古民家日記

横浜・三ツ境/芝口駐車場隣接の古民家です。 HPはこちらから☆彡 https://p…

古民家日記

横浜・三ツ境/芝口駐車場隣接の古民家です。 HPはこちらから☆彡 https://peraichi.com/landing_pages/view/kominka

最近の記事

毎日営繕

 築70年の古民家ですが、補修を重ねて今に至っています。  今回は東南角の柱の補修と南側玄関の敷居の修理をします。  ⑴ この東南角は、ビル風が当たり、台風で雨戸や霧除け屋根が飛ばされるくらい風当たりの強いところです。土台は、グラグラの束石、柱の下10センチくらいは腐ってるようです。  はじめに、土台をモルタルでつくりなおします。型枠からつくります。写真は、型枠を外しているとろろ、綺麗にかたまりました。 ⑵ 新しい柱をホームセンターで購入しました。集成材にしました、4箇所

    • でぇがみさま

       でぇがみさまとは、乳出神様の呼び方で、東野に、かつての碑だけが残されています。今、東野は、区間整理されて、住宅が並んでいますが、昭和40年頃までは森林でした。山ギワの土手から水が流れ出し、小さな池となっているところがあり、乳出神様がまつられていました。昔、年をとった夫婦に、赤ちゃんが生まれて、お乳がでなくて困っていた時、この湧水を見つけ、水を汲んで帰り、この水で炊いたお粥を食べたらお乳が出た事が、伝えられ、乳出神様としてひろく信仰を集めていました。二ツ橋に停車場があった頃に

      • 二ツ橋

         これは明治初年の二ツ橋村の地図です。明治政府に提出した、偵察録。村に警察のような役割の方がいて、作成したそうです。  二ツ橋は、今は、相鉄線の駅がなくなったため、あまり知られない地名ですが、中原街道と鎌倉街道があり、交通の要です。  かつて鎌倉街道の旧道と新道に2本橋がありました。徳川家康さんが、鷹狩に来て   しみじみと清き流れの清水川        かけ渡したる二ツ橋かな と、よまれました。藤沢には、徳川家の別荘があり、中原街道を使って行き来していました。地図に美屋古山

        • 竹駒井

           この古民家は、2月にできました。壁は、父の器用な弟が、手伝ってくれました。 写真は、壁が欠けたところです、下の土壁、竹駒井が見えてます。  竹を編んで壁を作りる、竹駒井というそうです。土壁に適した土はここにある、と知られていて、取りにいってくる、土を藁とまぜて、練る。竹駒井に塗って壁をつくる。その上に、漆喰を塗る。  2月寒い中で、壁が、乾かなくて、火を焚いて、壁を乾かした、と父から聞いてましたが、先日、父の90歳の誕生日に、古民家に来た叔父も、中で火を焚いて壁を乾かした話

          7月23日沖縄戦

           父の戦争体験の話です。 NHKで7月23日沖縄戦の番組をみた時、昭和20年7月24日朝の話しをしてくれました。  昭和2年生まれの父がいった通称東航.『東京陸軍航空学校』の事はあまり、知られていないと思います。  昭和2年に生まれた父は、自分の運命を自分で選べない、すべては命令のまま、という戦時体制の中育ちました。  始めに、父は学校の先生の指示で、大船の海軍燃料省に行きました。子供達も使い走りしたり、雑用したり、働いてました。この頃は、お勉強はしないで、工場などで働いて

          7月23日沖縄戦

          厚木飛行場

           綾瀬市蓼川に厚木飛行場はあります。豊かな農地は、強制立ち退きになった事でしょう。私が子供の頃は、厚木飛行場は、飛行場をみにいく遊園地のようにおもっていました。 表題の写真には、エアフォースの文字が こちらの飛行場には、自衛隊の文字がみえます。 マッカーサーが降りた厚木飛行場です。 明治の頃、父の祖父もりたろうさんは蓼川からお婿さんにきました。大変な働き者だったそうです。 30年程前、親戚のお葬儀があり、父が蓼川にいった時の事です。なくなった親戚と血縁はないのですが、

          厚木飛行場

          中原街道

           祖父の家は、中原街道沿いにあります。父が子供の頃、早朝牛車を引く音がするそうです。 ここ二ツ橋は鎌倉郡から横浜市に変わっていきましたが、近くに、サナトリウムが建設され、郊外の空気の澄んだ地域です。横浜といえば、天王町、興福町、浅間町あたり、が都会。中原街道から16号を牛さん歩いて行ったんですね。 牛車で街まで野菜を売りに行き、街で肥やしをもらうという、江戸時代的持続可能なエコが、実践されていたんですね。すごいですね。そして、朝飯前、に戻ってきた、牛さん大変でしたね。  昭

           祖父の家は、中原街道沿いにあります 前庭は中原街道の拡張工事の時に、削られてしまいました。  今は道路となった庭、父が子供の頃は毎朝、焚き火したそうです。 祖父は山の仕事をしていましたから、燃し木がいっぱいあったそうです。  山の持ち主の依頼で、木を切る、ヒノキなどは船の舳先に買い手がある。 それで祖父は、自転車でよく横浜まで行っていたようです。関東大震災の時も青木橋にいて、自転車でやっと帰って来た、と言う話です。  一本の木を切ると、細かい枝や根や、大量の焚き木が大量にで

          開かずの扉

          森林が伐採され、整地後、この家が建てられ、その後、横浜市の市営住宅が建てられていきました。この家が建てられた時には、電気はきてましたが、水道は、まだ通ってなかったので、父は井戸を掘りました。昭和40年頃までは井戸から水を汲んで遊んだと思いますが、使わない井戸水は、濁ったりして、危ないからと、蓋をして、さらに、小屋組みして、鍵を掛けました。つまり開かずの扉ができました。 井戸を塞ぐ時は、拝み屋さんに祈祷してもらい、危なくないよう埋めたら、いいと思います。父がそうしないのは、人を

          根を磨き出して花台に加工

          趣味で根を磨き出して、塗装、加工した花台を叔父が持ってきたのは、何十年前の事だろう、間違いなく、昭和。 一昨年、父の91歳のお誕生日に、男兄弟が集まり食事した際の叔父の話です。 祖母は、9人の子供をうみました。 男6人.女3人。 この根っこを加工した器用な叔父は、四男さんです。 懐かしい話から、その叔父が子供の頃から、トラックを運転していた話になりました。 祖父母の家は、山の仕事をしていた為に、早くから3輪トラックを持っていました。村で2台しかないうちの1台です。 祖父母の家

          根を磨き出して花台に加工

          かつおぶし屋さん

          かつおぶし屋さんというお仕事は、初めてしりました。 築地の場外に遊びに行ったとき、店でかつおぶしを削って売ってて、いい匂いがして、できたてを紙袋に詰めてくれて、家に帰ってしばらくは築地の余韻を楽しんだりしました。 そんなお店だったのかな? 玄関土間より、さらにせまい、2畳ほどの下屋という空間。今は、室内として、体裁を作ってますが。かつおぶし職人さんが、こちらでお仕事されていたそうです。 子供の頃は、贈答品のかつおぶしってあり、家にかつおぶし削りがあり、私とかも、やっては見るけ

          かつおぶし屋さん

          みどり文庫

          ご近所の70代の方々は、ここが貸し本屋さんだったと懐かしく語られます。 3畳もない叩き土間ですが、マンガをここで読んだんでしょうね! みどり文庫のみどりは、私の同級生のお母さんのお名前です。私たちは小学1年生から同じクラスでよく一緒に遊びましたが、その頃は、もう貸し本屋さんはやってなかったので、私たちにはその記憶はありません。 貸し本屋さんは、同級生のお母さんだったとは後から知りました。そして、いつだったか、ご主人も、なくなられて、お見かけした時、貸し本屋さんの話をしたら、懐

          みどり文庫

          森へ薪をとりに

          この辺りでプロパンガスが普及したのは戦後の事だときいています。 どこの家でも山に薪をとりにいったのでしょうか。 父は木を丸めるのが上手です。 戦時中、父は立川の東航にいました。 東航の話は、またいずれ、です。 ある日休暇で家に戻ると、母以外、妹弟誰もいなかったので、みんなどこにいったの、と聞いたらみんな山に薪にとりにいったと。 薪は供出する物です、妹弟は小学生です、そして憲兵さんが、護衛でついてきてくれるそうです。 父は少年兵で寄宿舎で訓練していて、皆の日常にびっくりしたと。

          森へ薪をとりに

          玄関土間

          玄関としたら、広い3畳くらいのたたき土間があります。 こちらで3月の納税時期には戸塚の税務署の出張所として職員さんが、いらしてました。 戸塚から、神奈中バスは、阿久和まで、阿久和が終点だったそうです。 二ツ橋、三ツ境へからは自転車で阿久和にいき、バスに乗ったそうです。 戸塚は遠かったから、出張してくれてたんですね。 当時阿久和には、大きな農家さんがあって父の同級生は丁稚に出されたそうです。 小学生で、途中でいなくなる子があって、丁稚にいく、、、 そんな子は、その後、農家でい

          ヒノキの根を磨きだした板

          伐採した木の根を磨いて飾ったり、テーブルに加工したものをご覧になったことありますか? この写真は、古民家の裏口です。 この板は、叔父が持ってきてくれて、保管してましたが、父が古民家の裏口を修繕したとき、デザインして組み込みました。 叔父が亡くなって20年以上になりますが、父はこのヒノキの使い道を見つけて出来栄えにも満足しています! 祖父は明治29年生まれ、仕事は、素材生産業をしていました。 山のヒノキを切り出して、用材にして、売ります。山の持ち主さんにはお金を支払います。 

          ヒノキの根を磨きだした板

          年輪

          70年前に苗を植えた檜木さんですが、この度、2本を伐採しました。 土地を守り、環境を守ってくれた檜木さん、ありがとう、心から感謝して、お米とお酒でお別れ式をしました。 父は10本の檜木の苗を植えました、1本は、30年ほど前に、枯らしてしまい、今は、9本、手入れしています。足場を単管で2階建てに組んで5メートル以上にならないよう剪定してきました。 剪定スタイルにもこだわりがありましたが、先を考え処分することにしたようです。  1本は、電柱の支線に絡んでいるため、東京電力さんに