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【刊行記念】『ビロードの耳あて イーディス・ウォートン綺譚集』収録作品解説

9月25日刊行の『ビロードの耳あて イーディス・ウォートン綺譚集』(イーディス・ウォートン著/中野善夫訳)の中野善夫さんによる各収録作品の解説を、刊行記念としてここに公開致します。
本解説は書籍巻末「訳者あとがき」にも収録されていますので、刊行後は読後の読解の一助に書籍にて再読いただければと存じます。

あとがきからは、以下の一文も引いておきましょう。

……(ウォートンには)いろいろな怪奇小説アンソロジーに収録されている傑作があるものの、何れも今では入手が難しい本がほとんどである。さらに、未訳の作品に優れた幽霊小説がまだいくつもある。そういう作品をまとめて一冊にすれば、ウォートンの幽霊小説をまた新たな読者に提供できるに違いないと思って準備を始めたところ、幻想でも怪奇でもない、変わった味わいの作品が多いと気づいて収録対象の範囲を広げることにして、このような作品集になった次第である。

中野さんの編まれた、ヴァラエティに富んだウォートンの綺譚集。ぜひお楽しみください。

それでは、各作品の解説です。

*     *     *

「満ち足りた人生」
 The Fullness of Life(Scribner's, 1893)[Collected Short Stories of Edith Wharton, Vol. 1]
 1893年にScribner’s Magazineに発表された後は短篇集に収録されることなく、単行本未収録作品として短篇全集に収められた。死後の世界で、不満ばかりだった結婚生活を過ごした夫のことを思い出す妻。ウォートンの結婚観が現れている作品と云うには、あまりにも満ち足りた結婚ではないだろうか。

「夜の勝利」
 The Triumph of Night(Scribner’s, 1914)[Xingu and Other Stories, 1916]
 主人公は社会的にあまり強い立場にはいない青年で、ちょっとした行き違いから裕福で社会的に高い身分の男の館に一晩泊まることになったときの恐怖の出来事を描く。男性しか登場しない作品である(名前だけ出てくる夫人は橇を送ってくれなかったので主人公が出会うことはない)。主人公は大富豪のラヴィントンの甥であるフランクに男同士の共感を抱くが、彼を救うことはできない。悪意と殺意に満ちた生霊が不気味である。Ghostsに収録された作品。

「鏡」
 The Looking Glass(Hearst’s International‒Cosmopolitan, 1935 (under the title“The Mirrors”))[The World Over, 1936]
『幻想と怪奇5』(新紀元社/2021年)に「姿見」(高澤真弓訳)という邦題の翻訳がある。引退したマッサージ師の老女が、一世代前の古いニューヨークの上流階級に属する人々を思い出しながら語る幽霊の出てこない幽霊物語。本書には、いくつか幽霊の出てこない幽霊物語を収録している。その独特な幽霊の味わいは格別である。

「ビロードの耳あて」
 Velvet Ear Pads[Here and Beyond, 1926]
 雑誌等に発表されずに短篇集に収録された。アメリカの偏屈な大学教授が転地療養で南フランスを訪れたとき、執筆に励もうと意気込んでいた列車内で訳の判らないことばかり喋り続ける女性にかかわったことから巻き込まれる不思議な事件の顚末である。ウォートンの短篇にときどき登場する女嫌いの知識人という類型的な男性登場人物の一人と云えよう。偏屈な大学教授とともに急展開に翻弄されたい作品。

「一瓶のペリエ」
 A Bottle of Perier(Saturday Evening Post, 1926)[Certain People, 1930]
 沙漠の城塞(の遺跡)に暮らして調査・研究をしているという知人を訪ねて行った男が体験する恐怖譚。おそらく収入の心配をする必要もない身分なのだろう。主人公が訪ねて行ったときにその招待主は不在で、召使いの男だけがいた。主人が戻るのを待つことにしたのだが、どうも様子がおかしい……何とも気持ちの悪い作品である。この作品を読んでから食事に出かけたときにペリエがあると必ず註文してしまうようになった。そして、ああペリエがあってよかったと安堵して口に含むのである。入荷が遅れていて今日は出せないと云われたことはまだない。この作品は最初Saturday Evening Postに掲載されたのだが、そのときのタイトルは「一瓶のエビアン」だった。どうして、エビアンがペリエになったのかは判らない。これも男性しか登場しない作品。Ghostsにも収録された。

「眼」
 The Eyes(Scribner’s, 1910)[Tales of Men and Ghosts, 1910]
 荒俣宏編『アメリカ怪談集』(河出文庫/1989年)に「邪眼」(奥田祐士訳)が、『イーサン・フローム』(荒地出版社/1995年)に「目」(宮本陽吉・小沢円・貝瀬知花訳)が収録されている。生活に余裕のある男たちが語り合う幽霊物語という設定で、その男たちの集まりを主宰するのは裕福で同性愛的指向の示唆される中年男性カルウィンで、女嫌いで知られているが昔はそうではなかったという話もある。カルウィンが語るのは、若い頃に勢いで結婚の約束をしてしまった後、敵意と憎悪に満ちた謎めいた眼を目撃して逃げ出すのだが……という意外な話だった。Ghostsに収録された作品。

「肖像画」
 The Portrait [The Greater Inclination, 1899]
 雑誌等に発表されずに短篇集に収録された。本書に収録されている、肖像画がテーマとなっている二篇のうちの一つ。人の本質を捉えて肖像画にする画家が、世間から失敗作だと評された作品を描いたときの真相を明かす。スキャンダラスな経歴を持ち、巨悪の存在だと云われながらカリスマ的な人気のあるヴァードという男の中に見出した本質を描けたのか……。

「ミス・メアリ・パスク」
 Miss Mary Pask(Pictorial Review, 1925)[Here and Beyond, 1926]
『MONKEY vol. 29』(2023年春)に「ミス・メアリ・パスク」(柴田元幸訳)が掲載された。古い知り合いの姉妹の妹に頼まれてブルターニュの海岸に独りでいる姉メアリ・パスクの住まいを訪れた語り手は、目的の相手に会った瞬間に彼女がすでに死んでいることを思い出す。目の前にいる存在に怯おびえながら話が進んでいく。Ghostsに収録された作品。

「ヴェネツィアの夜」
 A Venetian Night’s Entertainment(Scribner’s, 1903)[The Descent of Man and Other Stories, 1904]
 裕福な家庭で育ったアメリカ人青年が憧れのヴェネツィアにやって来て、実に奇妙な事件に巻き込まれたかの展開の末に提示される呆気ない結末。主人公とともに若い男性特有の無邪気な思い込みを抱いて話の流れに翻弄されれば楽しめるはず。

「旅」
 A Journey [The Greater Inclination, 1899]
 雑誌等に発表されることなく短篇集に収録された作品。確かな相手との結婚だったはずなのに、病気で弱っていく夫はすっかり変わってしまい、毎日世話をしてやらなければならない。鬱屈した日々を過ごしている妻が、転地療養から帰る列車の中で陥ってしまった恐怖が綴られている。その些か見当違いな行動はおかしいと同時に哀しくもある。

「あとになって」
 Afterward(Century Magazine, 1910)[Tales of Men and Ghosts, 1910]
 すぐれた幽霊物語で、これまでに何度も怪奇小説アンソロジー等に収録されてきたが、残念ながら今は入手の難しい本が多い。『世界女流作家全集 第五巻』(モダン日本社/1941年)所収の「後になって」(松村達雄訳)、『ロアルド・ダールの幽霊物語』(ハヤカワ・ミステリ文庫/1988年)所収の「あとにならないと」(乾信一郎訳)、『怪奇小説傑作集3』(創元推理文庫/1969年)所収の「あとになって」(橋本福夫訳)がある。あまり裕福でなかったが、運良くまとまった金が入ってくることになって仕事を辞め、イギリスの片田舎に幽霊の出そうな屋敷を求めて移り住んできたアメリカ人夫婦が主人公。どうしてそんな優雅な生活ができるようになったのかは作中で明らかになるのだが、その原因がきっかけで恐怖がもたらされることになる。無邪気に幽霊を求めてやってきたアメリカ人は地元の知人に、あとになって初めて幽霊だと知るのだと教えられ、一体どういうこと? などと暢気な質問をしているが、その意味をあとになって思い知らされることになる。Ghostsに収録された作品。

「動く指」
 The Moving Finger(Harper’s, 1901)[Crucial Instances, 1901]
 愛する妻に先立たれて、美しい肖像画だけが残された。その肖像画とともに生きている夫だったが、自分だけが歳をとり妻が若いままなのがどうしても納得できなかった。そこで男が試みたのは……というこの作品のタイトルの「動く指」が意味することが最初はよく判らなかったのだが、アガサ・クリスティーに同じく『動く指』という作品がある。もちろん、原題もこの作品と同じThe Moving Finger である。オマル・カイヤームの『ルバイヤート』をエドワード・フィッツジェラルドが英訳したものの「第五一歌」にこの言葉があって、そこから採られたという。フィッツジェラルド訳の英語版から日本語に訳された『ルバイヤート』としては、2005年に国書刊行会から刊行された矢野峰人訳『ルバイヤート集成』と2011年に七月堂から刊行された斎藤久訳『ルバイヤート』が比較的入手しやすいと思う。早速確認してみると、前者では「うごける指が書きしるし/書きてすすめば、如何ならむ/智慧も愁訴も一語だに/消し、あらためむ術やある。」、後者では「動く指が文字を書き記す。書き終へてしまへば、また次に進んで行く。汝がどんなに信仰が篤く、またどんなに智力を働かせてみても、その指を呼び戻して、半行たりとも抹消させるわけにはゆかぬだらうし、またどんなに泪を流して泣き喚いてみても、その一語たりとも洗ひ流すわけにもゆかぬだらう。」となっている。この動く指というのは神の指で、世界の出来事を書き記す書物に神がひとたび書いてしまったことは、つまり一度起こってしまったことはその瞬間に過去の出来事となり、決して取り消したり変更したりすることはできないのだという時の流れを意味していて、英語ではthe moving finger という言葉でそれなりに通じるようだ。

「惑わされて」
 Bewitched(Pictorial Review, 1925)[Here and Beyond, 1926]
 山内照子編『化けて出てやる 古今英米幽霊事情1』(新風舎/1998年)に薗田美和子訳「魅入られて」が収録されている。アメリカの片田舎に暮らす、まったく裕福ではない人々の話である。夫が昔の恋人の幽霊に取り憑かれたと云うと、その妻が夫を取り戻そうとする。夫に取り憑いた幽霊の正体を妻が知っていたとすると、それは幽霊よりもずっと怖い。結末の一言もまた。Ghostsに収録された作品。

「閉ざされたドア」
 The Bolted Door(Scribner’s, 1909)[Tales of Men and Ghosts, 1910]
 劇作家を目指すが才能のない男の告白は、金持ちの従兄を殺したというものだった。貧しく才能もない男から見た、裕福な階級に属する従兄へ向ける視線は憎しみと軽蔑に満ちている。何しろ従兄はメロンが生き甲斐なのだ。そんな従兄を殺したことを告白してもなかなか信じてもらえなかったのは、説得力のある文章を生み出せない才能のせいなのか。すべてがすっきり解明されないまま終わる結末に、読み終えた後も囚われたままになってしまうだろう。

「〈幼子らしさの谷〉と、その他の寓意画」
 The Valley of Childish Things and Other Emblems(Century, 1894)[Collected Short Stories of Edith Wharton, Vol. 1]
短い幻想的な寓話集。単行本未収録作品で、1968年の短篇全集に収められたのが単行本初収録だった。

*     *     *

『ビロードの耳あて イーディス・ウォートン綺譚集』
イーディス・ウォートン 著/中野善夫 訳
四六判・568 頁
定価5,280円(本体価格4,800円)



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