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同調圧力ってやっぱり気持ち良くない

同調圧力という言葉をよく聞くようになった。他にも相互監視、自粛警察なんていう言葉も。
コロナ禍という想定外の事態を乗り超えるには、みんなが協力し合わないといけない。それなのに営業を続けてる店は潰れて当然。外出してるやつは制裁を受けて当然。そんな空気が広がる。

その空気の中で先頭に立つリーダーは、時のヒーローになり、従わないものは排除と制裁の対象となる。そうなってくると法律とかは関係ない。「世間の目」が法律になる。法律が許しても世間が許さない。

協力し合うことと同調圧力は同じなのか

こんなことを言うと「じゃあ、お前はみんなが自粛に協力せずにコロナ感染が拡大してもいいと思ってるのか」と突っ込まれそうだけど、そんなことは決して思ってない。

僕の周りには保健所や病院、PCR検査をする研究所で、文字どおり連日連夜、危険も顧みずに働いている仲間がたくさんいるので、そんなことは決して思わない。

みんなが協力し合ってこの事態を乗り越え、コロナを収束させることは何より大切なことだと思ってる。でも、協力し合うことって、それはみんな同じ考え方になる、少数が多数に従うということではないんじゃないの?という疑問が湧いてくる。

Coachingと1on1Meetingで気づかされた

なんでそんなことを感じたのか?それは何となく気持ち悪いな、この空気感イヤやなって感じてたからなんだけど…
コロナ禍の中でいろんな変化があって、とにかく突っ走ってきたけど、ここらで少し落ち着いてこれからのことも考えなきゃって思って、思い切ってCoachingや1on1Meetingをしてもらった。
これから自分はどうしたいのか、何が大事だと感じているのか、どんな希望を感じているのか…いろんなことを気づかせてくれる貴重な時間になった。

で、いろいろ考えを巡らせると、コロナ禍を経験したうえで、僕自身が希望を感じるのは「違いを認め合って話し合う」ことの先にあるのではないかと思うようになった。

振り返ると同調圧力に負けてきたなと思う

幼い頃から太っていて運動が苦手だったけど、周りに流されて小学校ではソフトボール、中学校では卓球、高校では柔道と、スポーツを続けてきた。え?運動苦手なのに?
そう、本当は絵を書いたり、料理を作ったり、楽器とかに興味があったけど、男子なんだから運動部に入るのが当たり前という空気感を感じていた。太ってるからスポーツから逃げてるって思われるんじゃないか?そんな感じ。

他にも自分にはいろいろマイノリティな部分がたくさんあると思うけど、そのことを主張するよりも、とりあえずその場は周りに合わせるという生き方をしてきた気がする。
中学校のとき、男子が集まると「どのアイドルが好きか?」みたいな話になる。大して興味がなくても好きなアイドルを作り出していたのを思い出す。「誰が好きか?」みたいな恋話も盛り上がる。ここでも同じく、興味ないとは言い出せない。もし、そんなことを言えば、その場の空気が悪くなるし、うまく友達付き合いができなくなるのではないか、そんなことを考えていた気がする。

コロナ禍の中での普通

コロナ禍の中で、この困難を乗り越えていくために、協力し合おうという空気とともに、協力しない、できないやつは許さないという空気が蔓延していった。
国の特定給付金を巡っては、受け取りを拒否すべき、寄付すべきという空気が生まれ、自粛に応じない店や他府県ナンバーが攻撃される。コロナ禍の中、これまでの普通の暮らしが普通にできなくなって、未知のウイルスの恐怖や不安が世の中全体を覆い尽くし「多数に従うべき標準」がいつの間にか作られ、それに従えないことは激しい批判を受けることになった。

withコロナ、コロナとの共存と言われるようになって「新しい生活様式」という言葉までもが作られた。オンラインでの教育、テレワークなども進められていくだろう。だけど、すべての人が同じ様式で生活することなんてできないし、またそのことが批判されたり、社会の隅へと追いやられることになるのではないかと思う。

コロナとの共存=多様性や違いを認め合う社会に

同調圧力という言葉は、同調できる大多数にとっては気持ちの良いことなのかもしれないけど、同調できないときは、ものすごく気持ちが悪い。同調圧力ではなく、同じでないことが調和できる社会になってほしい。そのためにやっぱり必要なのは違いを認め合った話し合いなんだろうなと思う。


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