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感動をつくれますか?

『蜜蜂と遠雷』という恩田陸の小説が文庫化されて書店で平積みになっているのに釣られて読みました。音楽家たちがどんな思いで演奏しているのか、その内面がリアルに描かれていて音楽に疎い自分でもピアノを弾きたくなってしまう、そんなも物語です。

「音圧がまったく違う」「曲の解釈が素晴らしい」等、ん?となって今一つ咀嚼しきれない表現もあって、音楽家とそれ以外の人には割と深めの溝があるのかなという思いと同時に、自己表現を突き詰めるアーティストからも学ぶことはたくさんあるとも感ています。

絵画をメインに取り上げる原田マハの文庫もいくつか読んでいたこともあり、アーティストがどんな思考で活動しているのかという興味に駆られて読んだのが久石譲による新書です。アーティストなんか知らん、という人でも「ジブリの音楽」と言えばさすがにピンとくるのではないでしょうか。彼の内側をのぞける、そんな一冊です。


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『感動を作れますか?』

「クリエイティブに生きたい」というのは何もアーティストに限った話ではないのでは。目的のために最良の結果を出すべく最大限の努力をすること、期待を超えるアイデアを生み出すべくセンスを磨くこと。作曲もビジネスも根底は同じものがあるという前提の下で著者が自身の思考プロセスや職への思いを言語化し、「創造力」や「感性」を伝えている。

ものづくりの姿勢には2つの種類がある。1つはひたすらに自分の価値観や信念を表現していくタイプ。いわゆる「芸術家」はこちらに分類される。著者はこちらではなく、自身を社会の一員として位置づけ需要を満たす者として役割を果たしていく、一般的なビジネスマンと同じ立場(姿勢)であると明かしている。

商業ベースでのものづくりには当然、周囲からの評価が不可欠になる。そしてその評価を得るために重要なことはいかに「感性」を働かせるかに掛かっているという。

しかし、特に日本では、この「感性」という言葉を大事にし過ぎている傾向にある。漠然としたもの故に棚に上げ、結果的に更にその実体を掴めなくなっているが、それは「論理性」と「感覚的直観」に分解されるものである。
「論理性」とは詰まるところ自分の中の知識や体験の集積である。何を学び、何を血肉としてきたかが自分の論理性を構築する。
一方、「感覚的直観」は、センスやひらめきとも称されるものに等しい。論理は人に伝える上で必要不可欠であるが理路整然と整理されたものだけでは人の心は震えない。しかし、それさえも基盤となるのは過去の体験である。秩序の限界を超えた先に心に訴えかけるものが出来上がるが、その根源は結局自分の中にあるものでしかない。

そんな感性を磨くには、ありとあらゆる感覚を「総動員」させ、自分を限界まで追い込むしかない。その中で、「普通」の範疇を超えるものが生み出されると述べている。彼自身は論理性と直感の割合は95%と5%としているが、それは当事者の環境で変わるようだ。なんにせよ、論理と直感は明確な線引きがあるわけではなくカオスの状態で互いに向き合っているもの、と表現している。セレンディピティというものがあるように、様々な影響を受ける中で初めて「自分らしさ」は浮き上がってくる。

そしてそんな極限の状況での感覚や第一印象は間違っていないことが多いらしい。余分な感情や観念に支配されていないからだ。ゲーテの言葉を引用してこんな風に言っている。

「感覚は欺かない。判断が欺くのだ」

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では、論理はともかく、どのようにして直観力を磨いていけばよいのか。それが経験の蓄積であるならば方法は2つ。インプット量自体を増やしキャパシティーを広げていくか、インプットに対しての「感度」を高めるか、である。

前者に対して著者は、「結局いかに多くのものを観て、聴いて、読んでいるかが大切」と述べている。創造力の源の絶対量を増やすことは何よりも大切である。

とはいえ、人間は行動できる量には限りがある。前者が「量」であるのに対して後者は「質」の向上にフォーカスしている。どれだけ豊富な経験があってもそれを自分のアウトプットに活かせなければ意味はない。天気予報がない時代から漁師たちは台風の到来を予想していたように、人間は第六感を働かせることで必要な情報を掴んできた歴史がある。普通の人では見逃してしまう事柄の中からも何かを見つけることが出来るか。「砂の中から砂金をすくい取る」ような意識を持ち続けることはものづくりの上でとても重要なことである。

感度を磨く方法(姿勢)についてもいくつか述べている。
まずは既成概念でものを考えないこと。固定観念や「べき論」に縛られずに柔軟になることが求められる。
「客観性」を持つことも重要。「もうひとりの僕」で自分さえも俯瞰することはセンスの良しあしにもつながる。皆がコップとしか思わない物質に対しても、コップであるという認識を持ちながらも「花瓶」と捉えられるような例えを挙げている。
そして、経験に対して臆病にならないことも重要である。人は時として経験によって自分を狭めてしまいがちだが、そうではなく自分を広げることは知性につながる。そんな経験の活かし方をしてほしいようだ。

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そして、日本人とクリエイティビティの関係性についても述べている。一例として、中国との伝統音楽の継承について取り上げているのだが、中国では千年前の音楽など跡形もないらしい。中国人は伝承の過程で独自に手を加えていくため原形というものは消えてしまうのだ。中国琵琶という楽器についても、昔の資料はほとんど残っておらず奏法もすっかり変わってしまっているようだ。
一方、日本はというと、平安時代の音楽を今でも違わず聴くことができる。これは日本人の管理能力の高さの賜物によるものだが、裏を返せばクリエイティビティの乏しさの表れであるとも取れる。伝統がしっかり残っていることから創意工夫に富んでいると思い込みがちだが、実はそこが意外に弱い国であると指摘している。

そんな国の中で、彼自身は先頭を切って走っていく意気込みで締めくくられている。生涯現役であったピカソを理想として挙げながら、
「僕は、とにかく曲を書き続けていきたい。たとえ周りの人間がバタバタと斃れようとも、それが許されるのであれば、屍を乗り越えてでも、いい曲を書くために邁進していくことが、作家としてのあるべき姿だと思っている。」

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最後の言葉にもあったように、久石さん自身が結構熱い人なんだなというのが強い印象です。他にも「男でも女でも、社員はみんな社長になることを目指すべき」とか「昨日より今日、今日より明日」とか、クリエイティビティに対する貪欲さが滲み出ていることはビジネスマンや学生にとっても共感を得られる姿勢ではないでしょうか。


映画化もされた『日日是好日』では茶道を含む「道」の実態を垣間見ました。理屈ではなく、思考すらも削ぎ落して、とにかく動作を徹底して反復していく。その先に、「コップに注いだ水が溢れるように」今までなかった感覚が芽生えることが著者の体験から描かれておりとても新鮮だったのですが、久石さんも「道」について触れています。型から入るという意味で日本人に適しているとして基本的には肯定しているのですが、型を覚えること自体に安心している人が多い事に問題意識を持っているようです。型を突き詰めた先を自分でどのように設定していくのか…もっとそこに意識を持っていく必要がある、と。ただのインプット野郎にならないように「砂の中から砂金をすくい取る感覚」を持って…


日本を代表するクリエイティブなアーティストの内面からクリエイティビティに迫れる、面白くクリエイティブなクリエイティビティでした。


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