ひとの死に触れるとき
世の中にはひとの死が溢れている。
例えば、ネットやテレビで事故や事件に巻き込まれて亡くなったひとたちの死をほぼ毎日の如く僕たちは目に入れている。
そのひとたちの死に触れたとき、痛ましいとは思っても、ひどく悲しんだり、人目を憚らず慟哭することはないだろう。
でも、自分に近いひと、例えば家族や友人が亡くなったとしたら、それらがニュースにならなくても、深い哀しみに包まれ、ショックで倒れてしまうかもしれない。
そのような報せは、たとえ異国の最果ての地に自分が居て、聞いたところで直ぐには会いに行けない。あるいはその報せが届くまでに時間がかかり、もう既にその人の亡骸がこの世になかったとしても、その報せを聞いた瞬間から、そのひとの死をどうしようもなく悲しむのではないだろうか。
ひとの死を悲しむのに、距離も時間も関係ないのだ。
だとしたら、どこまでのひとの死を悲しんで、どこからのひとの死を痛ましく思わないのかという線引きは、どこにあるのか、僕たちの心は知らず知らずに、その線引きを行なっているのだ。
その悲しみのメジャーは、普段見えないかもしれないが、それはひとの死に触れたときはっきりするのだ。
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