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東京2020に、想う。

現在、わたしはバンコクに住んでいる。
バンコクは街中の規制が厳しくなっているため、ここ数日、食材や日用品の買い物以外はほとんど外出をしていない。
そんな中、東京2020オリンピック・パラリンピックが一年後ろ倒しで開幕した。ステイホームが続いていることもあり、おかげでわたしは連日テレビに釘付けだ。
日本人選手はもちろん、タイ人選手の活躍も嬉しい。そんな特別な大会になっている。


また、夏季大会の母国開催は、自分が生きているうち、きっとこれが最後の大会なのだろうなとも思う。そういう意味でも東京2020は特別な大会に感じる。だから、いま感じていることを言語化しておきたい思う。




このコロナ禍においてオリンピック・パラリンピックを開幕することは、直前まで賛否あったことはもちろん理解している。そもそも多額の税金を投入して大会を開催すること、感染リスクを孕みながら開催に踏み切ること、多くの騒動や疑義もあった。そんな色々なことを抱きかかえながら、それでも大会ははじまった。この日を迎えるにあたって、選手をはじめ、たくさんの方々の目に見えない苦労と努力、そして葛藤があったと思う。連日のメダルラッシュの一方で、選手たちが口を揃えて言う「大会が開かれたことに感謝している」という言葉に、胸がきゅっとなる。



はじめ、開会式を見ることに迷いがあった。
純粋に競技だけを楽しめればいい、政治や特定の組織のパフォーマンスの場になるような開会式なら正直興味が無いなと思っていたからだ。
でも、開会式を見ることにした。というより目を背けないで、見てやろうと思った。
開催決断に至った開催国としての覚悟を、そして「いま」日本としてどんなメッセージを発するのか、この目で見ておこうとおもったのだ。
でも、覚悟はおろか、そこからは何もメッセージを感じなかった。そして、わたしは失望した。分かっていたことなのに。


開催式については、前回のリオ大会閉会式での鮮やかで洗練されたあの演出が、どうしても鮮烈に今も胸に残っているだけに、演出の世界観、そこから紐づく一貫性やストーリー性、日本としてのメッセージ性の欠如を、どうしても感じざるを得なかったというのが、わたし個人の感触だ。

ひとつひとつの演出は、本当に素晴らしかったと思う。個々人のパフォーマンスはもちろんのこと、個人的には、ドローンで夜空に打ち上げられた美しい地球と躍動するピクトグラムに心奪われた。


それぞれがほんとうに素晴らしかった。
そのひとつひとつに込められた想いや意味(当日、解説がなかったことも式全体の深みやメッセージを表現できなかった要因であるようにも感じた)、どれもが素晴らしかったけれど、式全体のまとまりや一貫性、日本という国を表現しながらメッセージを世界に発信することに関して、力強さや深みに欠ける、そんな印象をわたしは持った。正直、何も感じられなかった。受け取れなかった。
決して、華美な演出を求めているのでは無く、
日本の芯や根幹というか、「いま」開催するということへの覚悟のようなものが、感じられる時間であって欲しかった。

きっと、本当はたくさんの演出や表現が、そこかしこにあったのだろうと想像する。何らかの理由で抜け落ちてしまった、もしくは書き換えられてしまった表現。欠けた行間や隙間、表現と表現の間のほんの少しの空白が、本来伝えられたものも削ぎ落としてしまったのかも知れない。

この開会式は誰のためのものなのか。
そんな当たり前のことにも、中継を見ながらふと考えていた。この大会が、一部の誰かの欲求を満たすおもちゃや道具であってはならない。
でも、何かそういう力が及んで、本来あるべき姿が歪められてしまったことを、統一感のない演出から感じた。

とはいえ、それはあくまで一個人の感想に過ぎない。ひとつひとつの素晴らしい演出があり、閉会式は多くの人が感動し、これからはじまる熱戦に期待と思いを馳せたと思う。もやもやと思うところはあるけれど、わたしも開会式が無事に終わり、大会が粛々と進んでいることを喜びたいと思う。

開会式で嬉しそうに、思い思いに行進する各国・地域の選手団、そんな彼等を温かく迎えサポートするボランティアの姿。その姿には、やはり無条件に感動した。
そうこれは平和の祭典なのだと、あらためて気付かされたからだ。この5年間の想いや積み重ねてきたことを選手たちが花開かせる夢の大舞台。そのための開会式であるのだから、他でもない主役である彼等が気持ちよく、大会に全力で臨めているということからすれば、開会式は成功だったといえるのだと思う。


本来、オリンピック・パラリンピック自体は、
平和の名のもとに、崇高な理念のもとにあるものだと思っている。スポーツというひとつの共通言語のもと、世界中のアスリートが集い、技を競い合う。
ほんの数週間だけれど、その場所、その空間、その時間は、私たち人類が追い求めるありたい世界の姿の縮図であり、アスリートたちがそれを体現してくれる。
そんなアスリートやそこに集う人々、支える人たちの姿を見て、どうしようもなく私たちが熱狂し歓喜するのは、その本質に触れているからだ。
だから、オリンピック・パラリンピック自体が悪なのではない。選手には負い目を感じることなく、大会開催を喜び、思いっきり力を発揮してほしいと思う。

それだけ、人々を熱狂させる大きな力があるがゆえに、いろいろな思惑も引き寄せてしまう。
それを利用して一個人や特定の組織がその力を誇示したり、何かに利用したり、誰かを蹴落として欲求を満たしたり。そういう醜態が表面化するたびに、オリンピック・パラリンピックの本質が歪められることが悲しい。

半ば強引に開催されたこの大会によって、多くの痛みを伴うかも知れない。けれど、やるからには、ただ開催して終わらせるのではなく、いろんな膿を出し切って、オリンピック・パラリンピックのあり方自体も見直される機会になればいいと思う。各競技のワールドカップや数多ある世界大会とは規模も意味合いも違う特別な大会なのだと思うけれど、純粋なスポーツの祭典として位置付けられて欲しい。また、平時の開催と比べて感染対策など別の意味で予算が上乗せされている部分もあるとは思うが、圧縮された部分もあるのかも知れない。予算についても精査、検証して欲しいと思う。


一連の騒動をじっと見つめながら、しずかに怒りと悲しみがつのる。でも、今はただ純粋に母国で開催されるこの大会を、この平和の祭典を最後まで味わいたいと思う。
そう、子供の頃。同世代の岩崎恭子さんが、1992年バルセロナオリンピックの競泳で金メダルをとった夏のあの日。テレビの前で熱狂した子供の頃の自分のように。