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2021年9月27日 小松庵総本家 銀座 ≡ 森の時間 ≡ 講師 画家 山本ミノさん

山本ミノさんによるアメリカのお話の3回目です。山本ミノさんは、小松庵銀座のギャラリースペースで2021年7月5日(月)から10月3日(日)まで『山本ミノ展 -N.Y-URBAN FOREST』の Part I 、IIを開催していました。会期も終わりに近付き、これまでの2回のトークイベントでは語り尽くせなかったアメリカ生活のお話をしていただきました。

<アメリカの文化はサブカルチャー>

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山本ミノさん(以下、ミノさん)
これまで長期に渡りニューヨークの作品展を開催いただき、ありがとうございました。ここで話をするのも3回目。1回目はニューヨークに移り住んだときの話、2回目はアメリカを語る上で外せないネイティブアメリカンの目線からアメリカを見たときのお話、そして3回目の今回は、アメリカのサブカルチャー中心のお話です。イギリスやヨーロッパ、日本は歴史があるので、「サブカルチャー」という概念が存在しますが、アメリカは新しい国なのでサブがほとんどメインの国です。そのアメリカのサブカルチャーでは、エンターテインメントが盛んです。その中で映画といえばハリウッド映画が中心。ニューヨークではミュージカルです。そのアメリカのサブカルチャーでは、エンターテインメントが盛んです。その中で映画といえばハリウッド映画が中心。ニューヨークではミュージカルです。ブロードウェイ・ミュージカルは、42丁目から46丁目が中心だったと思いますが、劇場がひしめき合って立ち並んでいます。、;ブロードウェイ・ミュージカルは、42丁目から46丁目が中心だったと思いますが、劇場がひしめき合って立ち並んでいます。
ブロードウェイ・ミュージカルは、42丁目から46丁目が中心だったと思いますが、劇場がひしめき合って立ち並んでいます。

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調べたところ、1番のロングランは約1万3730回上演された「オペラ座の怪人」、次が「シカゴ」「ライオン・キング」「レ・ミゼラブル」「コーラスライン」「マンマ・ミーヤ!」「美女と野獣」と続きます。ミュージカルというのは、いかにもアメリカらしいエンターテインメントだと思います。ヨーロッパでは、オペラや歌劇という表現がありますね。
映画では、1940年代は「風と共に去りぬ」が人気でした。当時は時代的に西部劇が多かったですね。40年代後半には「雨に唄えば」や「エデンの東」。60年代になると「ティファニーで朝食を」「メリー・ポピンズ」、60年代後半には「猿の惑星」が出て、80年代になると「ランボー」「コマンドー」「ターミネーター」と段々とSFチックな作品が多くなります。2000年代前半は「パイレーツ・オブ・カリビアン」。海賊役でジョニーデップが出演しています。そして「ロード・オブ・ザ・リング」。2000年代後半は「アイアンマン」。これもアメリカ映画らしい作品です。

少し話は外れますが、ニューヨークにブリーカー・ストリートという通りがありますが、ここに週に一度くらい日本映画の日があります。この日は、ものすごくたくさんの民族の人たちが来ます。ここでは今でも圧倒的に黒澤明や小津安二郎などの監督作品が人気です。ここでは日本映画の良き時代の監督たちの作品を見ているのです。あとは、ATG(日本アート・シアターギルド)という映画会社に葛井欣士郎というプロデューサーがいて、そのころの大島渚監督の作品も過激でおもしろくて人気があります。

<アメリカの音楽は、やはりジャズ>

ミノさん

音楽の話に移ります。
ジャンルの話をしますと、クラシック、民族音楽、ロック系のポップスに分けられます。別のジャンル分けの方法では、電気音楽とアナログ音楽でしょうか。
クラシックはアメリカでは州ごとに大きなオーケストラを持っているくらい力を入れていますが、基本的にポップス系、ロック、ジャズ、ブルースを聞くことが多いです。世界中の音楽を分けると、2000種類くらいあると言われています。日本だけでも民謡や歌謡曲、浪曲、常磐津、都々逸など、ジャンルを数えていくと100種類くらいあります。各国にそれぞれ民族音楽があるので、それを数えると2000種類くらいになるそうです。

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アメリカの音楽といえば、やはりジャズです。前回のネイティブ・アメリカンのお話しをしたときに、アメリカの文化はアングロ・サクソン系の人たちが中心という話をしましたが、アメリカでは音楽もアングロ・サクソン系の人たちが中心の世界です。

ネイティブ・アメリカンの人たちも一応音楽を持っていますが、基本的にはリズムがなくて、音楽というよりも「祈り」になります。それに対して、アフリカ系の人たちにはリズムがあります。アフリカ系のリズムをアメリカに持ち込んだのは、ニューオリンズの綿工場に奴隷として連れて来られたアフリカ系の人たちです。ジャズが形作られる前にも、ネイティブ・アメリカンとアフリカ系の音楽が混ざったり、あとはヨーロッパから移住したアングロ・サクソン系の人たちが持ってきた音楽が混ざったものがあったようです。

<ジャズはいろいろな人種が集まって変化した>

ミノさん
いろいろな人種が集まることで、いろんな音楽がミックスされました。
「ラグタイム」という音楽のジャンルがあります。ジャズの前身と言われていますが、ジャズとは少し違っていて「シンコペーション」が入ります。
1、2、3、4という「タン、タン、タン、タン」というリズムがあるとしたら、シンコペーションは、「タン、タタ、タン、タン」という感じになります。インパクトが強いリズムになりますので、一時期、流行りました。これはアングロ・サクソン系の人たちが始めた音楽です。民族的な意味でも音楽の変化が見られました。

ニューオーリンズは基本的にフランス人が多く入ってきたエリアです。ニューオーリンズには「フレンチ・クオーター」という街がありまして、今でもデキシーランド・ジャズをやっています。ちなみに、その街の出身者がトランペットとボーカルをやっていたルイ・アームストロングです。

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私が今回、音楽の話をしているのは、実は音楽関係のデザインをやっていて、その頃の事情を知っているからです。
デザインは、最初はレコードのLP盤をやっていましたが、時代がCDになりパッケージで表現できる面積が小さくなり、つまらなくなってしまいました。LP盤のデザインをしていた頃はEP盤とセットでやっていたので楽しめました。

ジャズも時代によっていろいろな音楽形式があります。ゴスペルやブルースなどいろいろな音楽が混ざります。そのブルースにもいろいろな形式があります。シカゴ・ブルースは、エレキ・ギターなどの電気楽器を中心です。ブルースではB.B.キングが有名です。

<1920年代からのジャズ>

ミノさん
音楽は互いに影響し合って発展していきます。ジャズの歴史に戻りますと、1920−1940年代がディキシーランド・ジャズの時代です。1930年代になるとビッグ・バンドの時代になり、デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、カウント・ベイシーらのバンドが有名です。1番の全盛期は1950年頃です。アメリカの景気も良くなり、生活もその頃に良くなりました。

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参加者の人
ダンスとも密接に関係がありますね。
日本でも1955年頃にダンスホールが盛り上がりましたね。

ミノさん
はい、そのころのジャズは管楽器が中心でした。ビッグ・バンドから変わってきて、カルテット、トリオになってきました。ピアノの位置も伴奏として後ろにいたのが、50年から60年になってくると段々と前に出てきます。
ビル・エヴァンス、セロニアス・モンクらのピアニストは、1つ1つのセクションであそび心が出てきます。最初のビッグバンドの頃は譜面通りの演奏でした。
50年後半や60年代には、ジャズの神様と言われるほどの天才、マイルス・デイヴィスが登場します。この人は裕福な家庭で育ち、音楽理論などをしっかりと勉強していました。このマイルス・デイヴィスのバンドに、ジャズが発展する大きなきっかけになったチャーリー・パーカーなどが参加します。この頃の音楽シーンはすごいです。マイルス・デイヴィスが一般的に有名になったきっかけは、映画の「処刑台のエレベーター」です。彼は、アルミ製の「ミュート」という弱音器をトランペットに取り付けて、音を殺して独特の寂れた音色を出していました。
この頃、音楽の世界ではジャズが一般的になりました。自分も子供の頃、近所の床屋の若いお兄さんが仕事の後にサックスの練習をしていました。今思い出すとその曲は「イパネマの娘」でした。日本にも音楽好きの人がちゃんといました。

<その頃、日本の音楽界は>

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ミノさん
日本の話になると、1950年にロカビリーの時代になりました。これはカントリー・アンド・ウェスタンでした。小坂一也、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎などの歌手たちが出てきました。その頃の日本はおしゃれでした。

小松社長
大瀧詠一はFEN(米軍の極東放送)を聴いていたようです。戦後の47年には貿易も再開されましたが、52年までの5年間は日本からの輸出品にはオキュパイド・ジャパン(Occupied Japan=占領下日本)の文字が付けられていました。その影響もあって、ビートルズ以前のポピュラー音楽では、コニー・フランシスが大ヒット曲「VACATION」を英語で歌っていたとき、同じ時期に日本では日本語カバー曲が歌われていました。テレビも、アメリカと同じ時期に放送されていましたね。だから流行したのが同じタイミング。アメリカで流行っていた時代に、同じ時期に日本でも流行っていましたね。
その頃は、日本の音楽の黄金期でもありました。アメリカの音楽は、それまでの日本の歌謡曲と融合しながら新しい文化を作っていました。日本には、1961年の終わり頃に、世界最高の歌劇団のイタリア歌劇団の「カヴァレリア・ルスティカーナ」が来ましたし、66年にはビートルズも来ました。

ミノさん
戦前は、日本の歌謡界は東海林太郎とか、芸者歌手の神楽坂はん子とか、市丸とか独特の世界がありました。浪曲の三波春夫、そのあとに坂本九、舟木一夫、北島三郎のような演歌が続きますね。
ロックの話に戻ると、私は以前、音楽雑誌の仕事をやっていましたのでミュージシャンとの交流もありました。日本はテクノがすごくて、テクノといえばYMOです。メンバーは細野晴臣や、高橋幸宏、坂本龍一。

<エレキギターなどの電子楽器からロック音楽へ>

ミノさん

エレキギターなどの電子楽器が増えて、電子音楽も進みました。
ブルースに影響されたのが、エリック・クラプトンや、レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジですね。彼らは、イギリスでブルースを昇華させていました。ブリティッシュ・ロックという大きな音楽ジャンルになっています。そこからディープ・パーブルのような伝説的なロックバンドが出てきました。
ロックの電子音楽をジャズに取り入れられたジャズ・ロックが生まれました。ジャズはさらに変化していて、さらにいろいろなジャンルの音楽を取り入れて、1970年代半ばにはジャズ・フュージョンが生まれました。軽くて聞きやすいジャズです。黒人系のジャズはベースの音1つが重いのですが、アメリカの西海岸では白人が演奏するサラッとしたジャズが流行りました。日本ではクール・ジャズ、スムースジャズと呼んでいます。日本で人気の高いビル・エヴァンスも白人です。熱烈なジャズのファンは、ヨーロッパではフランスやドイツや北欧に多いですが、世界で1番ファンがいるのは日本だと思います。本場のアメリカでは残念ながら若い人がジャズを聞くという文化がなくて、ファンは少ないです。

<日本の音楽のレベルは高い>

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ミノさん

日本のジャズのレベルは高いです。例えば、穐吉敏子(あきよし・としこ)、50年代に日本人として初めてバークリー音楽院で学びます。未受賞ですが、グラミー賞を14回もノミネートされました。
彼女が渡米後にバンド・リーダーとなったのは、サックス奏者の渡辺貞夫です。日本でも「ナベサダ」という愛称で有名だったのですが、やはりバークリー音楽院に留学しました。
帰国後、たくさんのミュージシャンを育てて共演しましたが、その1人が鈴木良雄です。叔父さんが、「スズキ・メソード」の創始者・鈴木慎一です。
日本のジャズで、渡辺貞夫と双璧をなすのが山下洋輔。彼のグループは日本で初めてフリー・ジャズを演奏したグループと言われていますね。

1969年から86年までは、ヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)が開催されます。フォーク系のコンテストで、そこから中島みゆきや五輪真弓が出た。
もう1つのヤマハのコンテストが「イーストウェスト」で、こちらからはサザンオールスターズ、子供ばんど、シャネルズとかが出ました。これら2つのコンテストの棲み分けは楽器です。フォークギターを売るための販促イベントがポプコンで、エレキギターを売るためだったのがイーストウェスト。それぞれにスターが出れば、楽器が売れるという考えです。
私は、当時その仕掛けを考えていました。

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今、日本の音楽はアメリカに劣らないくらいレベルが高いものになっています。毎年、夏に開催されている日本最大規模の野外音楽イベントのフジロックフェスティバルもすごいですよ。いろんなミュージシャンが集まって、観客たちはテントで寝泊まりしながらひたすら音楽を聴きまくるというのが定番になっています。
日本の若者たちは、生活の一部どころか、音楽が生活そのものになっています。

今回のお話は、この辺りで終わりにしておきます。ありがとうございました。

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