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寿司は旨い。

寿司とはよく出来たものである。  

江戸時代において腐り易い魚を如何に食べるか、と言った保存食的な位置付けの調理法である。

鯖や小肌などの酢締め、芝海老の朧、現代では江戸前の仕事と言われ、江戸前寿司職人の技術の結晶である。

寿司は当時のファストフードとしての位置付けが発祥である。そのため、江戸時代からその文化を絶やさないために進化したもの、より価値観を持たせたものが江戸前寿司と言えるであろう。

そして現代社会のテクノロジーを駆使した事による鮮度の維持、高度な衛生環境の容易さが安価な寿司の普及に繋がったとも言える。  

より良いものをより安価に食せることへの感謝は忘れてはいけない。そしてこれらの例からテクノロジーの進化によって、食文化はより幅広い未開拓市場を生み出すことが可能であると位置付けられる。  

寿司は非常に多岐にわたる値段設定とクオリティによって様々なお店が存在する。これも単にそれぞれの価格層やクオリティへの満足度合に需要があるからだとも言える。

ある人間が一皿百円の回転寿司を批判し、自身の選択は江戸前の店主お任せ1万円のコースだとしても、それは必然とも思える。
選択者の境遇・環境と寿司の好みの質によって選び方が変わるだろう。そして大半の人間が予算に見合った店選びをするだろう。
しかし逆を言えば境遇・環境、予算に余裕があるからと言っても好みのレンジが広い人もいる。お任せ1万円コースも百円寿司もそれぞれに良さ・価値を見出し、満足出来ることが人間性の広がりや選択肢の多さ、本来のモノの質の見極めが出来る可能性が高くなる。
旨い寿司という問いに対して何をもって正解で、何をもって不正解といった答えは人それぞれである。  

他者から見た答はまた一方から見たら誤答である。正義とは悪から見た時の守りたいものを奪う存在である。一体、正義や悪とは誰が定義付けているのか。そもそも考える必要があることなのか。自身がこれは旨いな、これは不味いなと判断する感性を持っていることは罪を生む考えなのかもしれない。
結局は自分自身が満足出来れば良いのだ、と私は感じる。  

よく分からん事をしている会社の管理職をやっている中年男が社内の自身の娘と変わらないぐらいの若手社員にパワハラ・セクハラ紛いのLINEを送り、無理やり食事に誘い出し、大した味の違いもわかるわけでもなく高級なフランス料理店で白のシャブリを飲み、優越感に浸りながら帰り道の池袋駅西口前でワンカップ大関やストロングゼロを飲んでいる人間らを蔑んでいる小金持ち。
早朝に如何にも何十日と洗濯していないような服の男達が新木場駅南口バスターミナル前に集まり、乗合の労働バスに乗り働きに出、大した金も入っていない茶封筒を握り締めて仲間の居る池袋駅西口前でいつもの常温ワンカップ大関を飲みながら談笑している中、忙しなく背広と革靴の人間らが態々息苦しい満員電車を目指して歩いている姿を蔑んでいる浮浪者。


現代社会は寿司文化だけでなく、非常に選択肢の多いものである。そして環境も様々である。
好きで選んでいる者もいるが、後に引けない、または何かへの感性が死んでいることによる選択肢の減少によって手元にある選択肢のみで選ばざるを得ない人間もいる。
自身の選択が間違っている、と他者から言われる必要性がそもそもない。選択肢が少ない事を蔑まれてもその人間にとって選択肢が既にないのだ。
選びようがなく、正解と思わなければいけない選択肢しか残っていないのだ。  

人間は今ある手札をより最善の切り方でやり過ごして行かなければいけない。しかし、それまでに使い切ってしまったカードや引くことができなかったカードに対して未練がましく思っても、今手札にないものを切ることは出来ない。他者が横入りして手札を見て「あのカードがあれば良いんだけどねぇ」なんて言われてもないものは無いのだ。しかし、あるものを工夫して幸せに生きる術を見つけている人間を見ると素敵な生き方であることは間違いない。そもそもあるものでしか生きれないのである。  


俺がこの小説において言いたいことはこれだけだ。  

「美登利寿司は旨い、と思える感性を持ってて良かった。」

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