに胸をざわつかせる。

公園は木陰で水辺のせいか、暑さは少しだけしのぎやすいように思えた。とはいえ、気温は時間の経過とともにぐんぐんあがっていく。祐生が持たせてくれた水筒の麦茶が信じられないほどおいしくて、しかし飲めばすぐに汗となって滴りおちた。
シートに座ってただ行きかう人たちを見ることで時間はゆるゆると過ぎていく。犬を連れて歩く人が通りすぎるたび、隣の大志が声に出して犬の種類を読み上げる。

トイプードル、柴犬、ミニチュアダックス、ゴールデンリトリバー、ポメラニアン、ドーベルマン、チワワ、ミニチュアシュナウザー、フレンチブルドック、イタリアングレイハウンド…
 
右隣には似顔絵描きの人がいて、左隣には手作りのアクセサリーを売っている人がいる。本当は店番じゃなくて客としてこの公園を巡りたかったと凛は思う。白鳥のボートにだって乗りたかった。まあ一人で乗るのは勇気がいるけど。

「お父さんは、刈谷さんは、銀行員なんだよね?」
間がもたなくなって凛が聞くと大志は頷く。
「こんな素敵な絵を描くとは意外」
言ってから失礼だと気づいて
「いや、それくらいすばらしい絵だと思って、そう思わない?」
と慌てて付け足した。大志は凛の言葉は気にもしていないように通りすぎる猟犬、101匹わんちゃんの犬に目を奪われながら頷く。
「父は母と結婚している間は仕事ばかりで絵を描いていませんでした。だから僕は父がこんな絵を描けるなんて知らなかった。母も知らないと思います」
そうなんだ、と凛はつぶやく。
家族でも知らないことってあるんだなと思う。

それからしばらく二人はただ黙って座っていた。通り過ぎる人や犬を眺め暑さでぼんやりしていると
「ちょっといいかな」と突然頭上から男の声がした。
初めての客かと緊張して顔をあげると、初老の男性が笑顔で立っていた。凛が何と言って対応したものかと困っていると、
「ここで露店を出すには許可がいるんだけど、知ってるかな?」
優しい声でそう聞いた。そんなこと知らなかった凛はびっくりして隣の大志を見る。大志は落ち着いた様子でリュックから何か取り出してその男性に渡した。
「うん、許可証はもってるみたいだね。ここに書いてある刈谷惇さんはどこにいるかな?」
許可証を返しながら男性がなおも聞いた。
「父は今トイレに行ってます。その間は僕とおねえちゃんだけで留守番しているんです」
大志ははきはきとそう答えて許可証を大事そうにリュックにしまう。
「トイレか、混んでるかもしれないなあ」
男性は言いながら視線は置いてある絵に向けられている。
「これ、お父さんが描いたの?」
「はい」
男性は頷きながら見ている。
「いい絵だ。売れるといいね」
そう言って立ち去った。
凛がほっとして肩の力を抜くと大志が立ち上がる。
「もうお昼だし今日は帰りましょう。子供二人だからうるさい人が来ると面倒です。さっきの人は優しかったからいいけど」
そう言う大志に「そ、そうだね」と答えて凛は絵をしまうのを手伝った。公園にいたのは二時間ほどだろうか。絵は一枚も売れなかった。

#創作大賞2024 #漫画原作部門

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