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ベースリスト4

エピクロス    デモクリトス   ストア派  
キルケゴール   ヘーゲル哲学

~Wikipediaより~

[エピクロス]…紀元前341年 – 紀元前270年
快楽主義などで知られる古代ギリシアのヘレニズム期の哲学者。 エピクロス派の始祖である。

現実の煩わしさから解放された状態を「快」として、人生をその追求のみに費やすことを主張した。後世、エピキュリアン=快楽主義者という意味に転化してしまうが、エピクロス自身は肉体的な快楽とは異なる精神的快楽を重視しており、肉体的快楽をむしろ「苦」と考えた。

生涯 
エピクロスはアテナイの植民地であったサモス島に、紀元前341年に生まれた。エピクロスの両親は、アテナイ人入植者であり、父は教師であったが、家族の生活は貧しかった。

当時アテナイ人の青年には2年間の兵役義務があり、紀元前323年エピクロスも18歳の時、アテナイへ上京した。この時アカデメイアでクセノクラテスの、またリュケイオンでテオプラストスの講義を聞いたと言われる。

2年のアテナイ滞在後、エピクロスは家族のもとに戻るが、サモス島のアテナイ人入植者は、アレクサンドロス大王の後継者ペルディッカスによって弾圧され、対岸の小アジアのコロポンに避難していた。コロポンの家族と合流した後、デモクリトス派の哲学者ナウシパネスの門下で学んだと思われる。

紀元前311年、エピクロスはレスボス島で自身の学校を開くが迫害を受け、翌年には小アジア北方のラムプサコスに移り、のちのエピクロス派を支える弟子たちを迎えた。

紀元前307年か紀元前306年には、エピクロスは弟子たちとともにアテナイへ移った。ここで郊外の庭園付きの小さな家を購入し、そこで弟子たちと共同生活を始めた。いわゆる「エピクロスの園」である。このエピクロスの学園は万人に開かれ、ディオゲネス・ラエルティオスは哲学者列伝の中で、この学園の聴講生として何人かの遊女の名前を記録している。

エピクロスはこの後、友人を訪ねる数度の旅行以外は、アテナイのこの学園で過ごした。紀元前270年、エピクロスは72歳でこの世を去った。

その後 
「エピクロスの園」は、レスボス島以来の高弟ヘルマルコスが引き継いだ。この学園は、エピクロス学派の拠点としてその後も長くつづき、ガイウス・ユリウス・カエサルの時代には第14代目の学頭が継承していたと言う。

学説 
自然思想と認識論 
エピクロスの自然思想は、原子論者であった✳デモクリトスに負っている。つまりそれ以上分割できない粒子である原子と空虚から、世界が成り立つとする。

そうした存在を把握する際に用いられるのが感覚であり、エピクロスはこれは信頼できるものだとみなし、認識に誤りが生じるのはこの感覚経験を評価する際に行われる思考過程。

こうした彼の認識論は、後述する彼の倫理学説の理論的基盤となっている。たとえば彼は「死について恐れる必要はない」と述べているが、その理由として、死によって人間は感覚を失うのだから、恐怖を感じることすらなくなるのであり、それゆえ恐れる必要はないといった主張を行っている。このように「平静な心(ataraxiaアタラクシア)」を追求することを是とした彼の倫理学説の淵源は、彼の自然思想にあると言える。

倫理学 
エピクロスは、幸福を人生の目的とした。これは人生の目的を徳として、幸福はその結果に過ぎないとした✳ストア派の反対である。

倫理に関してエピクロスは「快楽こそが善であり人生の目的だ」という考えを中心に置いた主張を行っており、彼の立場は一般的に快楽主義という名前で呼ばれている。ここで注意すべきは、彼の快楽主義は帰結主義的なそれであって、快楽のみを追い求めることが無条件に是とされるものではない点が重要である。すなわち、ある行為によって生じる快楽に比して、その後に生じる不快が大きくなる場合には、その行為は選択すべきでない、と彼は主張したのである。

より詳しく彼の主張を追うと、彼は欲求を、自然で必要な欲求(たとえば友情、健康、食事、衣服、住居を求める欲求)、自然だが不必要な欲求(たとえば大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活)、自然でもなく必要でもない欲求(たとえば名声、権力)、の三つに分類し、このうち自然で必要な欲求だけを追求し、苦痛や恐怖から自由な生活を送ることが良いと主張し、こうして生じる「平静な心(アタラクシア)」を追求することが善だと規定した。こうした理想を実現しようとして開いたのが「庭園」とよばれる共同生活の場を兼ねた学園であったが、そこでの自足的生活は一般社会との関わりを忌避することによって成立していたため、その自己充足的、閉鎖的な特性についてストア派から激しく批判されることになった。

このようにエピクロスによる快楽主義は、自然で必要な欲望のみが満たされる生活を是とする思想であったが、しばしば欲望充足のみを追求するような放埒な生活を肯定する思想だと誤解されるようになった。しかしこうした生活については、エピクロス自身によって「メノイケウス宛の手紙」の中で、放埒あるいは性的放縦な享楽的生活では快がもたらされないとして否定的な評価が与えられている。

著作 
プラトンとアリストテレス以外の古代ギリシアの哲学者たちの著作は完全な形では現存せず、多くはさまざまな文献に引用された断片のみ後世に伝えられたが、エピクロスも例外ではない。ただし、古代ギリシア哲学者について主要な資料のひとつとなっている、ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』は、多くの哲学者について、断片や風説を紹介するにとどまるのに、エピクロスについては最後の章を丸ごと当てて、エピクロスについての評伝と彼が書いたと伝えられる手紙を収録している。岩波文庫に訳された『エピクロス:教説と手紙』は、これに加え、1888年にバチカンの写本から発見された断片と、後の人々がエピクロスの言葉として引用した断片とをまとめて収録したものである。

思想の背景 
彼は「隠れて生きよ」と述べたが、その背景にはマケドニアによる反体制者の処刑、政治活動や思想への弾圧などアテネの不穏な社会情勢があったと言われている。

語録 
「死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い」
「われにパンと水さえあれば、神と幸福を競うことができる」
「われわれが快楽を必要とするのは、ほかでもない、現に快楽がないために苦痛を感じている場合なのであって、苦痛がない時には、我々はもう快楽を必要としない」

✳[デモクリトス]…紀元前460年頃-紀元前370年頃
古代ギリシアのイドニア学派の哲学者。
ソクラテスよりも後に生まれた人物だが慣例でソクラテス以前の哲学者に含まれる。

生涯と伝説 
トラキア地方のアブデラの人。レウキッポスを師として原子論を確立した。アナクサゴラスの弟子でもあり、ペルシアの僧侶やエジプトの神官に学び、エチオピアやインドにも旅行したと伝えられる。財産を使いはたして故郷の兄弟に扶養されたが、その著作の公開朗読により100タレントの贈与を受け、国費で葬られたという。哲学のほか数学・天文学・音楽・詩学・倫理学・生物学などに通じ、その博識のために〈知恵 Sophia〉と呼ばれた。またおそらくはその快活な気性のために、〈笑う人 Gelasinos〉とも称された。

学説 
〈原子〉は不生・不滅・無性質・分割不可能な無数の物質単位であって、たえず運動し、その存在と運動の場所として〈空虚〉が前提とされる。無限の〈空虚〉の中では上も下もない。形・大きさ・配列・姿勢の違うこれら無数の原子の結合や分離の仕方によって、すべての感覚でとらえられる性質や生滅の現象が生じる。また魂と火(熱)とを同一視し、原子は無数あるが、あらゆるものに浸透して他を動かす「球形のものが火であり、魂である」とした。デモクリトスは世界の起源については語らなかったが、「いかなることも偶然によって起こりえない」と述べた。

デモクリトスの倫理学においては、政治の騒がしさや神々への恐怖から解放された魂の安らかさが理想の境地とされ、詩学においては霊感の力が説かれている。原子論を中心とする彼の学説は、古代ギリシアにおける唯物論の完成であると同時に、後代のエピクロス及び近世の物理学に決定的な影響を与えた。

しかし同時代の学者が目的と真実と美を探していたのに比べると夢の無い原子論は支持されず、彼の著作は断片しか残されていない。プラトンが手に入る限りのデモクリトスの書物を焼き「彼の著書で多くの言葉を費やす者は、いかなる正しいことをも学ぶ能力がない」と言った伝説もある。プラトンの対話篇には同時代の哲学者が多数登場するが、デモクリトスに関しては一度も言及されていない。それに対してセネカやキケロなどのローマの知識人にはその鋭敏な知性と魂の偉大さを高く評価されている。

また、物質の根元についての学説は、アリストテレスが完成させた四大元素が優勢であり、原子論は長らく顧みられる事は無かった。後にジョン・ドルトンやアントワーヌ・ラヴォアジエによって原子論が優勢となり四大元素説は放棄された。もっともドルトンやラヴォアジエ以降の原子論は、デモクリトスの説と全く同一という訳ではない。「原子」と「空虚」が存在するという意味において、デモクリトスの原子論は現代の原子論とも共通するとされる。

✳[ストア派]
ヘレニズム哲学の一学派で、紀元前3世紀初めにキティオンのゼノンによって始められた。自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服してゆくかを説く哲学を提唱した。破壊的な衝動は判断の誤りから生まれるが、知者すなわち「道徳的・知的に完全」な人はこの種の衝動に苛まされることはない、と説いた。

ストア派が関心を抱いていたのは、宇宙論的決定論と人間の自由意思との関係や、自然と一致する意志(プロハイレーシスと呼ばれる)を維持することが道徳的なことであるという教説である。このため、ストア派は自らの哲学を生活の方法として表し、個々人の哲学を最もよく示すものは発言内容よりも行動内容であると考えた。

ルキウス・アンナエウス・セネカやエピクテトスのような後期ストア派は、「徳は幸福により十全となる」という信念から、知者は不幸に動じないと主張した。この思想は「ストア的静寂」というフレーズが意味するところに近い。だが、知者は真に自由とされ、あらゆる道徳的腐敗は等しく悪徳であるという「過激倫理的な」ストア派の思想を含意しない。

ヘレニズム時代以降の古代ギリシア・ローマの時代においてはアカデメイア学派、逍遥学派、エピクロス派と並んで四大学派とされていた。創始以降、ストア派の思想は古代ギリシアやローマ帝国を通じて非常に流行し、マルクス・アウレリウス・アントニヌスをも信奉者として、哲学の異教的な性格をキリスト教の教義と調和しないものとしてユスティニアヌス1世が全ての学派を廃するまで続いた。ストア派なる名は、ゼノンがアテナイのアゴラ北面の彩色柱廊(ストア・ポイキレ)で教授していたことにちなむ。

基本的教説 
「 「哲学は人間が自分の外部にある全てのものを手に入れることを保証しないが、代わりにその適切な主題の中に眠っているものを手に入れるであろう。大工の使う素材は木材や彫刻用青銅であるから、生き方の素材は各人の生である。」 」
—エピクテトス

ストア主義者それぞれの考え方は互いに密接に関係している。

ストア派の思想については現存資料が後期に偏っているため、前期・中期の思想は明確にはわからない。したがっていくつかの断片的資料や、後期でも最も前期に近いとされるキケロ、エピクテトスの思想(ただしエピクテトス自身は著作を残さなかったことから彼の思想は弟子のアッリアノスの記録による)から推測するしかない。

ストア派は世界の統一的な説明を形式論理学、非二元論的自然学、自然主義的倫理学によって構築した。中でも倫理学が人間の知の主な関心であると彼らは強調したが、後代の哲学者たちはストア派の論理学理論により関心を示した。

ストア派は破壊的な衝動に打ち勝つ手段として自制心や忍耐力を鍛えることを説いた。明朗で先入観のない思考によって普遍的理性(ロゴス)を理解することができると彼らは考えた。ストア派の最大の特徴は個人の道徳的・倫理的幸福を追求することにある。「『徳』は自然と一致した『意志』にこそ存する」 この思想は対人関係のような分野にも適用される「憤怒、羨望、嫉妬から解放されること」と奴隷をも「全ての人は等しく自然の産物他の人と対等だ」と認めること。ストア主義は、非道な権力に抗する際や、災難の続く事態に対峙する際の慰めとなった。

ストア倫理学では決定論が支持される。ストア的な徳を欠いた人間に関して、邪悪な人間は「車にくくり付けられた犬のようなもので、車の進む方向へどこにでも行かされる」とクレアンテスは考えた。対照的に、ストア派の徳は人間の意志を世界と一致するものへと修正し、エピクテトスの言うところによれば、「病むときも幸福で、危機の内に在るときも幸福で、死を迎える時にも幸福で、追放されたときにも幸福で、恥辱を受けた時にも幸福」であらしめるために、「完全に自立的な」個人の意志と同時に「厳密に決定論的な統一体」である世界を断定する。この思想は後に「古典的汎神論」と呼ばれ(オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザに採用され)た。

ヘレニズム世界・ローマ帝国においてストア派は知的エリート階層の主流派の哲学となり、ギルバート・マーレイの言う所によれば、「アレクサンドロスの後継者のほぼ全員が自らをストア主義者だと述べた」 ストア派の起源はエピクロス派と同時期ではあるが、より長い歴史を持ち、その教説における恒常性はより少なかった。ストア主義は犬儒学派の教説の中で最良のものを受け継ぎ、より完備して円熟した哲学となった。

歴史
紀元前301年の初めごろ、キティオンのゼノンがストア・ポイキレ(すなわち彩飾柱廊)で哲学を説き、ここからその名声を得た。エピクロス派のような他の学派とは異なり、ゼノンはアテナイのアゴラ(中央広場)を見晴らすコロネードのような公共的な場所で哲学を説くことを選んだ。

ゼノンの思想はソクラテスの弟子アンティステネスを始祖とするキュニコス学派の思想から発展した。ゼノンの弟子のうち最も影響力があったのはクリュシッポスで、彼は今日ストア主義と呼ばれているものを成型した。後のローマ時代のストア主義は、何者によっても直接制御されていない世界と調和する生き方を喧伝した。

研究者は大抵ストア派の歴史を三相に分ける:
前期ストア派、ゼノンによる学派の創設からアンティパトロスまで。
中期ストア派パナイティオスやポセイドニオスを含む。
後期ストア派、ムソニウス・ルフス、ルキウス・アンナエウス・セネカ、エピクテトス、そしてマルクス・アウレリウス・アントニヌスらを含む。

アルバート・アーサー・ロングが述べているように、前二相のストア主義者の著作で完全な形で現存するものは全く無い。後期ストア派のローマ人たちの著作のみが現存している。

ストア論理学 
命題論理 
ゼノンの師の一人ディオドロス・クロノスは今日命題論理として知られる論理学へのアプローチを初めて導入した哲学者とされる。命題論理とは名辞ではなく命題つまり文に基づいた論理学へのアプローチであり、論理学をアリストテレスの名辞論理とは全く異なったものにした。後にクリュシッポスが、このアプローチをストア論理学として知られることになる体系へと発展させ、アリストテレスの三段論法のライバルとされる演繹体系(ストア三段論法)を導入した。ストア論理学に対する新たな関心が20世紀に起こり、論理学の重要な発展が命題論理に基づいて起こった。「クリュシッポスとゴットロープ・フレーゲの哲学的論理学の強い親近性は非常に印象的である」とズザンネ・ボプツィエンが書いている。

「クリュシッポスは事実上今日論理学に関係しているあらゆる論理学的話題に関する300以上の論理学的著作を著した。その中には言語行為理論、構文分析、単数あるいは複数の表現、述語論理、指標、存在命題、論理演算、否定、和、包含、論理的帰結、妥当性論証の形式、演繹、命題論理、様相論理、時相論理、認識論理、代示論理、命令論理、多義性と論理的パラドックスがある」ともボプツィエンは書いている。

ストア範疇論 
全ての存在は―全てのものではなく―物質的であるとストア派では考えられた。彼らは具体的なものと抽象的なものとの区別は認めたが、純粋に物質的なものが存在するというアリストテレスの主張に関しては否定した。そのため彼らは、物体が熱いならそれは世界中に存在する熱素の一部がその物質の中に入ったからだというアナクサゴラスの主張は(アリストテレスと同じく)認めた。しかしアリストテレスとは違って、あらゆる付帯性をカバーするような思想を発達させた。そのためある物体が赤いならそれは世界中に存在する赤の元素の一部がその物質の中に入ったからだということになる。

四種類の範疇があると彼らは考えた。
・基体  物がそれから構成されるところの基本的な物質、形相を持たない実体(ousia)
・性質づけられた(もの)  物質が個々の物体を形成する方法; ストア自然学では、物質に形相をもたらす物質的な構成要素(pneuma: 気息)
・何らかの様態にある(もの) 大きさ、形状、行動、体勢といった特定の特徴であり、物体の内部に存するものではない
・何かとの関係において何らかの様態にあるもの 時間・空間内における他の物体との相対的位置のような、他の現象との相対的な特徴

認識論 
ストア派では、知識は理性を使うことで獲得されると信じられた。真理は誤謬とは区別される; 実際には近似が作り出されるだけだとしても。ストア派によれば、感覚器官は常に感覚を受け取っている: そして物体から感覚器官を通じて心へと拍動が伝わり、心において拍動が表象(phantasia)における印象を残す(心に現れる印象はファンタズマと呼ばれる)。

心は印象に対して判断する―賛成もしくは反対する―能力(sunkatathesis)を持ち、実在の正しい表象を間違った表象から区別することができる。印象の中には即座に賛成できるものもあるが、様々な程度の躊躇いがちな賛成に留まり、信念もしくは意見(ドクサ)と呼ばれるものもある。ただ理性を通じてのみ人間は明確な理解・確信(カタレプシス)を得られる。ストア派の知者が獲得できる、確かな、真なる知識(エピステーメー)は確信を仲間の専門知識や人間の判断の集成で確かめることによってのみ得られる。

あるものがその実態において、その裸の状態において、その完全な全体性においてどんな種類のものかを見極めるために、そしてその適切な名前や解決へ向けて混合されたものの名前を分かるために、あなたに表象されたものの定義・記述を自分のためになしなさい。なぜなら、あなたの生涯において表象された物体を真に系統的に観察し、同時にこの世界がどんな世界であるか、世界の中で万物がどのように働くか、全体との関連の中で個々のものがどんな意味を持つかを見極めるために物事を常に観察することほど、心を練磨する上で生産的なことはないのだから。
—マルクス・アウレリウス・アントニヌス,『自省録』、第III巻第11章

ストア派の自然学・宇宙論 
ストア派によれば、世界は物質的で、神あるいは自然として知られている理性的な実体であり、能動的・受動的の二種類に分けられる。受動的な実体は物質であり、「何にでも使える実体だが不活性で、何者かによって運動を加えられないと動かないままでいる」 運命あるいは普遍的な理性(ロゴス)と呼ばれる能動的実体は知的なエーテルつまり原初の炎であり、受動的な物質に働きかける:

世界それ自体が神であり、世界が自身の霊魂を流出する; それは同じ世界を導く原理であり、物の一般的本性やあらゆる物質を包含する全体性とともに心や理性の中で働く; 運命づけられた力と未来の必然性; それにエーテルの炎と原理; さらに水、大地、空気のような本来の状態が流動的・遷移的な諸元素; それから太陽、月、星々; これらと、全てのものが内包されるような普遍的存在が含まれる
—クリュシッポス,キケロ『神々の本性について』第I巻より

万物が運命の法則に従う、というのは世界は自身の本性と一致してのみ活動し、受動的な物質を統べるからである。人間や動物の魂はこの原初の火からの流出物であり、同様に運命に従う:

世界を一つの実体と一つの魂を備えた一つの生命だと常に見なせ; そして万物が知覚と、つまりこの一つの生命についての知覚をどうやって持つのかを観察せよ; さらに万物がどのように一つの運動と共同して動くかを観察せよ; それから万物がどのように互いの原因となっているかを見て取れ; 網の構造や紡がれ続ける糸をも観察せよ
—マルクス・アウレリウス,『自省録』、第IV巻第40節

個々の魂はその本性上滅びゆくものであり、「世界の種子たる理性(logos spermatikos)に迎え入れられることで炎的な本性をとり、変化・拡散し」うる。正しい理性が人間と世界との基礎なのだから、人生の目的は理性に従って生きること、すなわち自然に従って生きることとなる。

ストア派の倫理学・徳論 
古代のストア派は今日とは意味の異なる用語を使っていたためにしばしば誤解される。「ストイック」という言葉は「非感情的」あるいは苦痛に無関心だという意味を持つようになった、というのはストア倫理学では「理性」に従うことによって「情動」から解放されることを説いたからである。ストア派は感情を消し去ることを追求したのではなかった。むしろ彼らは、明確な判断と内的な静寂をもたらしてくれるような断固たるアスケーシスによって感情を変質させようとしたのである。論理、内省、専心がそういった自己修養の方法とされた。

キュニコス学派の影響を受けているストア倫理学の基本は、善は魂自体の内部に存するということであった; 知恵と自制心。ストア倫理学は規律を強調する: 「理性の導くところに従え」 そのためある者は情動から逃れようと努力し、古代における「情動」の意味は「苦悶」あるいは「苦痛」、すなわち、外的な出来事に「受動的に」反応することだと心にとどめた―現代の用法とは幾分か異なる。「情動」つまり本能的な反応(例えば肉体的な危険にさらされたときに顔が青ざめ身震いすること)と通常訳される「パトス」と、ストア派の知者(ソポス)の表徴である「エウパトス」とが区別された。情動が間違った判断から生まれるのと同様に正しい判断から生まれてくる感じが「エウパテイア」である。

その思想はアパテイア(心の平安)によって苦痛から解放されるというもので、ここでは心の平安は古代的な意味で理解される―客観的であり、人生の病める時も健やかなる時も平静と明確な判断とを保つ事。

ストア派では、「理性」は論理を用いることだけではなく、自然―ロゴス、普遍的理性、万物に内在するもの―の過程を理解することをも意味した。彼らの考えるところによれば、理性と徳による生とは、万人の本質的な価値と普遍的な理性を認識し、世界の神的秩序と一致して生きることである。ストア哲学の四枢要徳は、

「知恵」(ソピア)
「勇気」(アンドレイア)
「正義」(ディカイオシュネー)
「節制」(ソープロシュネー)
であるが、これはプラトンの教えに由来する分類である。

ソクラテスに従って、ストア派では、自然の中の理性に人間が無知であることから不幸や悪は生じるとされた。誰か不親切な人がいるなら、それはその人が親切さへと導く普遍的な理性に気付いていないからである。そこで、悪や不幸を解決するにはストア哲学―自分自身の判断や行動を観察し、どこで自然の普遍的理性に背くかを決定すること―を実践すべきだとされた。

自己の命をあっさりと扱うが、人間それぞれの究極的、最終的な自由意志を全面的に尊重しているが、決して他者に対しての殺人は肯定しない。ただし当時の他の哲学と同様に敵に対して勇猛に戦うことは善とされた。(当時の世相を反映し解釈すれば至って当然)このような考え方は「魂は神から借りているだけ」という言葉に端的に表されている。(人は最終的に神からの分け御霊であるということを主張)

高潔な生活を送れないような状況下で賢者が自殺することを許すことがストア派では認められた。悪政の下で生きることはストア主義者としてマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスのいう自己一貫性(コンスタンティア)に悖り(もとり:物事の筋道にあわない。道理にそむく。反する。)、名誉ある倫理的選択を行う自由を傷つけるとプルタルコスは考えた。深刻な苦痛や病を受けた時には自殺は正当化されうるが、さもなければ大抵の場合自殺は社会的義務の放棄とみなされた。

「善悪無記」の理論 
ここでいう「無記」とは道徳律の適用外にあるもの、すなわち倫理的目的を促進も妨害もしないものをいう。道徳律によって要請されも禁じられもしない行動、言い換えれば道徳性を持たない行動が道徳的に無記であると言われる。無記(アディアポラ)の理論はストア派において、その対立物たる善と悪(カテーコンタと ハマルテーマタ、それぞれ「手近な行動」つまり自然と一致した行動、と失敗)の必然的結果として生まれた。この二分法の結果として、多くの物事が善にも悪にも振り分けられず無記とみなされた。

結果的に「無記」の中にさらに三つの下位分類が発達した: 自然に一致した生を支援するので好まれるべきもの; 自然に一致した生を妨害するので避けられるべきもの; そして狭い意味で無記なもの

「アディアポラ」の理論はキュニコス学派および懐疑主義とも共通であった。カントによれば、無記なるものの概念は倫理の範囲外である。無記なるものの理論はルネサンス期にフィリップ・メランヒトンによって復活させられた。

アディアポラの観点からすれば、究極的には世俗的善悪も人間の判断が生み出した幻想に過ぎない。アディアポラの思想に立てば、命は善ではなく、「望ましいもの(プロエーグメノン)」でしかないため、状況如何(四肢の切断や非常な老齢、不当な命令に従わなければならない等)によっては先述のように自殺も肯定した。

運命の肯定と自由意志の肯定 
これにより人は運命を受け入れる「覚悟」が必要であることを悟る。しかし、不完全な運命を補正する自由意志により運命さえも自己の意識によって良き方向へと革新できると主張する。

魂の鍛練 
ストア派にとって哲学とは単に信念や倫理的主張を集めたものではなく、持続的な実践・鍛錬(つまり「アスケーシス」、禁欲主義)を伴う「生き方」である。ストア派の哲学的・霊魂的な実践には論理学、ソクラテス的対話や自己対話、死の瞑想、今この瞬間に対して注意し続ける訓練(ある種の東洋の瞑想と同様である)、毎日その日起こった問題とその可能な解決法について内省すること、ヒュポムネマタ、等々がある。ストア派にとって哲学とは常に実践と反省を行う動的な過程なのである。

著書『自省録』において、マルクス・アウレリウスはそういった実践のいくつかを規定した。例えば、第II巻第1章にはこうある:

早朝に自分に向って言う: 私は今日恩知らずで、凶暴で、危険で、妬み深く、無慈悲な人々と会うことになっている。こういった品性は皆彼らが真の善悪に無知であることから生じるのだ[...]何者も私を禍に巻き込むことはないから彼らのうちの誰かが私を傷つけることはないし、私が親類縁者に腹を立てたり嫌ったりすることもない; というのは私たちは協働するために生まれてきたからである[...]

アウレリウスに先行して、エピクテトスが『語録』において三つの主題(トポス)、つまり判断、欲望、志向を区別している。フランスの哲学者ピエール・アドによれば、エピクテトスはこの三つの主題をそれぞれ論理学、自然学、倫理学とみなした。『自省録』において「各格率はこれら非常に特徴的な三つのトポスのうちの一つあるいは二つあるいは三つ全てを発展させる」ものであるとアドは書いている。

Seamus Mac Suibhneによって、魂の鍛錬の実践は反省的行動の実践に影響を及ぼすものとされている。ストア派の魂の鍛錬と近代の認知行動療法とが相似していることがロバートソンの『認知行動療法の哲学』において長々と詳述されている。また、こうした実践重視の姿勢はソクラテスの「ただ生きるのではなく、より善く、いきる」につながる考え方だと思われる。

感情からの解放(理性主義) 
あらゆる感情から解放された状態を魂の安定とし、最善の状態として希求する。アパテイア(語源的にはパトスpathosに否定の接頭辞「a」が付く)と呼ばれるこの境地は賢者の到達すべき目標であるとともに、ストア学派における最高の幸福であった。当然、死に際しての恐怖や不安も克服の対象と考える。その理想としてよくソクラテスの最期が挙げられる。怒らず、悲しまず、ただ当然のこととして現実を受け入れ行動することを理想とする。

社会哲学 
ストア派の顕著な特徴はそのコスモポリタニズムにある: ストア派によれば、全人類は一つの普遍的な霊魂の顕現であり、兄弟愛をもって生き互いに躊躇なく助け合うべきである。『語録』において、エピクテトスが人間の世界に対する関係について述べている: 「各人は第一にはめいめいの所属する共同体の一員である; しかし彼は神と人の偉大な国の一員でもあり、その国ではコピーだけが政治に関心を持つのだ」 この思想はシノペのディオゲネスを模倣したものである。ディオゲネスは「私はアテナイ人でもコリントス人でもなく世界市民である」と述べている。

階級や資産といった外的な差異は社会的関係において何ら重要性を持たないと彼らは考えた。代わりに彼らは人間の兄弟愛と全人類の本性的平等を称揚した。ストア派はギリシアーローマ世界で最も影響力ある学派となり、カトやエピクテトスといった多くの注目に値する著述家・人物を輩出した。

特に、彼らは奴隷に慈悲をかけることを推し進めたことで注目される。セネカは「あなたが自分の奴隷と呼んでいるものはあなたと同根から生じたこと、同じ天に向かって微笑みかけること、あなたと同じ言葉で呼吸し、生き、死ぬことを思いやりをもって覚えておきなさい。」とセネカは勧めている。

ストア主義とキリスト教 
二つの哲学の大きな違いはストア派が汎神論、つまり神が決して超越的でなくむしろ内在的であるという立場をとることにある。世界を創りだす実在としての神はキリスト教思想においては人格的なものとされるが、ストア派は神を宇宙の総体と同一視した、万物が物質的であるというストア主義の思想はキリスト教と強く対立している。また、ストア派はキリスト教と違って世界の始まりや終わりを措定しないし、個人が死後も存在し続けると主張しない。

ストア主義は教父によって「異教哲学」とみなされたが、それにもかかわらずストア主義の中心的な哲学的概念のなかには初期のキリスト教著述家に利用されたものがある。その例として「ロゴス」、「徳」、「魂」、「良心」といった術語がある。しかも、相似点は用語の共有(あるいは借用)に留まらない。ストア主義もキリスト教も主張した概念として、この世界における所有・愛着の無益性・刹那性だけでなく、外的世界に直面した際の内的自由、自然(あるいは神)と人との近縁性、人間の本性の堕落―あるいは「持続的な悪」―という考え、などがある。各人の人間性の大きな可能性を呼び覚まし発展させるために、情動およびより劣った感情(すなわち渇望、羨望、怒気)に関して禁欲を実践することが奨励された。

マルクス・アウレリウスの『自省録』のようなストア派の著作が時代を超えて多くのキリスト教徒によって高く評価された。ストア派のアパテイアという理想が今日正教会によって完全な倫理的状態として認められている。ミラノのアンブロシウスはストア哲学を自身の神学に適用したことで知られた。

自殺をめぐる解釈の違い 
自殺は人間の自由の最高の表現であるとするストア派に対して、キリスト教の考えでは、自殺は「形式的に」自由の表現であるにすぎず、「自由の存立基盤」自体が破壊されてしまうために「内容的にはもっとも不自由な行為」であるとされる。そして個人の肉体はあくまで「神に創られて存在する被造物」であるため、個人は自らの肉体を自由に破壊する権利を有していない、とされる。

近代の用法 
「ストイック」という言葉は一般に苦痛・歓喜・強欲・歓楽に無関心な人を指して使われる。「感情を抑え、我慢強く耐える人」という近代の用法は1579年に名詞の形で初めて見られ、1596年には形容詞の形で見られた。「エピクロス主義者」と対照的に、『スタンフォード哲学百科事典』のStoicismの項には「英語の形容詞stoicalがその哲学的起源に対して誤解をもたらすことはない」と述べられている。

ストア派の引用
ストア派の一般的な教説を示すような、著名なストア派哲学者からの引用を以下に示す:

エピクテトス:
「自由は人の欲求を満たすことではなく、欲求を除去することで得られる。」
「神はどこにいるのか? あなたの心の中に。悪はどこにあるのか? あなたの心の中に。どちらもないのはどこか? 心から独立なものの所である。」
「人間は物にかき乱されるのではなく物に対する自分の考えにかき乱されるのだ。」
「それゆえ、もし不幸な人がいたら彼に自分が自分自身の理由で不幸なのだと思い出させよう」
「私は私の長所に関して自然によって形成された: 私は欠点に関して形成されたわけではない。」
「自分自身以外の何物にも執着してはならない; 自分から引き離された後に苦痛しか残さないようなあなたにならないものに執着してはならない。」

マルクス・アウレリウス・アントニヌス:
「判断することをやめよ、『私は傷ついた』と考えるのをやめよ、あなたは傷自体を免れているのだ。」
「世界よ、あなたにとって正しいものはすべて私にとっても正しい。あなたにとって時宜に適っているものの内で私にとって早すぎたり遅すぎたりするものなどない。自然よ、あなたの季節がもたらすものは皆私にとって実りある。あなたから全てのものが生まれる、あなたの内に全てのものがある、あなたに向かって全てのものが還帰する。」
「あなたがあなたの前面で働いているなら、あなたが即座にそれを取り戻すことになっているかのように、正しい理性があなたを破壊するようなものはなくあなたの心的な部分は純粋に保ち、真面目に、活発に、静謐に引き続く; もしあなたがそれを保ち、何も期待せず、しかし自然に従った今の生活に満足し、あなたが口にする全ての言葉において英雄的真理を述べるなら、あなたは幸福に暮らせるだろう。そして何者之を妨害できない。」
「人生で起こること全てにいちいち驚くのはなんと馬鹿げていてなんと奇妙なことだろう!」
「外的なものが魂に触れることはない、たとえ最も僅少な程度においても; 魂に入る許可が与えられることもないし、魂を変化させたり動かしたりすることもない; しかし魂は自身を変化・移動させられるのだ。」
「あなた自身の強さは役目と同じではないのだから、人の力を超えていると思わないことだ; しかし全てが人の権能・職分であるなら、それがあなた自身の範囲にも含まれることを信じなさい。」「あるいはあなたを悩ませるものはあなたの名声なのか? しかし私たちがどれだけ早くものを忘れるかをみよ。間断なき奈落が記憶を全てのみこんでしまう。その間隙に拍手が送られる。」

ルキウス・アンナエウス・セネカ:
「問題は、どれだけ長く生きるかではなくどれだけ立派に生きるかである。」
「幸福が私たちにもたらさないものを彼女が私たちから取り去ることはできない。」
「自然に、彼女が望むままに彼女自身の問題を取り扱わせてみよう; 何があっても勇敢・快活でいよう。滅びゆくもののうち何ものも私たち自身のものではないことをよく考えておこう。」
「徳とは正しき理性に他ならない。」

ストア派哲学者 
以下が代表的人物である。なお、キケロはその著『宿命について』において見て取れるように宿命論に拠るところは全くなく、ストア派には含めないが、彼の思想は彼の師や彼の生きた時代から影響を受けてなおストア的である(なお、一般的には彼はアカデメイア学派に分類される)。彼の著作は彼自身の思想でないが、ストア派の思想を知る上で参考になる。

前期 
キティオンのゼノン (紀元前332年–紀元前262年)、ストア派及びアテナイのストア・ポイキレの創設者
キオスのアリストン、ゼノンの弟子;
カルタゴのヘリッロス
アッソスのクレアンテス (紀元前330年–紀元前232年)ストア・ポイキレの第二代学頭
ソロイのクリュシッポス (紀元前280年–紀元前204年)ストア・ポイキレの第三代学頭
バビロンのディオゲネス (紀元前230年–紀元前150年)
タルソスのアンティパトロス (紀元前210年–紀元前129年)

中期 
ロドスのパナイティオス (紀元前185年–紀元前109年)
アパメアのポセイドニオス (紀元前135年頃– 紀元前51年)
ストア派のディオドロス (紀元前120年頃– 紀元前59年)、キケロの師

後期 
マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス (紀元前94年–紀元前46年)
ルキウス・アンナエウス・セネカ (紀元前4年– 65年)
ガイウス・ムソニウス・ルフス
ルベッリウス・プラウトゥス
プブリウス・クロディウス・トラセア・パエトゥス
エピクテトス (55年–135年)
ヒエロクレス (2世紀)
マルクス・アウレリウス・アントニヌス (121年–180年)

[キルケゴール]…1813年5月5日 - 1855年11月11日
デンマークの哲学者、思想家。今日では一般に実存主義の創始者、またはその先駆けと評価されている。

キェルケゴールは当時とても影響力が強かったゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル及びヘーゲル学派の哲学あるいは青年ヘーゲル派、また(彼から見て)内容を伴わず形式ばかりにこだわる当時のデンマーク教会に対する痛烈な批判者であった。

彼の名字である「キェルケゴール/キルケゴール」は、現代デンマーク語でつづられ、「墓地(英語 churchyard,cemetery)」を意味する。しかしながら、この言葉はより広く教会に隣接する敷地「教会の庭(英語 church garden)」、さらに隣接の土地も意味する。「教会の庭」という名字になった理由は以下の「生涯」に深く関係している。

生涯 
セーレン・キェルケゴールはコペンハーゲンの富裕な商人の家庭に、父ミカエル・ペザーセン・キェルケゴール、母アーネ・セェーヤンスダッター・ルンの七人の子供の末っ子として生まれた。父親のミカエルは熱心なクリスチャンであった。ミカエルは神の怒りを買ったと思い込み、彼のどの子供もキリストが磔刑に処せられた34歳までしか生きられないと信じ込んでいたが、それは次の理由による。

元々、キェルケゴール家はユラン半島西部のセディングという村で教会の一部を借りて住んでいた貧しい農民であり、父のミカエルは幼いころ、その境遇を憂い、神を呪った。その後、ミカエルは首都コペンハーゲンにおいて、ビジネスで成功を収めた。ミカエルはこの成功こそが神を呪った代償であると信じていた。つまり、神を呪った罰が今の自分の世俗界での成功であると。もう一つの理由として、ミカエルがアーネと結婚する前に彼女を妊娠させたことであると考えられている。ミカエルは一度クリスティーネ・ニールスダッター・ロイエンという女性と結婚しているが、彼女は子供もできないうちに肺炎で死んでしまう。その直後に、ミカエルがアーネと暴力的な性的交渉を持ったと考えられている。

ミカエルはこれらが罰を必要とする(宗教的な意味合いでの)罪と考え、子供たちは若くして死ぬと思い込んだのだが、実際に七人の子供のうち、末っ子のセーレンと長男を除いた五人までが34歳までに亡くなっている。したがって、自分も34歳までに死ぬだろうと確信していた(セーレン・)キルケゴールは34歳の誕生日を迎えたとき、それを信じることができず、教会に自分の生年月日を確認しに行ったほどである。

1835年に父ミカエルの罪を知ったときのことをキルケゴール自ら「大地震」と呼んでいる。この事件ののち彼は放蕩生活を送ることになった。(「大地震」を1838年とする説もあり、その説ではもともと放蕩生活をしていたキルケゴールを、この事件が立ち直らせたとしている。)このように、父ミカエルのキリスト教への信仰心と彼自身の罪への恐れは、息子セーレンにも引き継がれ、彼の作品に多大な影響を与えている(特に、『おそれとおののき』においては顕著である)。

もう一つの、キェルケゴールの人生と作品に多大な影響力を及ぼしたものとしては、彼自らのレギーネ・オルセン(1823年 - 1904年)との婚約の破棄が挙げられるだろう。キェルケゴールは1840年に17歳のレギーネに求婚し、彼女はそれを受諾するのだが、その約一年後、彼は一方的に婚約を破棄している。この婚約破棄の理由については、研究の早い段階から重要な問題の一端を担っており(キェルケゴール自身、「この秘密を知るものは、私の全思想の鍵を得るものである」という台詞を自身の日記に綴っている)、初期の大作『あれか―これか』に収録されている大作『誘惑者の日記』や中期の『人生行路の諸段階』に収録されている『責めありや―責めなしや?』などは、レギーネにまつわる一連の事件との密接な関連が指摘されている。婚約破棄の原因について、真相は定かでない。今日の文献からは、キェルケゴール本人が呪われた生を自覚していたこと、うららかな乙女であったレギーネを「憂愁」の呪縛に引きずり込むまいとしたことなどを読み取ることができるが、性的身体的理由が原因となっていたのではないかと指摘する研究者もあり、真相はいまだ謎に包まれている。レギーネがキェルケゴールに婚約破棄の撤回を求める覚え書きをしたためたりなどしたため、彼は上記の著書などで意図してレギーネを自分から突き放そうと試みたりしている。

二人は、おそらくレギーネが1847年にフレゼリク・スレーゲル(1817年~1896年)と結婚したあとも愛し合っていたと考えられている。レギーネは夫にキェルケゴールの著作の購入を依頼したり、一緒にその著作を読んだりもしている。後年、1849年にレギーネの父が亡くなると、キェルケゴールはレギーネとの和解と友情の回復を求めた手紙を、夫フレゼリク宛ての手紙に同封して投函するが、その手紙は封をしたまま送り返されている。その後すぐに、シュレーゲル夫婦はフレゼリクが当時のデンマーク領西インド諸島の総督に任命されたため、デンマークを旅立っている。レギーネが戻るころには、キェルケゴールはすでに亡くなっていた。キェルケゴールはデンマーク教会の改革を求めた教会闘争最中に道ばたで倒れ、その後病院で亡くなった。

キェルケゴールは兄宛の手紙の形による遺言書の中で、レギーネを「私のものすべての相続人」に指定していた。レギーネは遺産の相続は断ったが遺稿の引き取りには応じ、かつて封をしたまま送り返された手紙もこのとき彼女の手に渡っている。レギーネ及び彼女の親友でキェルケゴールの姪に当たるヘンリエッテ・ルンらの努力によって、これらの遺稿は後世に伝えられることになる。

キェルケゴールの哲学 
キェルケゴールの哲学がそれまでの哲学者が求めてきたものと違い、また彼が実存主義の先駆けないし創始者と一般的に評価されているのも、彼が一般・抽象的な概念としての人間ではなく、彼自身をはじめとする個別・具体的な事実存在としての人間を哲学の対象としていることが根底にある。

「死に至る病とは絶望のことである」といい、現実世界でどのような可能性や理想を追求しようと<死>によってもたらされる絶望を回避できないと考え、そして神による救済の可能性のみが信じられるとした。これは従来のキリスト教の、信じることによって救われるという信仰とは異質であり、また世界や歴史全体を記述しようとしたヘーゲル哲学に対し、人間の生にはそれぞれ世界や歴史には還元できない固有の本質があるという見方を示したことが画期的であった。

ヘーゲルに抗して
哲学史的には、キェルケゴールの哲学を特徴づけているのは、当時のデンマークにおいても絶大な影響力を誇っていた✳ヘーゲル哲学との対立である。

ヘーゲルの学説においては、イマヌエル・カント以来の重要問題となっていた、純粋理性と実践理性、無限者と有限者、個々の人間と絶対真理の間の関係はどのようなものか、という問いが取り上げられる。ヘーゲルによれば、有限的存在は、まさにそれが有限であるがゆえに、現実の世界においてつねに自らの否定性の契機に直面するが、そのとき有限者はその否定性を弁証法的論理において止揚するという方法で、その否定性を克服し、より真理に近い存在として自らを高めていくことができるとされる。

これに対して、キェルケゴールにとっては、個々の有限的な人間存在が直面するさまざまな否定性、葛藤、矛盾は、ヘーゲル的な抽象論において解決されるものではない。そのような抽象的な議論は、歴史、現実における人間の活動の外側に立ってそれを記述するときにのみ有効なのであって、歴史の内部において自らの行く末を選択し決断しなければならない現実的な主体にとっては、それは意味をなさないものなのである。このような観点からキェルケゴールは、ヘーゲルの弁証法に対して、彼が逆説弁証法と呼ぶところのものを提示する。逆説弁証法とは、有限的主体が自らの否定性に直面したときに、それを抽象的観点から止揚するのではなく、その否定性、矛盾と向き合い、それを自らの実存的生において真摯に受け止め、対峙するための論理である。

キェルケゴールは自らの思想の特徴を具体的思考と呼び、これをヘーゲル的な抽象的思考に対置する。抽象的思考とは、そこにおいて個々の主体が消去されているような思考であるのに対し、具体的思考とは、主体が決定的であるような思考だとされる。

この延長において、キェルケゴールは「主体性は真理である」と定式化するが、逆説的なことに、彼は「主体性は非真理である」とも言う。ここにおいてキェルケゴールが意図しているのは、次のようなことである。すなわち、歴史的、現実的な選択の場面においては主体性以外に真理の源泉はありえない(主体性は真理である)が、このことは主体性がヘーゲル的な意味での絶対的真理の源泉であるということを意味しているのではなく、実際には、主体はつねに絶対的真理から隔てられている(主体性は非真理である)のである。

このように抗ヘーゲル性が強くあるにもかかわらず「キルケゴールはヘーゲルに服従している」とハイデッガーが『存在と時間』の第45節の注6で見ているのは なぜかと問うことで、ハイデガーと比べたキルケゴールの実存の固有性が露になる。

著述スタイルと日記(papirer) 
キェルケゴールは著述家として生涯を駆け、急逝するまでに多量の著作を残した。その著作は大きく「美的著作」と「宗教的著作」とに分類することができる。あるいは「美的著作」を「詩的著作」と「哲学的著作」に再分類し、計3つに区分することもできる。「美的著作」はもっぱら偽名によって書かれ、「宗教的著作」は実名で書かれている。このことは注目してよい事実である。

日本ではもっぱら『誘惑者の日記』のような「美的著作」、『死にいたる病』『哲学的断片』などの「哲学的著作」がキェルケゴールの主著として紹介される傾向にあり、『野の百合と空の鳥』などの「宗教的著作」(宗教家キェルケゴールとしての著作)はあまり顧みられない。しかしキェルケゴールの本意が「宗教的著作」に向かっていたことは、本人も言明している疑いない事実である。

今日の思想に影響を与えた、いわゆる「キェルケゴール」の思想は、「美的(哲学的)著作」に因るところが多い。そのため哲学史的にも「宗教的著作」の存在は比較的軽い。ただし、キェルケゴールの思想を理解しようとするならば、すべての著作活動は根本的に「宗教的著作」のために書かれたものであるという前提を欠くことはできない。言うなれば、キェルケゴールの一連の著作はすべて教化のために著されたものであり、「美的著作」の一切は教化のための序奏である。『不安の概念』や『おそれとおののき』といった哲学史上重要な著作も、あくまで仮名で書かれた著作であるということに注意されたい。

また、キェルケゴールは幼少の頃より日記を綴る習慣をもっており、急逝するまでの生涯にわたって日記を書き留め続けた。この『日記』が最近の研究においては著作物と同等(か、もしかしたらそれ以上)の価値をもつ文献資料として扱われることは少なくない。『日記』には、著作物に対する意図の表明やレギーネ・オルセンへに寄せる想いが綴られている。キェルケゴール本人は、いずれこの『日記』も白日の下に晒されるだろうと予測してか、日記の各所に面体を繕うような修正・抹消を施している。

『日記』はHong夫妻による英語版のほか、未來社から橋本淳による邦訳抜粋が刊行されている。

トリビア 
彼はコーヒーが好物だった。その飲み方は山盛り(角砂糖約30個分とも言われる)の砂糖にブラックコーヒーを掛けて溶かすというものだった。また、お気に入りのコーヒーカップを50個持っており、そのうち1つを秘書に選ばせてはそれを選んだ妥当な哲学的理由を述べさせた。

✳[ヘーゲル哲学] 
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770年8月27日 - 1831年11月14日)は、ドイツの哲学者である。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、フリードリヒ・シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。18世紀後半から19世紀初頭の時代を生き、領邦分立の状態からナポレオンの侵攻を受けてドイツ統一へと向かい始める転換期を歩んだ。

ヘーゲル哲学の基本概念
定有(ていゆう)・定在(ていざい)・定存在(ていそんざい)いずれも原語はDaseinで、「規定された存在、質をもつ存在」の意。ヘーゲル以外の哲学者の用語としては「現存在」と訳されるが、それは「現に目の前に現れている」というところに強調点があるからである。ヘーゲルでは「一定の具体的な実在物」のこと。たとえば「食塩」「酸素」「農民」「所有物」など。定有は質を身につけている。すなわち、他のものとの差異、性質上の限界、制限を自分の性質としてもっている。定有は、限界を身の周辺につけているだけではなくて、限界を自分の核心に体している。しかし限界という規定はその定有の否定である。ゆえに定有とは、自己の否定を自己の内に含む存在である。また、定有は本性の現れ、示現、権化、托身(たくしん)、受肉である。たとえば、私の所有物は私の所有権の定有である。国家は自由の定有である。

自己内反省(Reflexion in sich)
 他者・外部に向かっていた関係が反射し、折れ曲がって自分の内に返り、自己関係を成立させて、自己を独立・単独の自立した存在、すなわち対自存在(Frsichsein)とすること。意識の場合には、外部の対象に関係する態度から、志向・関心を内に向けて自己内に反省することで、外部対象にとらわれたあり方(対他存在)から、自立したあり方に転換する。物の場合、他の物との比較によって規定されたあり方から、内在的な性質を担う自立体としてとらえられるに至ること。

客観精神(objektiver Geist)
 かならずしも自覚されてはいないが、文化、制度、習慣のなかに実現されている精神。たとえば、盗みを否定する文化には、所有権という精神が実現されているが、「所有権の擁護は正義である」と自覚されているとは限らない。

市民社会(brgerliche Gesellschaft)
 自由な市場経済活動の営まれる分業化された社会を、家族からも国家からも明確に区別して術語化したのはヘーゲルの歴史的功績である。マルクスの場合には、同じことばが「ブルジョア社会」と訳され、歴史の一段階としてとらえられるが、ヘーゲルでは、あらゆる歴史社会の構造として「市民社会」が組み込まれている。分業は欲望を抽象化する。靴屋にとって靴は「使用すべきもの」ではない。交換を媒介としなければ欲望は現実化されない。しかし、交換は他人の所有権の相互承認の社会的な現実化であり、交換は権利・法という理念を生み出すので、一面で市民社会は国家の根底であるが、市民の自由な利益追求は国家の精神的な統合を破壊する。市民社会が家族とともに人倫性の契機として有機的全体に組み込まれなければならない。

契機(Moment)
 多面的な要素から構成される実在の一側面。たとえば「消費」は商品交換の契機である。消費という要素だけでは交換は成り立たないが、消費という契機なしにも交換は成り立たない。もともとは力学の「モーメント」の概念からとられた概念で、たとえば、梃子(てこ)やさお秤(ばかり)では、重力を支える力の分力がさおの長さで表現される。このとき実在の全体性に対して、契機の一面性・抽象性を「観念性」とよぶ。有限なもの、一面的なものの観念性を認識することが「観念論」の立場である。

正(せい)・反(はん)・合(ごう) (These, Antithese, Synthese)
 「正立・反立・総合」を略して「正・反・合」とよぶ。たとえば「存在・無・生成」において、生成は存在(正)と無(反)の対立を克服し、高め、その両契機を保存する、すなわち止揚する「合」の段階である。この概念は本来ヘーゲルのテキストには存在しないもので、フィヒテの概念をヘーゲル哲学の説明に援用したものにすぎないが、非常に多くの用語辞典ではヘーゲル自身が用いた概念であるかのように誤って伝えられている。〈正・反・合〉

止揚(しよう) (Aufheben)
 「揚棄(ようき)」とも訳される。否定・保存・高揚という三義を含む。ヘーゲルはこの三義を三位(さんみ)一体とみなし、弁証法の根本要素とした。〈止揚〉


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