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最先端の医療技術を、私たちは必要としているのか⁈

戸恒香苗(加須市)

AIの進化が作り出す社会

 日曜日(6/30)のTV「サンデーモーニング」を見ていたら、実業家・投資家の孫正義氏がコメンテーターで出演していました。この番組にこの人が?と、場違いな感じもしましたが、進化するAIについて発言を求められていました。ちょうどその頃、中国で世界経済フォーラム(大連6/25)とかが開かれ、進化し続けるAIの未来について話し合われ、その中で、中国の李強首相が、進化するAIの側面として「失業・経済格差・AI格差」を引き起こすと警告したそうです。

 一方私たちの生活のあらゆるところで、AIが使われ始めていて、今週のテレビでも夏の浜辺で離岸流を予測し、人が流されないように使われているとか、あと宴会の幹事の代わりをAIがやるとかが話題にされていて、生活の安全面に、便利さにどんどん導入されていくようです。事務の仕事をしている方は、営業のあいさつ文はチャットGPTに書いてもらっていると言っていました。中学生が、読書感想文をそれを使って書いて提出したというのも聞きました。人によっては、かなり身近な技術なっているようです。

 番組の中で、孫氏は滔滔と「インターネットが出現した時、日本はバブルがはじけ、新しいものに手をだすことに懲り、萎縮し、最先端の技術に向き合うことができなかった、ゆえに失われた30年があり、日本からは、新しい技術が出てこなかった。そして今日にいたっている。アメリカははるかに進化し、さらに進化していくだろう。日本が立ち直るには、最先端の技術に向き合い、取り組まなくてはならない」と、AIを積極的に活用していかなくては日本の経済は立ち行かなくなると述べます。

 ある人は、「来年末には、AIは人類の誰よりも賢くなっている」と言います。昨年1年間のAIの進化は、すごいものがあったらしく、(リタイアして10年、全くAIが何かさえつかみ切れていなくて、恩恵を具体的に受けている感じもなく、すっかりその世界に取り囲まれていることさえわかっていません)今後4年間で、今の1000倍、また次の4年間で10億倍の進化?を遂げるのだそうです。その進化なるものがそう単純であるはずはなく、私たちにとって清濁あわせもったものだと思いますが、全く予想もつかない社会になっているということでしょうか。

虚実ないまぜの世界にどう立ち向かえるのか⁈

 今回知ったのは、「従来のAIは、AIに新しく画像を認識させその画像が犬か、犬以外かを判別する。生成AI(人工知能)は犬のような画像を新たに生成する」ことをいうのだそうです。知りませんでした。サンデーモーニングでも、生成AIで作った画像は、全く現実の世界を映したものとしか見えず、小さな男の子がハンバーガーにぱくつく映像でしたが、その子は全く実在せずAIが作ったものなのか、実在してるけれど彼を使った画像なのか、それさえ理解していない私が取り残されました。この画像が本物か、嘘かなんて見抜く力などあるわけがなく、虚実ないまぜの世界に身を置くことになるのかと、何とも不安になります。

 これからの社会は、AIを使った詐欺が史上最大の成長産業になると危ぶまれていると言うのです。確かに、私もパソコンの「カードが不正に使われています」の表示に反応してしまったり、ケータイに入った「メールアドレスを変えたので登録願います」という無名のメールに返事をしてしまったりと、勉強させられる日々です。
 この数年オレオレ詐欺に始まって、還付金詐欺、フィッシング詐欺等々新手の「特殊詐欺」詐欺の話を身近で聞きますが、でも、これらの詐欺は古典的なものになっていくのかもしれません。

 孫氏は、「自動車ができた時、人々は、世界は自動車を受け入れてきたし、交通事故に対しては、規制をして防いできた。だから、AIにも規制が必要であり、人間を守るために徹底的にやるべきだ」と強調しました。しかし、無限に出てくるだろうフェイク動画、偽情報をどう規制していくのでしょうか。それも国家が主導している場合があり、自ら学び、判断していくAIは、今や軍事に使われ、ドローンは人が操作するのではなく、自ら判断し標的を攻撃するのです。

 2040年の人出不足が1100万人と言われ、ま、私は生きていれば90才ですが、様々な分野で働く人がいなくて、ヘルパーさんを頼むのはぜいたくで、優秀な介護ロボットが世話をしてくれるのかもしれません。けれど、それも必要な人が、経済格差、AI格差の中で全員利用できるかどうか、AIは公平さを保障してくれる技術なのか分からない話でもあるのですが。

AIが人の生死を決める時代が来るのではないか?

 孫氏は、今手掛けている事業の説明をしていました。医療分野で、医療ベンチャーと合弁会社を作り、2000の病院と770万人の患者のデータベースを共有し、AI解析をして、救えなかった難病から人々を救うと言います。同じ席にいたコメンテーターの人達もうなづいてはいましたが、確かに、医師が持っている情報の何十、何百倍の情報をAI自らが学習し、問診、CT,MRI、ゲノム等々を全部網羅して、一人一人の病理を解析し、最適な治療を探し出すということのようです。
 と、まあ実業家の孫氏の話は、AIの明るい未来を描き、真正面から、純粋に取り組まないと、日本の失われた30年を取りもどすことはできないと強調したのです。

 このAI技術の進化が、画期的に私たちの生活に恩恵があると語られますが、ある職場では、労働者にとっては便利でも、職種によっては、職場をAIに奪われる現実も待ち受けるのです。欧米では負の側面についてかなり議論され規制の動きがありますが、日本では、出遅れている焦りからか、なぜかその議論は弱いのです。

 医療の中で、AIがどう使われていくのか、私たちにとって正しい診断、治療方法につながっていくらしい未来が語られますが、いずれ自分たちに訪れる「死」に関わる医療で、このAIがどのように使われていくのか、AIが私たちの生死を決定くしていくのではないかと、それを人々が受け入れていく世界がすぐそこにある気がしました。

「尊厳死」の選択肢を用意する社会

 「プラン75」(22.6)という映画を見ました。国が75才から「死」を選択できる制度「プラン75」を作り、ある老女がその施設に行く決心をし、そこで死にゆく仲間を目の当たりにて、意を翻して、施設を逃げ出し、美しい夕陽を眺めているシーンで終わります。
 彼女が街に戻っても苦境は続くでしょうが、死ぬことはやめたのです。彼女の生活する街の様子は今と変わらず、私たちが遠からず彼女の時代を迎えてしまう予感に満ちています。
 彼女はホテルの掃除をしていて、その仕事を首になり、家も見つからず頼れる親族もなく、一緒に働いていた友人も亡くなり先行きが見通せず、この制度を受け入れてしまいます。ハローワークも老人に仕事を与えないようにしているのか、不動産屋も住宅を斡旋しないようにしているのか、社会のお荷物であることをひしひしと身に染みる状態に追いやっていきます。
 まず、受け付ける公的機関の窓口があり、登録が終わったらコールセンターから連絡があり、スムーズに施設での死に誘導する役の人が配置されています。この手続きには「自己選択」「自己決定」の手続きが用意され、強制ではありません。それは、自己責任にもなっているのです。

 これはもう私たちの生活の中で、同様なことが行われてしまっているのではないかと、あれっと不思議な感じに襲われました。
 医療機関で親の死を迎えた方が体験することだと思うのですが、延命治療は「本人の苦痛軽減にならない」「無益な治療は人の尊厳を損なう」とされ、本人の意志の確認がなされ、確認できないときは医師と家族の相談の上、人工呼吸器、胃ろう等の延命治療は外されるのが普通になっています。  

 「消極的安楽死」イコール「尊厳死」とも呼ばれています。
 病院に患者が90日以上の入院すると医療報酬の大幅聞き下げがあり、胃ろうを50件以上やると、2割報酬が下がるのだそうです。故に、医療の側から、損をする延命治療を勧めるはずもありませんし、家族側も経済的負担から望むことが少ないのだと思います。

 認知症の独居老人の訪問介護に入っていたヘルパーの方から聞いたのですが、認知症を患っていた方で、誤嚥の可能性があるので食事はなし、褥瘡の苦痛を和らげるために、痛み止めの張り薬でうとうとさせていたと言います。その方曰く、その方は「枯れて亡くなった」と言っていました。ある意味、殺人ではないかとも言っていました。

意思の疎通がなくても、予想のつかないことが起きる

 この映画では、国が制度を作って困窮老人を追い詰めて、丁寧なケアをしながら自己決定させ「殺していく」というものですが、現在の終末期医療と何が違うのかとも思います。
 映画では、本人の意志があって、自己決定できる人々が、自ら「死」を選んでいくことに、ありえないと衝撃を感じます。でも、意思疎通のない高齢者の「尊厳死」は、今や通説になった「無益な治療は本人にとって苦痛」という理由から、周りも社会も納得しています。この両者の間には、意思疎通のある人とない人という違いが横たわり、意思疎通のある人は、死んではならない、意思疎通のない人は死んでも仕方がないという差別があるのではないか、それは自分の中にもある感覚だと気づきます。
 でも、一方は、社会にとって役に立たないとされる困窮老人、一方は医療費の負担がかかる認知老人とされ、医師の疎通があろうとなかろうと、国は制度を作って体裁のいい理由をつけて、その時の都合で命の線引きをしていくのではないかと思います。経済的なコスパが根底にあることに虚しさを感じます。

 私の母は、ガン末期で治療の施しようがなく、でも点滴は何とかルートを見つけて医師が入れてくれていました。もう、昏睡状態になったとあきらめていた時、亡くなる1週間前でしたが、突然「おなかがすいた」と言って目を開けたのです。驚き、嬉しく即、ジュースと、おかゆを食べさせました。  
 病院は誤嚥のため、食事を切っていました。看護師がモニターの心臓の拍動がすごいと飛び込んできて、それが母の最後の食事になってしまいました。
 意思疎通がないと思われる人が、実は何を感じて、何を思っているかなんて予想もつかないことだと思いました。

そもそも「尊厳」とは何か?

 さて、そもそも「尊厳死」の「尊厳」とは何かなと思います。最近手に入れた「自己決定権という罠」(小松美彦著2020)を、読んでいたら、西欧で「尊厳」が作り出された歴史が書かれていました。ちょっと、本に沿ってその説明を頑張ってみます。(224P~246P)

 「人が人を殺せば罪に問われるの普通だが、いつの時代にも権力は、ある特定の人たちについては殺しても全く罪に問わないとしてきた。そういう例外的な人々を作り出すことこそが権力の本質・正体」という箇所があり、この言はアガンベン(イタリアの政治哲学者)によるもので、例外的な人々(ホモ・サケルと呼ぶ)とは、古代では奴隷であり、中世のキリスト教社会では、異端者、近世では魔女、精神障害者、政治犯、そしてナチスはユダヤ人、障害者を例外者とし、現代では「脳死者」だと言います。
 理性・精神が備わっていることこそが「人間の尊厳」であり、近代以降の体制は「生きるに値する人間」と「生きるに値しない人間」を二分し、「人間尊厳」の有無という「美しく絶対的な概念」が線引きの根底に横たわっています。

 人間だけに理性、精神が宿っている、そして身体よりも理性・精神を上位に置き、「自分が自分であることがわからず、自分で生きようとする意志がないと見なせる」人たちは、人間の尊厳を失っているから生きるに値しない、だから「慈悲深い安楽死」をという優性思想につながっていきます。以前から「ゆきわたり」で篠原さんも、八木晃介さんも常々警鐘を鳴らしていることです。

 なんとも「津久井やまゆり事件」の植村聖が、語っていることと全く同じ思想につながります。「人間の尊厳」という言葉は、“理性・精神を保っている”人だけに許されていて、尊厳のない人には「尊厳死」という言葉を作って慈悲を与えてくれているわけです。
 「人間の尊厳」というなんとも心地いい言葉は、人を分断する言葉でもあるわけです。

安楽死・尊厳死に対する敷居は低くなっている

 映画「プラン75」の監督の早川千絵氏は、事前に一般の人にインタビューしたときに、80%の人たちが尊厳死を支持していることに驚いたと言います。確かに、「積極的安楽死」を求めて日本から合法化されているスイスに行き、亡くなるまでを写したドキュメントがTVで何回か流され、ネット上で自立的なその人への行動への賛同が聞かれ、人々の安楽死への敷居が低くなってきていると感じます。

 文藝春秋の著名人へのアンケート「安楽死は是か、非か」(2017.3)では、安楽死を望む発言がかなりあったことを覚えています。
 自分が末期がんで痛みに苦しんでいたり、寝たきりで、他人のお世話になる身になった時、みっともない自分を見たくないし、自分の生を終わりにしたいという心境は予想が付きます。
 私も今まで出来たことが出来なくなることを日々体験していますが、けれど耐えられず「安楽死」を選ぶとなると、かなり落差を感じます。彼らは著名人ですから、それまでの生き方が、できることに重きがおかれ、できないこと、または“迷惑”をかけて生活することなど考えたことがなかったからかもしれません。
 いずれ誰もが「生きるに値しない人間」になるのですが、どこまで、周りと繋がれているか、「共に」の地平があるかで、「安楽死・尊厳死」への道は遠のくのではと、希望を持っています。

「誰かのために生きる」を醸成していく

 先日(6/23)、「教育現場で語られる脳死と臓器移植」―中学・高校の教員を招いて―(臓器移植を問い直す市民ネットワーク主催)で教師たちの講演を聞いてきました。
 中・高の教科書で、脳死、臓器移植が教科書で取り扱われていることを知りました。中学では社会の公民や道徳の時間で教えるようですが、時間が限りのある中で、自分が臓器移植をする側、される側になりうることも含めて自分の問題として考えさせている授業を語っていました。
 そして、教科書の中に「命の贈り物」「命のリレー」という言葉が使われ、一方向で書かれている教科書もあり、子どもたちに「臓器提供をしないことは、わがままなこと、おかしいこと」と思わせ、「誰かのために生きる」ことへと導いていく雰囲気が醸成されていると言います。

 1997年「臓器移植法」が成立した時は、患者本人の事前意志の確認が必要でしたが、2009年の改訂では、本人が臓器移植に対して拒絶していない限り、家族の承諾でオーケーになったのです。改訂前12年間で、臓器移植は81件だったそうですが、改定後の8年間で2300件に達しています。

 私の知り合いのまた知り合いのお子さん7才が、心臓の病気で生まれてからずっと人工心臓につながれベッドで過ごしていたのですが、最近心臓移植に成功したそうです。聞いて正直ほっとする思いもありました。
 心臓をあげたお子さんの家族、もらったお子さんのこれからのことも複雑な思いで、言葉がこんがらがって何も言えない気持ちになりました。こんな身近な話になった時、臓器をもらいこれから外に出ていくだろう子どもの顔を想像し黙ってしまう自分があります。
 いつ、移植する側、移植される側に立つか、その現実に突然見舞われる時代になっています。巻き込まれずにそこから離れることが出来るのか、圧倒的な悲しみに耐えることが出来るのか、自信はないけれど、自分を信じるしかありません。

 冒頭の孫氏の言う医療とAIの連携では、AIが夥しい検査の数値から、個々の治療を導き出す話ですが、さて、「尊厳死」「脳死臓器移植」の現場にも、AIが導入されていくのでしょうか。
 「生かされる命」、「生かされない命」の判断をするのに使われそうな気もします。歴代の脳死患者の医療情報のほかに、成育歴、家族病歴や経済的な事情、その人の社会的な位置等の諸々の情報も入れられ、「脳死」の判断、「移植」の判断を医師はAIに頼るようになるのでしょうか。
 AIの判断が優先され、人の生き死にが、データや、情報処理の世界で忖度されていく違和感をいつも持ち続けたいものです。

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