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兵庫県立美術館 特別展「生誕120年 安井仲治ー僕の大切な写真」~展覧会#48~

安井仲治なかじ

安井仲治(1903~1942)は、戦前に関西で活動したアマチュア写真家である。彼が大阪で産声をあげたのが1903年(明治36)の12月15日。それからちょうど120年を経過した2023年12月16日、兵庫県立美術館で安井仲治の写真展が始まった。いわば回顧展だ。

安井仲治という写真家については、何も知らなかった。彼が写真を撮り始めた1920年代は、時代でいえば大正である。記念写真や記録写真を撮るプロとは違って、彼は趣味で写真を撮る愛好家の一人だった。浪華写真倶楽部というサークルに所属し、やがて頭角を現していく。
アマチュア写真家という立場は、写真というメディアの可能性を自由に追求するのに好都合だった。安井はいつの間にか前衛的な表現を牽引する存在になっていく。


展示室へ

安藤忠雄設計のこの美術館。エレベーターで3階に上がり、展示室入り口の正面に立つ。この景色がいつも好きだ。

安井仲治は大阪の裕福な商家で生まれた。明星商業学校(今の明星高校)在学中にカメラにのめり込む。
明星高校は、私の母校のすぐ近くにある高校だった。環状線の玉造駅からの通学路、右側を私たちが通り、左側を明星の学生が通る。明星の制服はかっこよかった。彼らは革カバンと学生帽を右手に持って歩く。帽子は校門を入る直前にかぶるのだ。何十年も前の記憶である。

明星商業学校卒業後、歴史と伝統のある浪華写真倶楽部に入会した安井仲治は、事物の機械的記録にとどまらない「芸術写真」を追求し、「絵画的表現」を目指すようになる。


新興写真

昭和に入ると、安井は写真グループ「銀鈴社」を結成する。また浪華写真倶楽部の一部のメンバーで構成される「丹平写真倶楽部」に参加し、やがて中心メンバーとなる。
この頃行われた「独逸国際移動写真展」に衝撃を受けた関西の写真界は、「芸術写真」から「新興写真」という新しい表現技巧へと移行していく。

安井の写真も抽象絵画のような趣を帯びてくる。

壁面からこちらに向けられている虚ろな視線を感じる。「凝視」というタイトルがつけられている。会場の入口に掲げられていた写真である。1931年の作品だ。この年の9月「満州事変」が勃発する。世の中は泥沼の戦争へとなだれ込んでいく。


静物のある風景

1930年代は安井にとって、様々な手法やスタイルを試み、数々の代表作を生んだ充実した時代だった。
たとえば「蛾」と題された作品。

この時期に安井は、弟と妹、そして次男を相次いで亡くしている。そのような経験が、蛾や犬のように小さな生き物たちに向かわせたのかもしれない。

当時の町の風景を切り取ったなにげない写真もおもしろい。

「美しきもの」は実に随所にある。誰かが良き眼でそれを摘出してくれれば、吾々人間に感ぜられる美の範囲がそれだけ拡張されるのだ。


ちょっと休憩・・・会場風景

開幕直後の日曜日とあって、そこそこ訪れる人はいた。


前衛写真

この時代は、写真の世界でも、西洋から入って来たシュルレアリスムの影響を免れなかった。1930年代の半ばになると「新興写真」は退潮し、「前衛」と形容されるあらたな写真表現が存在感をみせてきた。安井もまた「前衛写真」を主導する写真家の一人であった。

無機質でかつ作為的な抽象化の作品が多い中で、次の1枚だけは詩情があふれている。


戦争へと向かう時代

1937年(昭和12年)、日中戦争開戦。アマチュア写真家の世界も戦時色に染まっていく。安井の写真も、戦時社会やそこに生きる人々に向けられていく。

いかにも戦時を思わせるポスターの横に、全国中学校優勝野球大会の速報が貼り出されている。犬を入れるのも安井らしい。

この頃、安井が取り組んだシリーズに、「白衣勇士」「山根曲馬団」「流氓ユダヤ」などがある。

展覧会の最後は、最晩年の作品「上賀茂にて」「雪月花」の連作だった。最晩年といっても、安井はまだ30代後半の壮年だが、病に打ち克つことができなかった。写真芸術へのさまざまな挑戦の連続だった彼の生涯の最後が、芭蕉の「不易流行」に収束していくのは、100年が経ってもなお安井の作品が普遍性と新鮮さを感じさせることにつながっていくのだろう。


展示会場は撮影可能でしたが、作品の色調の違いや、照明・撮影者の映り込みなど、不十分なところがあります。


山と海



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