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[斎王からの伝言創作ベース]3医療の歴史


 今、「第五世界の兆し」を経て「斎王からの伝言」という創作小説を妄想していますが、そこに3人の女性達が登場します。その内の一人が無謀にも女医なんです。設定を変えようと思いましたが、変えたら私が描きたい事から外れてしまう!!!と思い留まりました。下調べとして、医療の歴史を四大文明から遡ってみました。
 西洋医学がエジプト文明とメソポタミア文明の流れで、東洋医学がインダス文明と黄河文明の流れだと分かりましたが、複雑に色々混じっているように思えました。人種の流れが気になるので、特にアーリア人を次は調べてみようと思います。
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~Wikipedia・[2000年7月出版]まんがで学ぶNHK世界四大文明 監修 吉村作治、後藤健、松本健、近藤英夫、鶴間和幸 編集 NHKスペシャル「四大文明」プロジェクトより~

500万年前頃 猿人の出現 直立歩行 アフリカ
250万年前頃 直接の祖先ヒト(ホモ族)が出現 
         石器を使い始める 
150万年前頃 原人の出現 火を使用 アフリカ
            火の使用で進歩し、アフリカを出る。
         インドネシア(ジャワ原人)や中国(北京原人)へ
30万年前頃   ヨーロッパを中心に旧人ネアンデルタール人が出現
20万年前頃    アフリカで現代人の祖先が誕生(新しいホモ族)
10万年前頃    新しいホモ族がアフリカを出る
5~6万年前頃 新しいホモ族がほぼ全域に住みつく
1万年前頃    人類が農耕栽培生活を始める
6000年~3000年前頃 世界最古の文明がおこる

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メソポタミア文明 紀元前8000年頃 
          三日月地帯で麦類の栽培が始まる
紀元前3500年頃 シュメール人が定住 都市国家成立
紀元前2330年頃 アッカド王国のサルゴン1世がメソポタミアを統一する
紀元前2000年頃 メソポタミア北部にアッシリア王国がおこる
紀元前1894年頃 バビロニア王国がおこる
紀元前2千年紀前半 バビロニア医学
紀元前1800年頃 メソポタミアを統一し、ハンムラビ王がハンムラビ法典を制定

➡ヘブライ医学(紀元前1千年紀)
『旧約聖書』のモーセ五書による。モーセ五書には感染者の隔離(レビ記13章45-46節)、死体を扱った後の洗浄(民数記19章11-19節)、糞便を野営地外に埋めること(申命記23章12-13節)など、様々な健康に関する法・儀式が含まれる。ユダヤ人の信仰上、神の意志を全うするために、これらの儀式や法を守ることが求められ、これにより衛生上の恩恵がもたらされた。

バビロニア(メソポタミア文明)・エジプトの医学の伝統に大きな影響を受ける
ギリシャ医学
ヒポクラテス(
紀元前460年頃 -~紀元前370年頃)

ローマ医学
ギリシャ人のガレノス(129年頃 - 200年頃)最も偉大な古代の医師のひとり、様々な学派を折衷してギリシャ医学をまとめた

➡ペルシア医学

東ローマ帝国と敵対していたサーサーン朝(226年 - 651年はイラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国。首都はクテシフォン(現在のイラク))は、キリスト教徒による異端・異教徒の迫害を逃れたアレクサンドリアやアテナイの学者たちを積極的に受け入れ、ジュンディーシャープールに学者や生徒たちが集い、各国の医学書が翻訳され盛んに研究が行われた。教育を行う病院が考案されたのは、ジュンディーシャープール大学であるとも言われている。

三大伝統医学の一つ
➡✳9ユナニ医学
ガレノス医学とディオスコリデスの本草書は、1500年以上西洋で最も権威あるテキストとして君臨
した。ガレノス医学は、東ローマ帝国でまとめられ、アラビアに伝わって翻訳され、イブン・スィーナーなどによってギリシャ・✳5アラビア医学(ユナニ医学)として整理され発展した。

➡✳10イスラム医学

ムスリムやキリスト教ネストリウス派など、様々な宗教・人種の医師、錬金術師、薬剤師たちによる、解剖学・眼科学・薬理学・薬学・生理学・外科学・製剤科学などの医学領域への多大な貢献により、イスラム文化はは古代ギリシア・ローマの医学技術をさらに発展させた。ガレノスとヒポクラテスが過去の典拠となっていた。

➡中世
(5世紀〜15世紀)ヨーロッパ医学
中世のヨーロッパではキリスト教が普及し、修道院が薬草園を設け、神学だけでなく、医学・薬学の学究活動も行った。ペストが流行した折に修道院は、経験的知識から防疫活動も実施した。また、各地に医学校が設立され、実際の怪我や病気の治療に関わる臨床医学が発達した。
http://www.eisai.co.jp/museum/curator/daylight/column01-2.html

中世ヨーロッパではギリシャ・ローマの学問の成果の多くが失われた。中世初期の医学知識の主流は、主に修道院などに保管されて現存していたローマの文献だった。これらの施設にはしばしば病院が併設されていた。また、医学知識を代々伝承し、地域的な民間療法が行われた。

近代医学
化学や研究技術・施設の発展により、医学は19世紀以降に大変革を起こした。伝染病についての旧来の考えは、微生物学とウイルス学に取って代わられた。

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インダス文明 紀元前7000年頃 
         小麦の栽培と山羊や羊の飼育が始まる
紀元前3300年頃 人々が医学・歯学の知識を持っていた
紀元前2800年頃 インダス川流域で初期ハラッパー文化がおこる
紀元前2500年頃 モヘンジョ・ダロ計画都市がつくられ、インダス文明が誕生
紀元前2000年紀初期   特別な薬草での治療
紀元前1700年頃 インダス文明が衰えはじめる
紀元前1500年頃 アーリア人が西北インドに侵入する
紀元前1000年頃 アーリア人がガンジス川流域に進出
紀元前600年頃   ガンジス川流域に都市がおこる
紀元前460年頃  釈迦が仏教をおこす

三大伝統医学の一つ
アーユルヴェーダ(生命の知識) 2000年以上前に作られた、成文上の医学体系。最初の出発点は、紀元前2千年紀初期の特別な薬草の慣行を総合したものが基礎になっていると思われる。多大な理論的な概念化とともに、新たな疾病分類や療法が紀元前400年ごろ以降加えられ、仏教その他の思想家のコミュニティから発表されたものであろう。インド錬金術の影響も大きい。

➡✳6チベット医学✳7ヨーガ

ギリシャとインド両方の医学の発展を享受
ペルシア医学・イスラム医学 

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黄河文明 紀元前7000年頃 長江流域で稲作がはじまる
紀元前5000年頃 黄河流域でヒエやアワの栽培がはじまる
紀元前4500年頃 黄河流域で仰韶文化(ヤンシャオ)がおこる
紀元前2500年頃 黄河流域で竜山文化(ロンシャン)がおこる
紀元前1600年頃 殷王朝がおこる 甲骨文字が使用される
紀元前1600年~前1046年頃 鍼灸
前漢(紀元前202年~紀元8年) 『黄帝内経』という現在知られている最古の医書が編纂されている

三大伝統医学の一つ
中医学
中華人民共和国で整理された医学体系を「中医学」とし、少数民族土着の医療との対比において、主に漢族が実践してきたものであると考えることもできる。
※諸説有り:仏教とともにインドから伝えられた「インド医学」に古代中国の医学と道教思想(陰陽五行論)が一つにまとめられたのではないかという説

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エジプト文明 紀元前5000年頃 ナイル川流域で農耕が始まる
紀元前3000年頃 メネス王が、上下エジプトを統一し、初期王朝時代がはじまる。医療知識確認(エドウィン・スミス・パピルスに収録)
紀元前2750年    外科手術確認
紀元前2650年頃 古王国時代がはじまる。ジェセル王が即位し、階段ピラミッドを建設。神官イムホテプの活躍(古代エジプト医学の設立者)
紀元前1800年頃 カフン・パピルスは、現存する最古の医学文献

ギリシャ医学

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~Wikipediaより~
医学史
先史時代の医学 
薬効目的の植物(薬草)が最初に用いられた時期を特定する記録はない。おそらく人類が文字を用いる以前から薬草は用いられていたとも考えられている。長い年月にわたる試行錯誤の末、世代を通じた知識が部族社会の文明として集積され、シャーマンが治癒の専門職として機能した。

エジプト医学 
3千年の歴史の中で、古代エジプトは巨大で多岐にわたる豊かな医学の伝統を作り出した。歴史家✳ヘロドトス(古代ギリシアの歴史家:前490年から前480年~没年は前430年以降)はエジプト人を指して「すべての人間の中で、リビア人の次に最も健康だ」と表現した。これは乾燥した気候と、すぐれた公衆衛生のシステムのためだった。ヘロドトスによれば、「医学の技術は、一人の医者は一つの病気だけを治療する、というほどに専門化されている」という。✳ホメーロス(紀元前8世紀末のアオイドス(吟遊詩人)であったとされる人物)は『オデュッセイア』の中でエジプトを「実り豊かな地球が、薬を最も多く貯蔵する」地で、エジプトでは「全ての人が医者」だと述べた。かなりの部分が超自然現象を扱っていたとはいえ、エジプト医学は最終的に、解剖学・公衆衛生・臨床診断の領域で実用的な手法を開発した。

エドウィン・スミス・パピルスに収録された医学知識は紀元前3000年頃のものとも言われている。知りうる限りエジプト最古の外科手術は、紀元前2750年に行われた。エジプト第3王朝の✳1イムホテプ(古代エジプトの高級神官:紀元前2700年頃~死没紀元前2610年頃 ギリシャの医神✳2アスクレーピオスと同一視された)は、古代エジプト医学の設立者、および療法・慢性病・解剖学についての所見を記したエドウィン・スミス・パピルスの原典の編纂者とも言われている。エドウィン・スミス・パピルスは紀元前1600年頃に書かれた、いくつかの先行する研究の複写だと考えられている。古代の外科教本で、魔術的な思考をほとんど全て排除しており、数々の慢性病の検診・診断・処置・予後について詳述している。

対照的に、エーベルス・パピルス(紀元前1550年頃)には、病気の原因となる、悪霊その他の迷信上の存在を退けるための、まじないや非衛生な対処法が多く記されている。エベルス・パピルスには、文書として現存する最古の腫瘍の認識記録があるが、古代医学上の誤解もあり、たとえば546節や547節では単なる腫れものと解釈しているようだ。

カフン・パピルスは、妊娠に伴う問題を含む婦人病を扱っている。断片的なものを含め、診断と処置について詳述する34の症例が現存している。紀元前1800年ごろのもので、現存する最古の医学文献である。

エジプト第1王朝期には「生命の家(ペル・アンク)」と呼ばれる医療施設が作られていた。第19王朝までに、労働者の中には医療保険・年金・疾病休暇などの福祉を受けられる者もいた。

記録上最古の医者も、古代エジプトのものだといわれている。紀元前27世紀、第3王朝ジェセル王の「歯科医と医者の長」と呼ばれたヘシレである。また、記録上最古の女医は、「女医の女性監督者」の称号を与えられた第4王朝時代のペセシェトである。監督者としての立場に加え、ペセシェトはサイス(古代エジプトの都市)の医学校の助産科を卒業した。

バビロニア医学 
バビロニアの医学の記述は、紀元前2千年紀前半のバビロン第1王朝までさかのぼる。しかし最も広範なバビロニアの医学文献は、アダド・アプラ・イディナ王の治世(紀元前1069年-1046年)の、ボルシッパ(シュメールの都市)のエサギル・キン・アプリという医師による『診断手引書』である。

同時代のエジプト医学と同じく、バビロニア人は診断・予後・診察・処方の概念を取り入れた。これらに加え、『診断手引書』では治療計画、原因療法、経験論の活用、論理学、診断・予後・治療における合理主義などが取り入れられた。また医学上の症候のリストも含まれており、患者の体に表れる症候と診察・予後とを照合する際に使用する理論的なルールとともに、詳しい経験上の観察が多く記されていたる。

『診断手引書』は、原則と推測の理論的な組み合わせが基本になっており、患者の兆候に対して検査・視診を行うことで、患者の疾患・病因および見通しや回復の機会を特定できる、という現代的な視点も含まれている。患者の兆候や疾患に対しては、包帯・軟膏・錠剤などの治療法が用いられた。

ヘブライ医学 
紀元前1千年紀のヘブライ医学についての知見は、主に『旧約聖書』のモーセ五書による。モーセ五書には感染者の隔離(レビ記13章45-46節)、死体を扱った後の洗浄(民数記19章11-19節)、糞便を野営地外に埋めること(申命記23章12-13節)など、様々な健康に関する法・儀式が含まれる。ユダヤ人の信仰上、神の意志を全うするために、これらの儀式や法を守ることが求められ、これにより衛生上の恩恵がもたらされた。マックス・ノイベルガーは、彼の著書「History of medicine」でこう述べている。

「要求の内容は、伝染病の予防と抑制、性病と売春の抑制、皮膚の手入れ、入浴、食物、住居と被服、労働規定、性生活、人々の規律などであった。これらの要求の多くは、安息日、割礼、食物についての法(血と豚肉の禁止)、月経中・妊娠中・淋病に罹患している女性についての規定、ハンセン病患者の隔離、野営地の衛生、など、気候環境から見ると、驚くほど理性的である」

ギリシャ医学
古代ギリシャの医学は、バビロニア・エジプトの医学の伝統に大きな影響を受けた。病因について様々な考え方があったが、他の地域と同じく、体液の均衡を重んじる医学(体液病理説)が重視された。体にある数種類の体液のバランスがとれていれば健康で、崩れれば病気になると考えられた(四体液説)ため、体液のバランスを整えることで治療が試みられた。古代ギリシャ医学で有名なのはコス島の✳ヒポクラテス(紀元前460年ごろ - 紀元前370年ごろ)で、呪術性を排した経験医学の嚆矢であるとされ、「医学の父」と呼ばれる。ギリシャ医学は、後に「ヒポクラテス全集」としてヒポクラテスの名で纏められた。これには70編あまりの論文が収録されているが、ヒポクラテスが属したコス派だけでなく、ライバルのクニドス派の論文も収められた。ヒポクラテスの最も有名な文書は、医療倫理・任務などについての宣誓文「ヒポクラテスの誓い」である。後世の作と言われるが、これは現代においても意義があり、また有用である。

ヒポクラテスとその弟子は、多くの病気や医学上の状態の記述を残した。肺癌などの慢性肺疾患や、チアノーゼ性心疾患の兆候であるばち指を最初に記述したとされる。このため、ばち指はヒポクラテス指(Hippocratic fingers)と呼ばれることもある。ヒポクラテスは「予後」の中で、ヒポクラテス顔(Hippocratic face 死相のこと)について記しており、シェイクスピアが『ヘンリー五世』の第2幕第3場で、フォルスタッフの死についてこの表現を使ったことで有名である。

ヒポクラテスは、急性・慢性・風土病・伝染病の疾病分類を作り、また悪化・再発・危篤・発作・峠・回復期などの用語法を作った。この他には主に、兆候学・生理学上の発見、外科手術、膿胸(胸腔内に膿がたまる症状)の予後などの貢献がある。ヒポクラテスの教えは今日の呼吸器科の研究者に対しても有効である。ヒポクラテスは記録上最初の胸部外科医で、その発見は現在でも有効である。

ローマ医学
古代ローマでは、ギリシャの医師が活躍し、ローマ帝国各地の医学・薬学が集大成された。ローマ帝国で活躍したギリシャ人のガレノス(129年頃 - 200年頃)最も偉大な古代の医師のひとり、様々な学派を折衷してギリシャ医学をまとめた。ガレノスは、「血液・粘液、黄胆汁・黒胆汁」を基本体液とし、その調和を重視する四体液説を採用した。豚や猿などの動物を解剖して人体の構造を推測したが、心臓の構造など誤りも少なくなかった。またガレノスは、脳や目の外科手術など、技巧に頼った危険な手術を多く行った。こういった手術は2000年近くにわたって二度と行われなかった。

薬学については、ガレノスに先立ちディオスコリデスが、簡潔で利用しやすい本草書『薬物誌』をまとめた。アリストテレスの四元素説の影響を受け、薬物を「熱・冷・湿・乾」の4つの性質に分類して解説した。ガレノスは『薬物誌』を称賛し、製薬についても多くを述べた。

初の女性専用の器具をはじめとして、多くの手術用具が発明された。これには鉗子、メス、焼きごて、剪刀、手術針、ゾンデ、膣鏡などがある。また、初の白内障手術もローマ人によるものであるといわれる。

476年に西ローマ帝国が崩壊し、西ヨーロッパからギリシャ・ローマ医学の著作は失われた。東ローマ帝国に残され、オリバシウス(c. 320 – 403)などによって医学書が編纂された。彼はガレノス医学を高く評価し、ユリアヌス帝の命で、クロトンのアルクマイオン(紀元前5 - 6世紀頃)から同時代の医学までをまとめた『医学集成』全70巻を編纂し、『エウスタティオスのための梗要』に概要をまとめた(初学者向けであるため外科は除く)。体液病理説であるため、診断には尿診・脈診が重視されており、テオフィロス・プロトスパタリオス(7世紀)は中国医学の影響を受けて脈拍を研究し、尿診の基礎を確立した。東ローマ帝国後期の14世紀初頭には、コンスタンティノポリスのヨハネス・アクトゥアリウスは、尿と尿診など、広範囲のテーマに関する医学書を執筆した。これらの著作は、サーサーン朝ペルシャのジュンディーシャープールに、後にイスラーム世界に引き継がれた。

ガレノス医学とディオスコリデスの本草書は、1500年以上西洋で最も権威あるテキストとして君臨した。ガレノス医学は、東ローマ帝国でまとめられ、アラビアに伝わって翻訳され、イブン・スィーナーなどによってギリシャ・✳5アラビア医学(ユナニ医学)として整理され発展した。ガレノスや彼らの著作は中世・近世にヨーロッパもたらされてラテン語に翻訳され、18世紀までヨーロッパの医学教育において教科書として使われていた。

ペルシア医学・イスラム医学 
ペルシア医学
ペルシアの医学研究および実践は長く豊かな歴史を持っている。ペルシアは東洋・西洋の交易路に位置するため、しばしばギリシャとインド両方の医学の発展を享受した。

東ローマ帝国と敵対していたサーサーン朝は、キリスト教徒による異端・異教徒の迫害を逃れたアレクサンドリアやアテナイの学者たちを積極的に受け入れ、ジュンディーシャープールに学者や生徒たちが集い、各国の医学書が翻訳され盛んに研究が行われた。教育を行う病院が考案されたのは、ジュンディーシャープール大学であるとも言われている。

イスラム医学
ムスリムやキリスト教ネストリウス派など、様々な宗教・人種の医師、錬金術師、薬剤師たちによる、解剖学・眼科学・薬理学・薬学・生理学・外科学・製剤科学などの医学領域への多大な貢献により、イスラム文化はは古代ギリシア・ローマの医学技術をさらに発展させた。ガレノスとヒポクラテスが過去の典拠となっていた。830年ごろから870年ごろまでのガレノスの著作129点は、フナイン・イブン・イスハークとその助手たちによってアラビア語に翻訳された。その中でも特にガレノスの主張する理性的・体系的な医学のアプローチが、イスラム医学のひな型として、イスラム帝国内に素早く広まった。医師によって初めて専門病院が設立された。専門病院はその後十字軍遠征の間にヨーロッパに広まったが、これも中東の病院から着想を得たものである。

キンディー (801 - 873?)は『De Gradibus』を著し、数学を医学(特に薬学)へ適用して論じた。キンディーは『De Gradibus』の中で、薬の強さの度合いを測る数学的な軽量法や、医者が患者の病気の最も危険な時期を特定する仕組みを開発した。

アル・ラーズィー(865-925)は自身の経験した臨床事例を記録し、様々な病気について有用な記録を残した。『包含の書』は、アル・ラーズィーの最大の著作集である。この中で、ラーズィーは自らの経験による臨床事例を記録し、様々な病気の有用な記録を残している。ラーズィーの『天然痘と麻疹の書』では麻疹と天然痘について記述し、ヨーロッパに大きな影響を与えた。『ガレノスに対する疑念』では経験的な方法から四体液説の誤りを証明するなど、ガレノス医学に批判を加えた。また錬金術に対する知識も深く、医師活動の中で意図的にアルコールを用いた初めての医師となった。

アブー・アル=カースィム・アッ=ザフラウィー(アブルカシム)は近代外科学の父と考えられ、30巻の医学事典「Kitab al-Tasrif」を著した。これは17世紀までイスラム圏とヨーロッパの医学部で教材に使われた。アブルカシムは女性にのみ用いるものも含め、数多くの手術用具を用いた。これには腸線・鉗子・結紮糸・手術針・メス・キューレット・開創器・手術用スプーン・ゾンデ・手術用フック・手術用ロッド・膣鏡・骨用鋸・漆喰などがある。

ムータジラ派の哲学者でもあったイブン・スィーナー(980 - 1037)は、医学の父といわれ、歴史上最高の思想家・医学者のひとりである。著書『医学典範』(1020)および『癒しの書』(11世紀)は、17世紀までイスラム圏とヨーロッパの標準テキストであり続けた。イブン・スィーナーの業績には、体系的な生理学研究の中に実験と量化を導入したこと、感染症の感染性質の発見、感染症の拡散を抑制するための検疫の導入、実験医学・治験の導入の他にも、細菌・ウイルスについて、縦隔炎と胸膜炎の区別、結核の感染性質、水や土からの病気の蔓延、肌荒れについての詳細な記述、性感染症、倒錯、神経系の失調などの記述を初めて行い、また発熱に対して氷を用いたり、薬理学・医学を区別したり(製薬科学の発展において重要)もした。

1021年、イブン・アル=ハイサム(アルハセン)(965 - 1040)によって眼科手術の重要な進歩があった。アル=ハイサムは視界と視覚のプロセスを研究し、著書『Kitab al-Manazir』(光学の書)の中で初めて正しく説明した。

イブン・アル=ナフィスは、初めて肺循環と冠動脈について記して循環系の基礎を作ったため、循環理論の父と呼ばれる。アル=ナフィスはまた、代謝の概念を最初に述べた。また生理学および心理学の新しい体系を作り上げて、イブン・スィーナーやガレノスの体系に取って代わった。この中でアル=ナフィスは彼らの四体液説、脈動、骨、筋肉、腸、感覚器、胆汁、管、食道、胃などについての誤った考えを批判した。 イブン・アル=ルブディは四体液説を否定し、人体およびその保全は血液のみによることを発見した。また女性が精液を生産できるというガレノスの節を否定し、動脈の動きは心臓によるものではないこと、胎児の体で最初に作られる臓器は心臓だということ(ヒポクラテスは脳だと考えていた)、頭蓋骨を作る骨は腫瘍になりうるということを発見した。モーシェ・ベン=マイモーン(マイモニデス)はユダヤ人だったが、13世紀のイスラム医学に様々な貢献を果たした。

マンスール・イブン・イリヤスの『人体解剖書』(1390年ごろ)には、人体構造上の神経系・循環器系の全図が掲載された。14世紀のアンダルスにおけるペスト・腺ペスト流行期に、イブン・カティマとイブン・アル=カティブは、伝染病は人間の体に入り込む微生物が原因であることを発見した。その他にもムスリムの医師によってなしとげられた医学上の発展には、免疫系の発見、微生物学の導入、動物実験の活用、他の科学分野とのコンビネーション(農学・植物学・化学・薬理学など)、注射器の発明(9世紀イラク アマー・イブン・アリ・アル=マウシリによる)、最初の薬局の誕生(バグダード 754年)、医学と薬学の区別(12世紀以前)、2000種類以上の医学・化学物質の発見などがある。

中世・近代初期ヨーロッパ医学
中世ヨーロッパではギリシャ・ローマの学問の成果の多くが失われた。中世初期の医学知識の主流は、主に修道院などに保管されて現存していたローマの文献だった。これらの施設にはしばしば病院が併設されていた。また、医学知識を代々伝承し、地域的な民間療法が行われた。

ベルギー人解剖学者・医師アンドレアス・ヴェサリウスやウイリアム・ハーベーなどの個人の研究により、一般に認められた民間伝承が科学的に検証されるようになった。彼の主著『人体の構造についての七つの書』は、ガレノスの著作や方式に大きく影響されているが、心臓、静脈体系、肝臓、子宮、上顎骨などに関するガレノスの誤りを証明した。また、近代神経学の発展は、16世紀、脳の解剖学その他について述べたヴェサリウスに始まるとされる。ただし、ヴェサリウスは脳その他の解剖学について記したが、脳機能については脳側室に中心があると考えながらも、よく分かっていなかった。医学の理解と診断は進歩したが、治療はあまり改良されず、健康への直接の利益は少なかった。有効な薬は、アヘンとキニーネ以外にほとんど存在せず、民間療法と潜在的な毒性がある金属化合物とがポピュラーな治療法であった。

近代医学
化学や研究技術・施設の発展により、医学は19世紀以降に大変革を起こした。伝染病についての旧来の考えは、微生物学とウイルス学に取って代わられた。

細菌と微生物が最初に観察されたのは、1676年、アントニ・ファン・レーウェンフックによる、顕微鏡を使った観察であった。これにより微生物学という科学領域が始まった。

イグナーツ・ゼンメルワイス(1818年-1865年)は、1847年、分娩に立ち会う前の医師に手の洗浄を義務づけるだけで、産褥熱による死亡率を劇的に下げた。ゼンメルワイスの発見は、微生物病因説に先立つものだった。しかし、ゼンメルワイスの発見を同時代の医師らは受け入れず、彼を迫害した。ゼンメルワイスの発見が一般的に活用されるようになったのはイギリスの外科医ジョゼフ・リスター以後であった。リスターは1865年、傷の手当てに対して殺菌剤の原則を示した。しかし19世紀の間、医学的な保守主義のために、ゼンメルワイスとリスターの研究は一般に受け入れられはしなかった。 ルイ・パスツールの発見はゼンメルワイスの研究を支持した。微生物と病気とを結びつけて考えたパスツールは、医学に大変革をもたらした。パスツールはクロード・ベルナールとともにパスチャライゼーション(低温殺菌法)を考案した。これは現在でも使われている。パスツールの実験によって病原菌説が立証された。またベルナールは医学における科学的方法を作り上げるために、1865年、『実験医学研究序説』を発表した。パスツールは、ロベルト・コッホ(1905年にノーベル生理学・医学賞受賞)とともに微生物学を作り上げた。コッホはまた結核菌(1882)・コレラ菌(1883)の発見およびコッホの原則を作り上げたことでも有名である。

医学上の治療における女性の参加(助産婦・家政婦は除いて)はフローレンス・ナイチンゲールなどによりもたらされた。ナイチンゲールらは、それ以前男性が支配的だった医療分野に、看護の基本的な役割を示した。すなわち、衛生・栄養状態の不備による患者の死亡率を下げたのである。ナイチンゲールは1852年、クリミア戦争後の聖トマス病院に勤務した。エリザベス・ブラックウェル(1821年-1910年)は、アメリカで正式教育を受けて医学を実践した最初の女性となった。

第一次世界大戦などの大規模な戦争状況により、体内機能の監視のためX線(ヴィルヘルム・レントゲン)や心電図(ウィレム・アイントホーフェン)を使用することが増えた。大戦間にはこれらに続いてサルファ薬などの選択的殺菌薬が初めて開発された。第二次世界大戦では、広い範囲で効果的な殺菌療法がみられた。これはペニシリンの開発および大量生産によるもので、戦争上の圧力およびイギリスの科学者とアメリカの製薬産業の協力によって可能になった。

産業革命期には、癲狂院が目立った。エミール・クレペリン(1856年-1926年)は精神疾患に関する新しい医学分野を導入した。この医学分野は、病理学や病因論ではなく行動がその基礎となっていたにもかかわらず、最終的に精神医学と呼ばれるようになった。1920年代のシュルレアリストは、出版物の中で精神医学への反対を表明した。1930年代には、導入されたいくつかの医学的療法が物議をかもした。この中には発作を誘発するもの(電気けいれん療法、インスリン等の薬物療法)や、脳の一部切除(ロボトミー・ロベクトミー)などが含まれる。どちらも精神医学上広く用いられたが、基本的な倫理、有害な効果、誤用などに対する懸念や反対の声もあった。1950年代にはクロルプロマジンなどの新しい精神医学上の薬が研究所で製作され、こちらの使用が徐々に好まれるようになった。これは通常進歩と考えられているが、遅発性ジスキネジアなどの深刻な副作用を理由に反対する声もある。患者が精神医学上の監督に従わない場合、治療法に抵抗を示して薬を飲まないことはしばしばあった。また精神病院に対する抵抗も強くなり、精神医学上の監督外で、ユーザー主導の協力グループ(治療共同体)によって社会に復帰させる試みも現れた。ロボトミーは、1960年代以降の反精神医学運動の中で批判されていたにもかかわらず、統合失調症の療法として1970年代まで使用された。

アーユルヴェーダ医学 
パキスタンのメヘルガルで、インダス文明ハラッパー時代(紀元前3300年頃)の人々が医学・歯学の知識を持っていたことが考古学者によって発見された。調査を行ったミズーリ大学コロンビア校の物理人類学者アンドレア・クシナは、ハラッパーの男性の歯を洗浄している際にこれを発見した。また同地域の後の調査によって、9千年前に歯の穿孔が行われていた証拠が見つかった。

アーユルヴェーダ(生命の知識)は、南アジアで2000年以上前に作られた、成文上の医学体系である。チャラカとスシュルタの2学派のテキストが有名。これらのテキストには、宗教文学『ヴェーダ』中の古代医学思想とのある程度の関連が見られ、初期アーユルヴェーダと初期仏教・ジャイナ教文学との直接的な歴史的関係が歴史家によって指摘されていた。アーユルヴェーダの最初の出発点は、紀元前2千年紀初期の特別な薬草の慣行を総合したものが基礎になっていると思われる。多大な理論的な概念化とともに、新たな疾病分類や療法が紀元前400年ごろ以降加えられ、仏教その他の思想家のコミュニティから発表されたものであろう。

チャラカが改編した『チャラカ・サンヒター』には、健康や病気は前もって決まっておらず、寿命は人の努力によって延ばせるとある。スシュルタに帰せられる『スシュルタ・サンヒター』では、医学の目的を、病気の症状を治し、健康を守り、寿命を延ばすことであると定義している。どちらの著作にも、数多くの病気に対しての検査・診察・処置・予後について書かれている。古代インド医学は内科を重視するが、『スシュルタ・サンヒター』は、鼻形成術・切れた耳たぶの形成・会陰部切石術・白内障手術などの様々な種類の外科処置法について書いていることが特徴的である。

アーユルヴェーダの古典では、医学は8部門に分けられている。すなわち、治病医学・内科学(カーヤ・チキッツァー)・小児科学(バーラ・タントラ)・精神科学 = 鬼人学(ブーダ・ヴィディヤー)・耳鼻咽喉科学及び眼科学(シャーラーキャ・タントラ)・外科学(シャーリャ・チキッツァー)・毒物学(アガダ・タントラ)・予防医学・老年医学 = 不老長寿法(ラサーヤナ)・強精法(ヴァジーカラナ)の8科である。

アーユルヴェーダには、インド錬金術の影響も大きい。アーユルヴェーダの研究生は、上記8部門とは別に、調剤と施術に必要な10科の技術を学ぶことになっていた。すなわち、蒸留法・手術法・料理・園芸・冶金・砂糖の製作・薬学・鉱物の分析と分類・金属の混合・アルカリの調剤である。広範な内容が、直接的な臨床科目の説明の中で教授された。例えば、解剖学は外科の授業の一環として、発生学は小児学と産科学の授業の一環として、生理学と病理学の知識はすべての臨床科目に織り込まれた。

イニシエーションの終わりには、グルが厳粛な演説を行い、研究生を純潔・誠実・菜食主義の生活へと送り出す。研究生は全身全霊で健康のため病と闘わなければならない。また自己の利益のために患者を裏切ってはならない。服装は質素にして強い酒は避けなければならない。冷静さと自己コントロールを保たねばならず、つねに発言は慎重でなければならない。つねに知識と腕を磨かなければならない。患者の家では礼儀正しく謙虚に、患者の利益のみに目を向けなければならない。患者とその家族の情報を漏らしてはならない。患者の治癒が不可能で、患者その他を傷つけるおそれがある場合、これを秘しておかなければならない。

通常の研究生の教育期間は7年である。研究生は卒業の前にテストに合格しなければならなかった。しかし医師(ヴァイディヤ)となっても、文献、直接の観察(プラティヤクシャ)、洞察(アヌマーナ)を通して学び続けなければならない。これに加え、医師の会合で知識を交換する。また、山の民や牧夫、森の民から特別な治療法を集めなければならないとされた。中世にイスラム勢力が台頭すると、アーユルヴェーダは衰退し、ユナニ医学が隆盛した。

中国医学 
中国を中心とする東アジアで行われてきた伝統医学である。東洋医学、中医学、中国伝統医学とも呼ばれる。近年は欧米でも (TCM、伝統中国医学)の名で、補完・代替医療として広く行われている。アーユルヴェーダ(インド伝統医学)・ユナニ医学(ギリシャ・アラビア医学)と共に三大伝統医学に数えられ、相互に影響を与えたと考えられている。

中国地域に伝わる伝統医学は多様であるが、中華人民共和国の成立以降整理され、中医学の名で統一理論が確立された。そのため日本では、中華人民共和国で整理された医学体系を「中医学」とし、それ以前を「中国医学」として区別する場合もある。少数民族土着の医療との対比において、主に漢族が実践してきたものであると考えることもできる。

日本では、漢方医学を中国医学と同じものと捉える人も多いが、漢方医学は中国から伝来した医学が日本で発展したものであり、重視する理論や診断法、使用する生薬量などに違いがある。日本、朝鮮半島、チベットなどの中国周辺の医学は、中国医学の影響を濃く受けて発展した。公文書に漢文を用いた中国・日本・朝鮮半島では書籍の翻訳が必要なかったこともあり、医学書の交流も盛んであった。東南アジアの伝統医学は、中国医学・アーユルヴェーダ両方を取り入れたものが多い。

特徴
全身を見て治療を行う。西洋近代医学とは異なり、複数ある症状をもって「証」という概念で治療方針を決める。人間の心身が持っている自然治癒力を高めることで治癒に導くことを特徴としている。そのために生薬などを用いる。診断も、四診によって行う。西洋近代医学のように機械や採血の検査結果を用いることはない。よって、体を侵襲することがなく、害が少ないとされる。

書物  医書 
『黄帝内経』(作者不明、前漢):現存する中国最古の医学書。陰陽論と五行論を参考に著されている。生理・養生・環境衛生、養生などを気候・季節などとの関係で述べる哲学的・理論的な「素問」と、解剖・生理を説いた上で鍼灸などの臨床医学を実践的に論じた「霊枢」からなる。

『傷寒論』(張仲景、後漢末期から三国):伝染性の病気に対する治療法が中心。すでに四診、八綱弁証(証)、八法(八つの治療法)の原則と具体的な方法が説明されている。

『難経』(作者不明・後漢以降):『黄帝内経』を問答形式で解説。独自の内容もあり、鍼灸術や日本の後世派に影響を与えた。

本草書 
『神農本草経』(作者不明、後漢から三国):365種の薬物を上品(養命薬)・中品(養性薬)・下品(治病薬)の三品に分類して記述する。

『本草綱目』(李時珍、明):中国の本草学史上内容が最も充実した本草書。全52巻。

歴史  古代
殷代の甲骨文などには「医」「薬」といった文字は見当たらず、未だ人々のあいだに医療という概念がなかったものと思われるが、やがて巫祝(ふしゅく)と呼ばれる、集落の神事とともに人々の病も癒す呪術師的存在があらわれることになる。最初の医療は、今でいう「占い」「魔よけ」にあたるものが主流であったが、やがてそこへ生薬などの「薬物療法」や、鍼灸の原初的段階が組み入れられていく。それとともに巫祝も、巫を専門とする神官的な存在と、医を専門とする医師的な存在に別れていったと考えられている。

こうして秦以前にも扁鵲(へんじゃく)などの名医の存在が数々の記録に残っており、たとえば扁鵲は六不治の一つとして「巫を信じて医を信じざればすなわち不治」をかかげ、すでにこの時代に医者と呪術師的な存在、すなわち医学と宗教とは明確に分離されていたことをうかがわせる。

中古 
前漢(紀元前202年~紀元8年)の時代には✳3『黄帝内経』という現在知られている最古の医書が編纂されている。後漢(25年~220年)の時代に張仲景により『傷寒雑病論』が編纂される。ただ、この『傷寒雑病論』は、長い戦乱で散逸し、雑病の部分だけが見つからず、『傷寒論』だけが残り、孫思邈の『千金要方』などに、引用文などが書かれてはいたものの、『雑病』にあたる部分は発見されずにいた。北宋時代に王洙が『金匱玉函要略方』を発見し、その後半部分が『雑病』の部分にあたるとして、林億らによって、『傷寒論』と重複する部分を分けられ、『金匱要略(正式名称は金匱要略方論)』として、世に出回ることになる。張仲景は『傷寒雑病論』の序文において、『黄帝内経』を理解してから読まなければならないと書いているため、『黄帝内経』も読まずに『傷寒論』『金匱要略』を軽々しく扱うことを疑問視する流派もある。『傷寒論』は現在医学での流行性感冒と推測される急性熱性疾患をモデルに病勢の進行段階と治療法を論じたとする流派もあるが、『傷寒』とは狭義の意味は急性熱性疾患であるが、広義は熱性疾患のみに留まらぬ意味もあるため、これもまた意見の分かれるところでもある。中国医学は張仲景によって初めて理論的に体系化されたともいわれる。

ただし、現在に伝わる傷寒論は宋の林億が改訂し明の趙開美がさらに注釈をつけたもので、宋以前の傷寒論がいかなるものであったかについては種々の議論はあるものの定まっていない。所謂中華文明全体に及ぶ「宋改」が医学の分野ではかなり大胆に行われており、今我々が目にすることが出来る傷寒論や黄帝内経は、あくまで宋改を経たもの、と言うことになる(https://www.amazon.co.jp/宋以前傷寒論考-岡田-研吉)。

唐代の孫思邈は、医学全書である『備急千金要方』などを著すが、これまでの医学思想に神仙系の医学思想や仏教医学の思想を加味した。『傷寒論』の薬方を取り入れて『千金翼法』を著した。

中世 
金・元時代(960年~1367年)には金元四大家と呼ばれた劉完素、張子和、李東垣、朱丹渓らが現われる。『黄帝内経』の理論を元に六淫理論、四傷理論といった新しい理論が表された。一方南宋では「太平恵民局」という公立の薬局が設けられて医者や官民に良質な薬を提供するシステムが構築され、宋慈が『洗冤集録』という世界初の本格的な法医学書を著しており、こうした成果は南宋を滅ぼした元王朝にも継承された。

また、明の時代に医師の李時珍が『本草綱目』を著して薬学・本草学の分野でも大きな進歩があった。

近世・近代 現代 
中国においては、戦後、国民党政府の伝統医学廃止運動に反発する形で、共産党政権による伝統的医学復興が国策として行なわれ、「中医学」としてまとめられた。現在、西洋医学を行なう通常の医師と、伝統学を行なう「中医師」の二つの医師資格が併設されている。 中華人民共和国成立に伴い、中国共産党は、大陸各地に点在していた伝統医療の担い手を「老中医」と呼んで召集し、伝統医学の教育に充てた。ただし、清末以来戦乱に明けた大陸では、体系立った伝統医学などは残っておらず、老中医にしても、ほとんどが家伝の生薬方なり鍼灸方なりを、各個伝えているだけであった。このため、これら個々の伝統技術を統合する理論体系が必要とされ、毛沢東の強い意向を受けて、伝統医学が整理・統一され「中医学」理論が設えられた。つまり、現在の中医学は、中国において統一教科書教育が必要になった1956年を皮切りとし、文化大革命の時期を中心として展開されたもので、これ以前の中国医学を「中国医学」、以降を「中医学」として区別する考え方もある。

1958年の南京中医学院が編纂した教科書『中医学概論』では、五臓六腑ごとに病証が展開されており、病証も『千金方』の五臓病証に類似している。この教科書では「肝虚寒証」のように現在の中医学では用いられない病証が含まれる。また『千金方』には「腎実熱」などまで含まれる。

鍼灸を例にすれば、現在の中医理論は経絡治療と似ていて五臓の母子関係や相剋関係を中心に理論構築を展開する。およそ1960年代より、雑病の一つだった「肝気郁逆」(「肝気鬱滯」)が肝の基本病証の一つとなった。また、「肝鬱気滞」が肝実証である、という認識は中国ではあるけれども、日本での認識は乏しく、「肝実証」という発想は、脈診を中心として診断をおこなう経絡治療家にも理解しやすいものである。

中医学 
中医学は、中華人民共和国において、多様な中国伝統医学を整理・統合して作られた医学体系である。診療は、基本的に中医師が行う。ただし、日本においては中医師の資格は使えないため、これを行うのは日本国で有効な医師免許を持つ者、または一部の鍼灸師が行う中医針灸である。中医師の免許は米国などでは認可されているが、日本では現在未認可であるため、中医師免許のみでは診療行為を行うことができない。このため中国は中医師資格の認可を日本政府に働きかけている。

現代中国の中医学は、西洋医学の影響を受け、中医内科、中医外科、中医婦人科、中医小児科などに細かく分類され複雑化している。中国の中医師の資格種類は次のとおりに分けられる。

中医師(生薬処方を中心とする湯液治療を専門とする)
針灸、推拿(中国整体)治療中心の中医師
その他に医師は西洋医があるが、西医学部を卒業後に中医学研修を受け、西洋医学も中医学も理解する「中西医結合」治療を行う医師(中医学部では西洋医学も同様に学習するため、両方の処方が可能である)もいる。この際、診察や処方において「西洋医学の薬にしますか、中薬にしますか」などと聞かれることがある。

日本の漢方医学と同根ではあるが、日本と中国の社会的事情、歴史的経緯、生活習慣、風土などの違いから、漢方医学と中国医学は診察方法などが大きく異なる。例えば以下のようなものである。

中薬(日本でいう漢方薬)
薬食同源(医食同源)、薬膳
鍼灸(針、灸)
推拿:中国における手技療法、マッサージ。古くは按摩とも。日本の按摩とは、その形態が異なる。
気功

欧米への普及 
近年は欧米では、中医学が(TCM、伝統中国医学)の名で普及し、補完・代替医療として治療・研究が広く行われている。

法的規制  香港 
香港では1999年より香港中医薬管理委員会(Chinese Medicine Council of Hong Kong)により規制されており、すべての中医家は委員会に登録されなければならない。登録には5年間の専門教育を受けた上で30週間の臨床実習を積み、さらに試験に通過する必要がある。登録資格は3年間有効で、更新にあたっては登録された専門家から60日間の教育を受ける必要がある。

派生・影響 漢方医学
漢方医学(和漢方・和方):日本で発達した中国医学系の伝統医学の呼称である。中国を起源とする伝統医学は、古代から断続的に日本に伝来していたが、大陸で失われた古文献や古い技術も維持されたものがあり、現在では鍼灸・生薬ともに、中国医学とは趣を異にする物に発達している。例えば、中国では腹診は廃れたが、漢方医学においては重視されており、逆に中国で重視される脈診は日本ではあまり重んじられない。薬用量も、中国で使われる量に比べ、生薬を輸入に頼っていた日本の量は3分の1程度である。また重視される文献や理論も異なっている。

日本の中国医学系伝統医学は、江戸時代に蘭方に対して用いられた漢方または漢方医学という名が、一般的に使われている。漢方医学は鍼灸も含む場合もあるが、現在は漢方薬による治療のみをさすことが多い。日本においては鍼灸は医師・鍼灸師がおこない、漢方薬は医師・薬剤師がおこなう分業になっている事もその一因と考えられる。日本では中国や韓国と異なり、伝統医の国家資格は存在せず、専門教育もほとんど行われていない。

朝鮮半島 
朝鮮半島の医学は、日本にも影響を与えた。「一鍼二灸三薬」と言われるほど鍼灸が重んじられており、現在の韓国は世界唯一の鍼灸専門医制度を持っている。

東医:朝鮮半島で発達した中国医学系伝統医学の呼称。北朝鮮では1992年までこのように称していた。
高麗医学:北朝鮮での呼称。1993年に東医から改称した。
韓医学:韓国における呼称。韓方医学とも呼ばれた。

ベトナム 
南医学:ベトナム化された中国医学系伝統医学
北医学:ベトナム化されていないそのままの中国医学
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✳1イムホテプ  古代エジプトの高級神官。第3王朝のファラオのジェセルに仕えた宰相で、第3王朝最後のフニの時代まで活躍したとされる。
トートの神官であり、祭儀文朗読神官長の地位にあったが、ナイル川が7年にわたって氾濫せず、深刻な飢饉が発生した際、ジェセルからどうすべきか下問されたところ、ナイル川の水源の主であるクヌムの神殿に土地を寄進すれば再びナイル川は氾濫するであろう、と答えたと記す古代文書が発見されている。また、史上初のピラミッドといわれる、ジェセル王のピラミッドを設計したことでも知られる。建築家としてのみならず、内科医としても優れ、死後には「知恵、医術と魔法の神」として神格化され、ギリシャの医神アスクレーピオスと同一視された。イムホテプはメソポタミア出身という説がある。ジェセル王のピラミッドのそばには、名を記念したイムホテプ博物館がある。ハムナプトラ/失われた砂漠の都をはじめとしたシリーズに「イムホテップ」という名の神官が登場する。

✳2アスクレーピオスは、ギリシア神話に登場する名医である。優れた医術の技で死者すら蘇らせ、後に神の座についたとされることから、医神として現在も医学の象徴的存在となっている。ユーロ導入まで発行されていたギリシャの旧10000ドラクマ紙幣に肖像が描かれていた。 WHO(世界保健機関)のマークにある杖はこの杖由来である。
神話  アスクレーピオスはアポローンとコローニスの子。コローニスはテッサリアのラピテース族の王プレギュアースの娘で、アポロンは一羽のカラスを使いとしてコローニスとの連絡係にしていた。このカラスは言葉を話し、その羽は純白だった。あるとき、カラスがコローニスの浮気を告げたために、怒ったアポローンはコローニスを矢で射殺した。このカラスの報告は道草を食っていた言い訳に付いた嘘だったという説と、カラスがうっかり者で早とちりをしたという説がある。いずれにしても、アポローンはカラスを罰して言葉を取り上げ、白い羽を真っ黒に変え、天空に曝して償わせた。このカラスの姿が現在のからす座である。一説には、からす座のすぐ近くにコップ座があるにもかかわらず、そのくちばしは永遠にコップの水に届かないという。コローニスは身ごもっていることを告げて死んだため、アポローンは胎児を救い出してケンタウロスの賢者ケイローンに養育を託した。この胎児がアスクレーピオスである。ケイローンのもとで育ったアスクレーピオスは、とくに医学に才能を示し、師のケイローンさえ凌ぐほどであった。やがて独立したアスクレーピオスは、イアーソーン率いるアルゴー船探検隊(アルゴナウタイ)にも参加した。その医術の技はますます熟達し、アテーナーから授かったメドゥーサの右側の血管から流れた蘇生作用のある血を使い、ついに死者まで生き返らせることができるようになった。アスクレーピオスはカパネウス、リュクールゴス、アテーナイ王テーセウスの息子ヒッポリュトス、テュンダレオース、ヒュメナイオス、ミーノースの子グラウコスらを蘇らせたという。冥界の王ハーデースは、自らの領域から死者が取り戻されていくのを“世界の秩序(生老病死)を乱すもの”とゼウスに強く抗議した。ゼウスも、人間が治療の術を獲得して互いに助け合いをすることをよしとしなかったためこれを聞き入れ、雷霆をもってアスクレーピオスを撃ち殺した。だが、アスクレーピオスは功績を認められ、死後天に上げられてへびつかい座となり、神の一員に加わえられることとなった。逆に収まらなかったのは子を殺されたアポローンであった。ゼウスに対して直接の非難はできなかったため、アポローンはゼウスの雷霆を作っていた巨人族で一つ目のキュクロープスたちを腹立ち紛れに皆殺しにしたという。アポローンはゼウスに罰せられ、ペレースの子でテッサリアのペライの王アドメートスのもとで羊飼いとして家畜の世話をさせられたという。
医学の守護神  古代ギリシアにおいては、病院を「アスクラピア」と呼んだ。アスクレーピオスの子どもたちはいずれも医術にかかわっており、息子にはともに医学の知識に長け、トロイア戦争で活躍したマカーオーンとポダレイリオスが、エーピオネーとの間に生まれた四人の娘には治癒を司るイアーソー、回復を司るアケソー、衛生を司るヒュギエイアや健康を司るパナケイアがいる。ヒポクラテスは彼の子孫であるとも言う。
アスクレーピオスの杖  杖にヘビの巻きついたモチーフは「アスクレーピオスの杖」(蛇杖)と呼ばれ、医の象徴として世界的に用いられている。

✳3『黄帝内経』(こうていだいけい、こうていだいきょう、こうていないけい、黄帝内剄)は、現存する中国最古の医学書と呼ばれている。古くは『鍼経』(しんきょう)9巻と『素問』(そもん)9巻があったとされているが、これら9巻本は散逸して現存せず、現在は王冰(おうひょう)の編纂した『素問』と『霊枢』(れいすう)が元になったものが伝えられている。黄帝が岐伯(きはく)を始め幾人かの学者に日常の疑問を問うたところから『素問』と呼ばれ、問答形式で記述されている。『霊枢』は『鍼経』の別名とされ、『素問』が基礎理論 、『霊枢』は実践的、技術的に記述されている。2011年、ユネスコが主催する世界記録遺産にも登録された。

概要 
『黄帝内経』は、前漢代に編纂され、『鍼経』と『素問』の合計18巻と伝えられている。その内容は散逸して一旦は失われたが、762年唐の時代に王冰の表した『素問』と『霊枢』が伝えられている。現代の研究では『鍼経』もしくは『九霊』は『霊枢』(9巻)のことであるとされている。ただしこの9巻本も散逸してしまって残っていない。現在は1155年に南宋の史崧が霊枢を新たに校訂し、24巻81篇として編纂したものが元になっている。

『素問』が理論的であるのに対し、『霊枢』はより実践的に記述されている。『素問』の内容は医学にかぎらず、易学、天候学、星座学、気学、薬学、運命学と広くさまざまな分野に及び、医学書というより科学書と呼ぶべきであるという意見もあり、道教にとっても原典の一つとされる。現在、医学書とされている理由は、紀元前1世紀の図書目録である『漢書』「芸文志」に医書として分類されていることによる。

『内経』の原本は残っておらず、さまざまな写本が存在する。日本では京都の仁和寺に、日本最古の『黄帝内経太素』の写本が所蔵されている。『太素』(たいそ)は7世紀ころの写本で、唐代の楊上善が、『素問』と『霊枢』を合わせて編纂したものである。

『黄帝内経』18巻のうち、1部にあたる9巻を『鍼経』と呼び、2部の9巻を『素問』と呼ぶ。『鍼経』は経脈、経穴、刺鍼、また営衛、気血など系統的で詳細に説明されている。ここで9という数字には意味があり、古代中国において、数は1から始まり9で終わるとされていた。すなわち1巻には1章から9章が記述され、9章の次は2巻となる。1部は9巻×9章で81章で一まとまりとなり、『黄帝内経』は2部構成であった。『素問』は、古くは紀元前202年の前漢代の頃から編纂され始めたと考えられている。

現存する『素問』は、762年に王冰によって編纂された。王冰はそれ以前の『素問』を大幅に変更したことがわかっており、王冰の『素問』からは古い『素問』を伺い知ることはできないと批判されている。

『霊枢』は『素問』より新しい時代のもので、20年から200年ころ編纂された。『素問』より前に『鍼経』が編纂され、それが後に『霊枢』に引き継がれたと考えられている。理論よりも診断・治療・針灸術など臨床医学に重点を置いている。古来は針灸術の経典とされ、『針経』とも呼ばれた。「芸文志」には、『内経』(18巻)の他に『外経』(37巻)があったとの記録があるが、『外経』は現存せず、詳しいことはわかっていない。

霊枢 
1586年、『黄帝内経霊枢注証発微』(馬蒔)
1670年、『黄帝内経霊枢集注』(張志聡)

未病
 
未病(みびょう)という用語は、『黄帝内経』で初めて使用された。
「聖人は既病を治すのではなく、未病を治す」
既病(きびょう)とは、既に症状が出ている状態。『黄帝内経』では未病とは病気(病原体)は体内にあるのに、症状が体表面に出ていない、しかし治療しなければ早晩発症が必至な状態をさす。

陰陽五行説 
『黄帝内経』は、陰陽五行説にのっとって記述されている。『史記』には、陰陽五行説は黄帝が定めたとされているが、『黄帝内経』については記述されていない。このことから『黄帝内経』は、『史記』より後に編纂されたと考えられる。『漢書』「芸文志」によれば、『黄帝陰陽』25巻、『黄帝諸子論陰陽』25巻などがあったと伝えられているが、現存していない。

その他 
現存する中国最古の医学書としては『黄帝内経』の他に、『神農本草経』(しんのうほんぞうきょう)、『傷寒雑病論』(しょうかんざつびょうろん)がある。傷寒雑病論は宋代の改変(宋改)により元の形を留めていない。『神農本草経』も、度重なる改変で原形が失われていたが、日本の森立之が秩文をさまざまな本草書から拾輯して、復元したものが有名である。また、『黄帝内経』の内容を基に独自の体系で解説したものに『難経』がある。

現在も中医学で活用されている『黄帝内経』の哲学 
『黄帝内経』が書かれた時代、医療は現在のように機械を用いたり、電子顕微鏡で細胞を見るなどの細かい分析を行っていなかった。その代わり、人が生きていることを「全体的に」捉え、生命の営みを緻密に診ていた。そこで得られた知見が示すのは、人と自然の関係、臓器同士の結びつき、心と身体との関連といったことであった。

病気だけを問題にするのではなく、その人の習慣や感情の傾向、食事、またはその人の住んでいる土地、季節などとの関わりから、総合的に診ていた。人が健康で寿命をまっとうするためにはどのようにあるべきか、哲学の観点から病気を考えていた。

これは最近、現代医学が目を向けはじめた「生活の質」(QOL)を高めるという発想ときわめて近いものがある。身体に負担をかけず、自然のルールに従って健康を保持し、病気を克服するというものである。奇しくも、現代の生活に足りないとされている、まさにその要点がこの書物にあふれている。

漢方、鍼灸、気功の違い 
今日、中医学と呼ばれているものには、漢方や鍼灸、それに気功などが含まれている。中医学とは、「中国の医学」という意味で、これらの源はすべて『黄帝内経』にある。後世の人たちが『黄帝内経』の中からそれぞれの領域を専門化したものが✳4漢方や鍼灸、気功というわけである。当時、気功という言葉はなく、「導引按摩」と呼ばれていた。

『黄帝内経』は中医学の原点であり、総合医学といえるが、そこから様々な分野に分かれたことからもわかる通り、漢方、鍼灸、気功にはそれぞれの特徴と特性がある。

漢方は生薬などを患者に服用させることで、特定の臓器に行き渡らせ、他の臓器とのバランスを整え、経絡の流れを改善し、体内の気の流れを良くする。漢方で使う薬の数はたいへん多く、日本の厚生労働省が認めているものはだいたい210種類くらいであるが、中国では13,260種類、772科目に及ぶ。

漢方だけで治らない場合、直接的な方法として鍼灸がある。河北省藁城県台西村で発見された殷代(紀元前1600年から前1046年)の遺跡から石や骨で作った鍼が出土しており、鍼治療は石器時代からあったことが推測される。それがいつしか金属製の鍼でツボを刺激し、身体のバランスを整えるという技術として発展してきた。鍼灸は生命力である気の通り道「経絡」上にある経穴(ツボ)を刺激し、気の流れを整え、臓器の調整を行い、病気の改善を行う方法である。熱を加えたり、圧したり、刺したりといったように直接身体に触れる方法で、当時としては、いまでいう外科手術に近い療法だったのだと思われる。むろん鍼以外にも外科的な手法はあった。解剖手術も古代に行われていた。

「心」という字は、心臓を模ったものだが、解剖を経ずしてもとの象形文字の形が生まれることはなかったと考えられる。そうした人体を切開した経験の蓄積があったためか、紀元200年頃『三国志』にも登場する名医の華陀という人物が麻酔を使った手術を行っていたという記録もある。

ところが、身体を切開するような外科手術はその後、中国ではあまり発展しなかった。おそらく身体の働きのバランスを整える上で、ベストの技術ではなかったからだと思われる。なぜなら切開しなくても、より直接的に身体を治療していく手法があった。それが導引、つまり気功である。

中国では病院に気功科が設けられ、公的な医療として認められている。しかし日本では、気功によって病気が改善した症例がたくさんあるにもかかわらず、超能力のようなものとして扱われることはあっても、医療行為としての評価を受けることは少ないのが現状である。中国では「不通則痛」といい、気のめぐりが悪くなるから病になると考えられている。

気功は通じにくくなった経絡の中の気を開通させる手段である。漢方が薬を用い、間接的に気を通じさせるなら、気功はより直接的に経絡の詰まりを取り去り、しかも自分で体内のバランスをはかれるよう調整する。

✳4漢方医学の歴史  
http://www.matsuzaki-mo.jp/report/100000008012.html
本来、「漢方」という呼び方は、西洋医学が盛んになった明治時代につけられた、比較的新しいものです。それまで、日本には医学は漢方医学しかなかったので区別する必要がありませんでした。
なぜ「漢方」と名付けたかといえば、この医学体系が中国の漢の時代に出来上がったからです。

現在、中国では伝統的な中国医学を「中医」と呼んでいます。
では、この「中医」はどのように成立したのでしょうか? 諸説がありますが、わたしは仏教とともにインドから伝えられた「インド医学」に古代中国の医学と道教思想(陰陽五行論)が一つにまとめられたのではないかという説を支持してす。

インド医学はチベット医学やアラビア医学の成立にも関係し、さらにアラビア医学はトルコを通り、ヨーロッパ(西洋医学)、特に外科手術にも影響を与えたとされております。 

インド医学
インド医学はアーユルヴェーダとよばれています。
紀元前二千年ころから数百年をかけて成立したといわれる長い歴史を持つ医学です。
アーユルヴェーダとはサンスクリット語で「長生きの知恵」という意味で、病気の治療以外に食事法や養生法に重点を置いています。

インド医学の最も根本重要な思想は「トリ・ドーシャ」とよばれる人間の目には見えないはたらきが生命の維持に重要な作用をあたえるというものです。これは漢方医学の「気」と同じようなものだと考えるとよいと思います。また、動植物や鉱物をもとに薬物を生成し、治療を行うこともインド医学が確立したものであるといわれています。
さらに大麻を麻酔に用いて外科手術を行っていた名医・耆婆は釈迦の高弟であったと伝えられています。ちなみに古代インドの外科手術は記録が残っているものでは世界最古といわれ、現在の外科手術の起源はインドにあるとされています。 耆婆は釈迦の高弟でありました。わたしはこのことより、インド医学は体系化される過程で仏教の影響を受けているという考えを支持します。また、そのことが仏教とともにチベットや中国さらには日本へと伝えられ、広まった要因の一つだとも考えます。

✳5アラビア医学
7世紀にイスラム教が興って広大なイスラム文化圏を形成した時代にそこで行われた医学。その源は古代ギリシアおよびローマ医学で,これにインドおよび中国の医学知識が加わり,錬金術など新しい方法も独自に開発されて,薬物知識の豊富なアラビア医学が形成された。 11世紀末にサレルノ医学校が興隆したことは,アラビア医学と西欧キリスト教医学との結合の道を開き,アラビア語に訳されていた古代ギリシア医学の文献がここで再びラテン語に訳され,その後のヨーロッパの医学の発達に多大な影響を与えるにいたった。今日アラビア医学は,その独創性は認められているものの,古代ギリシア医学を文化遺産として後世に伝えたことのほうで,より評価されている。

✳6チベット医学
チベットのラマ僧らによって伝えられる伝統医学である。土台となるのはインドのアーユルヴェーダ(日本では「仏教医学」と呼ばれるもの)である。1940年代にスタートした中華人民共和国の現代中医学と比べると、内容も古い時代のまま存在するように見える。中国では「蔵医学」とも呼ばれる。
概説  尿の匂いや色、味までを用いて診断する方法があり、これは「尿診」とも呼ばれ、チベット医学の特徴の一つである。 また、治療法の主となるのは薬物療法であるが、中国と異なり、チベットでは高山植物が用いられ、自生する植物に乏しいため、鉱物もよく薬として用いられる。日本漢方や中医学と比べると、日本ではなじみが薄いようだが、現在もチベット大学やダラムサラの研究所で盛んに研究がなされている。また、チベット占星術とも関連が深い。一方、中国における「チベット医学におけるルム薬湯」について、2018年11月29日、ユネスコが無形文化遺産への登録勧告を決定している。

✳7ヨーガ
古代インド発祥の伝統的な宗教的行法で、心身を鍛錬によって制御し、精神を統一して古代インドの人生究極の目標である輪廻からの「解脱(モークシャ)」に至ろうとするものである。ヨガとも表記される。漢訳は瑜伽(ゆが)。

1990年代後半から世界的に流行している、身体的ポーズ(アーサナ)を中心にしたフィットネスのような「現代のヨーガ」は、宗教色を排した身体的なエクササイズとして行われているが、「本来のヨーガ」はインドの諸宗教と深く結びついており、バラモン教、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教の修行法でもあった。

概説 
森林に入り樹下などで沈思黙考に浸る修行形態は、インドでは紀元前に遡る古い時代から行われていたと言われている。✳8古ウパニシャッドのカタ・ウパニシャッドでは、感覚器官の堅固な総持(制御)がヨーガであるとされており、インドの宗教・仏教の研究者奈良康明は、ヨーガを簡潔に説明すると、呼吸を調整しながら、あるものを思念瞑想し、ついには恍惚状態となってその対象と合体する技法であるとしている。ヨーガという言葉及び思想は、インドの長い歴史においては比較的新しいものである。ヨーガ登場以前には苦行(tapas、熱の意)という語が用いられたが、苦行が肉体を苦しめることで強い緊張を伴う精神状態を生じるのに対し、ヨーガは平静な観想を本質とするものであり、両者は多くの関係があるが、同一であるとは言い難い。

ヨーガはインドの諸宗教で行われており、仏教に取り入れられたヨーガの行法は中国・日本にも伝えられ、坐禅となった。4-6世紀頃に体系化されたと考えられており、六派哲学のヨーガ学派の教典『ヨーガ・スートラ』が現在に残されている。ウパニシャッドにもヨーガの行法がしばしば言及され、正統バラモン教ではヨーガ学派に限られずに行われた。ウパニシャッドの梵我一如思想の流れをくむ解脱への道ジュニャーナ・マールガ(智道、知識の道)では、感覚器官を抑制し、輪廻の根源となる行為、さらにその根源である欲望を断つ必要があったため、感覚器官と心の動きを抑制するヨーガは解脱への手段として重視された。ジャイナ教でもヨーガの修行は必須であり、仏教の開祖である釈迦もヨーガを学んでいる。とはいえ、ヨーガ学派はヨーガ自体を解脱への方法と見做したが、ヒンドゥー教全般で見ると、ヨーガは解脱への道の一種の補助的な手段に過ぎない。

苦行は苦行者だけでなく、祭祀においても浄め等のために行われたので、祭祀を通じて一般化し、ヨーガも影響を受け、後代では苦行が採用されるようになった。伝統的な動的ヨーガは、肉体的・生理的な鍛錬(苦行)を重視し、気の流れを論じ、肉体の能力の限界に挑み、大宇宙の絶対者ブラフマンとの合一を目指すハタ・ヨーガとそのヴァリエーションである。「ハタ」は「力、暴力、頑固」などを意味する。ハタ・ヨーガはヨーガの密教版ともいうべきもので、12-13世紀のシヴァ教ナータ派のゴーラクシャナータを祖とする。ムドラー(印相)や、プラーナーヤーマ(調息、呼吸法)、シャットカルマ(浄化法)などの身体的修練を重視した。ハタ・ヨーガの主張はヒンドゥー教のシヴァ派やタントラ仏教(後期密教)の聖典群(タントラ)、『バルドゥ・トェ・ドル(チベット死者の書)』の説と共通点が多く、プラーナ(生命の風、気)、ナーディー(脈管)、チャクラ(ナーディーの叢)が重要な概念となっている。

ただし、今日ヨーガと呼ばれるものの多く動的なヨーガだが、伝統的なハタ・ヨーガの流れとは別である。1990年代後半から、身体的ポーズ(アーサナ)に重点を置いたヨーガがアメリカ、イギリスなどの英語圏を中心に世界的に流行している。現代では、一般に“ヨーガ(ヨガ)”または“ハタ・ヨーガ“と呼ばれるものの多くは、このヨーガを指している。この近現代のヨーガは、日本においてもアメリカなどの影響により、今世紀に入って爆発的な広がりを見せている。その特徴は「アーサナ(ポーズ)」の実践にある。宗教学者のデミケリスはこうしたヨーガを「現代体操ヨーガ(Modern Postural Yoga)」と呼んでいる。この現代の「ヨーガ教室」等で教えられているヨーガは、20世紀前半のインドで西洋の体操やボディビルディングなどの外来の身体鍛錬を取り入れてインド人のための国産エクササイズを作ろうとする動きから生まれた「創られた伝統」を直接的な起源としており、現代のヨーガと元来のヨーガにおける「yoga」とは似て非なる「同音異義語」であると言える。このヨーガは、アメリカで「スピリチュアルな実践」とも解釈されている。多くの現代人はヨーガに「インド古来の、何か難しいポーズをとる、健康に良いらしいもの」というイメージを持っており、現代ヨーガは流派によって練習内容が異なりはしても、「古代インドの修行法」「アーサナ(ポーズ)・呼吸(プラーナーヤーマ=調息)・瞑想」」、「科学的に検証された健康に良い効果」という3点から構成され、この神話的要素ともいえる3つの絡み合いが魅力になり、人気を博していると思われる。健康法として多くの効果が喧伝される一方、心身に対する様々な危険性も指摘されている。

また現代では、様々な文献が翻訳・執筆され容易に入手できるので、書籍や映像により独習されることも少なくない。ヨーガを取り入れていたオウム真理教の教祖麻原彰晃は、正規のグルにつかず文献を基に独学で修行している。しかし、このことがのちに様々な問題を生ぜしめた要因の一つであるとも言われている。その一方、アヌサラ・ヨーガやビクラム・ヨーガといった巨大ヨーガ教室のトップがセクハラ、パワハラ、性犯罪で告発されるなどの権力の乱用もあり、商業化された現代のヨーガで、指導者に帰依することは妥当かどうか疑問も持たれている。

✳8ウパニシャッド
サンスクリットで書かれたヴェーダの関連書物。一般には奥義書と訳される。
概要  約200以上ある書物の総称である。各ウパニシャッドは仏教以前から存在したものから、16世紀に作られたものまであり、成立時期もまちまちである。もっとも、ウパニシャッドの最も独創的要素は、仏教興起以前に属するので、その中心思想は遅くとも西暦前7世紀ないし前6世紀に遡る。ウパニシャッドの語源について、「近くに座す」ととるのが一般的である。それが秘儀・秘説といった意味になり、現在のような文献の総称として用いられるようになったと広く考えられている。後世の作であるムクティカー・ウパニシャッドにおいて108のウパニシャッドが列記されていることから、108のウパニシャッドが伝統的に認められてきた。その中でも10数点の古い時代に成立したものを特に古ウパニシャッドと呼ぶ。多くの古ウパニシャッドは紀元前500年前後に成立し、ゴータマ・ブッダ以前に成立したものと、ゴータマ・ブッダ以後に成立したものとある。古ウパニシャッドはバラモン教の教典ヴェーダの最後の部分に属し、ヴェーダーンタとも言われる。ウパニシャッドの中心は、ブラフマン(宇宙我)とアートマン(個人我)の本質的一致(梵我一如)の思想である(ウパニシャッド哲学)。ただし、宇宙我は個人我の総和ではなく、自ら常恒不変に厳存しつつ、しかも無数の個人我として現れるものと考えられたとされる。

古ウパニシャッド 
初期 紀元前800年から紀元前500年にかけて成立。古散文ウパニシャッド。
中期 紀元前500年から紀元前200年にかけて成立。韻文ウパニシャッド。
後期 紀元前200年以降に成立。新散文ウパニシャッド。

カタ・ウパニシャッド
ウパニシャッドの1つ。黒ヤジュル・ヴェーダに付属し、古ウパニシャッドの中では、中期の「韻文ウパニシャッド」に分類される。文量が少ない短編のウパニシャッドで、聖仙ウッダーラカ・アールニの息子と、死神ヤマの問答が描かれる。

✳9ユナニ医学
現在もインド・パキスタン亜大陸のイスラーム文化圏で行われている伝統医学であり、古代ギリシャの医学を起源とする。中国医学、アーユルヴェーダ(インド伝統医学)とともに、世界三大伝統医学のひとつとされる。ユーナニ医学、ユナニー医学、ユナニティブ、ギリシャ・アラビア医学、グレコ・アラブ医学、アラビア医学、イスラーム医学ともよばれる。「Yunan」ということばはペルシャ語で「ギリシャ」(Ionia)という意味で、「Yunani」とは「ギリシャの」(Ionian)または「ギリシャを源にするもの」という意味である。イスラム医学、イスラーム医学と呼ばれることもあるが、イスラーム世界で発展したとはいえ、ネストリウス派キリスト教徒やユダヤ教徒など、多くの異教徒の学者も功績を残している。また、民族的にも非アラブ人であるペルシャ人(イラン人)やトルコ人、インド人、ギリシャ人、エジプト人、シリア人の医師たちも活躍したため、厳密には「アラビア人の医学」でも「イスラームの医学」でもなく、広くアラビア世界、イスラーム文化圏で発展した医学を指す。10世紀に確立し、イスラームの拡大とアラビア語の普及に伴い、ヨーロッパやインドでも広く行われた。ヨーロッパの大学では、15~16世紀には主にユナニ医学が教えられており、18世紀までイブン・スィーナー( 980-1307)の『医学典範』など、ユナニ医学の文献が教科書として使われていた。

✳10イスラム医学
イスラム医学(アラビア医学、ユナニ医学、ギリシャ・アラビア医学)は、主に古代ギリシャ、古代ローマ、ペルシア、インドの伝統医学の理論と実践を基に発展した。ただし、医師はアラビア人・イスラム教徒に限られず(むしろ著名な医師にアラビア人は少ない)、多様な民族・宗教の医師が活躍している。イスラム世界の学者にとって、ヒポクラテスやガレノスといったギリシャ・ローマの医師は医学の権威であった。そのため、古代ギリシャ・ローマの医学をもっと利用しやすく、学習や教育が容易なものにするために、膨大で矛盾もある知識を整理し、百科事典や要約を作った。シリア語、ギリシャ語、サンスクリット語の膨大な著作がアラビア語へと翻訳され、これらを基に新しい医学体系が作られた。 

ローマ帝国東西分裂後、西ローマ帝国ではギリシャ語は使われなくなり、西ヨーロッパからギリシャ語の医学書の多くが失われた。ローマ帝国の公用語であったラテン語は、西ローマ帝国滅亡後もローマ・カトリック教会の公用語として利用された。日常で話されたわけではなく、公文書やミサ、学術研究などに限られているが、聖職者・貴族といった西ヨーロッパのエリート層は、一般にラテン語による意思の疎通が可能であった。西ヨーロッパでは、12世紀ルネサンスとよばれる時代に古典文化の復興が見られ、イタリアやスペインでアラビア語やギリシャ語の文献がラテン語に翻訳され、ガレノスやヒポクラテスの作品を含む古代ギリシャの医学書が再発見されることになった。翻訳の正確性はともかく、イブン・スィーナーの著書「医学典範」のような体系的な医学書はラテン語に翻訳され、写本や印刷本という形でヨーロッパ中に広まり、西ヨーロッパの医学に大きな影響を与えた。15世紀と16世紀の間だけで医学典範は35以上も版を重ねた。

中世のイスラム世界では、すべての大都市に病院が建設された。例として、カイロには内科医、薬剤師、看護師などが勤務するカラーウーン病院があった。


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