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レッスン22.死にたい私は遺書を書く

京都には安井金比羅宮という、縁切り・縁結びで有名な神社があるらしい。ならばこの世と縁切りしてもらおうと、東海道新幹線に飛び乗ったのはつい先日のことだ。口座からありったけのお金を下ろし、縁切りをお願いした後は1週間ぐらい楽しいことをして、どこか人目に付かない場所でひっそり死のうという計画だった。

無論、今こうして文章を書いているのだから、計画は失敗に終わっている。死にきれなかったとかではない。酷い乗り物酔いをして、名古屋で途中下車する羽目になったのだ。まさか死ぬ前に、自分の身体の弱さが邪魔をするとは盲点だった。普通逆だろうが。駅のホームでコンビニのレジ袋に顔を突っ込みえずきながら、己を呪った。

憔悴したら、京都まで行く元気は残っていなかった。東京に帰ってきた私は、情けなさとか悲しみとかとはなく、ただ身体がしんどすぎて、吐き気止めを飲んでベッドに寝た。死にたい気持ちは、体調不良に勝てなかった。


遺書を書こうと思ったのはそれから数日後。「周囲の期待を裏切り不良債権として生き続けるくらいなら、今死んだ方が自分も周りも、苦しみが最小限で済むのではないか」と思いついたのがきっかけだ。他殺がダメなのは他人の生きようとする意思を奪い取るものだから分かるけれど、自殺がなぜダメなのか、自分の中で納得いく答えが出せなかった、というのもある。生き方は自分の責任で選べと言われる割に、自分の死に方、タイミングを決めたいと願っている人の意思は尊重されず、ただ「自殺はダメだ」と言われるのは一貫性がないよな、と、常々思っている。

遺書は親しかった個人それぞれに宛てて書くつもりで、まずは一番大好きだった人への文面から考え始めた。その人は、私がその人を慕っていたことを知らない。人間としてではなく異性として惹かれていた自分を、記録するのはこれが初めてだった。

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「この手紙をお受け取りになって驚かれたでしょうか。それとも、あいつならやりかねないと心のどこかで考えておられたでしょうか。墓場まで持っていくつもりでしたが、その前に漏れ出てしまう言葉があり、最後にお伝えしようと思った次第です。一方的な話になってしまうことを、どうかお許しください。

あなたは確実に私の一部でした。知らない料理の味、音楽、思考、いただいたものは計り知れません。

愛情もそのひとつです。あたたかい眼差しを注いでくれることに私は報いたくて、方法を模索していました。それがいつしか片思いという感情に変化していたことも、薄々自覚していました。立場上許されない感情であることも分かっていました。私が恋愛対象ではないことも自覚していました。

一方的に向けられる好意が人をどれだけ困惑させるかも、分かっていました。だからこそ生きてる間は何も言えませんでしたし、言うつもりもありませんでした。私があなたの一部になれないことは、言葉の端々から理解していました。あなたの目線の先にいる人に嫉妬したこともあります。羨ましくて泣いたことは一度や二度ではありません。

それでも、あなたが私を好きになってくれなかったことはある種幸福だった、と思うのです。私があなたに今以上に愛されていたら、あなたは私の死をもっと悲しんだことでしょう。酷く悲しませずに済んだのは、私にとってせめてもの救いです。好きになってくださらなくて良かった。ありがとうございました。

最後にひとつだけお願いです。どうか幸せになってください。私のことは今後思いださず、満ち足りた人生を送ってください。楽しいこと、嬉しいことがいっぱいの、悲しいことや辛いことは、分かち合える人が隣にいてくれる、そんな人生になるよう祈っています」

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考え終えたところで、死にたい気持ちは、その人の幸せを願う気持ちに負けていた。死にたい思いより、その人への思慕が上回った時点で、今死ぬ気力はなくなった。

死ぬには最後の一押しがいると思って遺書を書き始めたのに、これはなんということだろう。逆効果だ。こんな言葉だけで最後のお別れにするのが口惜しくなるではないか。いつかまた直接会えるかもしれないのに、近況を聞けるかもしれないのに、本当はもっと褒められたいのに、馬鹿なことしたいのに、言葉を交わしたいのに、これが最後になるなんて。

嫌だ。

なんてことだ。個別宛の遺書なんか書くんじゃなかった。これがあと何人分あると思ってるんだ。言葉を考えるというのは気力体力を使うんだぞ。まだまだ死ねないじゃないか。ふざけんな。

死にたい気持ちは薄れていて、でも明確に生きていたいわけでもなくて、ただ涙は出ていて、私は訳がわからずぼうっとしていた。


恐らく、死にたいって思ってる時は自分以外に目が向かないけど、個別に遺書を書いている時はひたすら相手との思い出を振り返ったり伝えたいことを考えたりして視線が自分からずれるから、こんなパラドックスが起きるんだと思う。

私だって親しい人が死んだら悲しい。でも、相手から「死にたい」と打ち明けられたら、止められる自信がない。気持ちは分かるから。死にたいメーターが振り切れる瞬間も落ち着く瞬間も知ってるし、それが不定期に訪れることも経験している。だから「死にたいよね。分かる」くらいしか出てこない。

でも「個別に遺書を書くといいよ」ってアドバイスは今後出来ると思う。伝えたいことの半分も伝えられないことが分かって、途方にくれて、もっとちゃんと伝えるためにもう少し生きようってなるから。途方にくれたまま生きていても別に構わないと思う。でも同じく最後に残す言葉なら、自分史上最高の物を作りたくない?死ぬ前に瞬間最大風速出してみたくない?

たぶん私は今後、また死にたくなる。そしてその度に遺書を増やす。時間が立てば人との関係性は変わるから、過去の遺書を推考する必要も出てくる。たかが遺書なのに意外とやることが多い。死ぬのは当分先のことだろうか。死ぬ気力をなくした今は、未来の自分が自殺を先延ばしに出来る人間であることを願うばかりだ。







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武田茉優です。笑うと目がなくなります。

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見た目も中身も素敵な人になりたい平々凡々な独身OLが、日々トライしてみたことの記録です。

コメント (1)
えっとこれフィクションだよね? 小説だよね?
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