言葉は借り物 ー 娘の暴言についての考察

3歳の娘が最近暴言を吐く(笑)。

「別にシリアスな話じゃないですよ」という意味で「(笑)」を付けてみた。

今日はそんな娘の暴言をきっかけに考えてみたことを書きたいと思います。

娘の暴言

娘は保育園に0歳時クラスから通っている。友達もたくさんできて、本当に良い保育園に当たったなと、父としては思っている。

彼女は割合に言葉をおぼえるのが早い方であると思う。それは単純に嬉しい。小さいながらも親子でたくさん会話ができる。
だが、困ったことにおぼえてくるのはクリーンな言葉ばかりではない。

バカ!」とか「うるさい!」とか、そういうエッジの利いた言葉もたくさん友達から仕入れてくる。

うちは一人っ子なので、娘には兄弟/姉妹がいない。あと、うちは典型的な核家族だから、おばあちゃんやおじいちゃんも日常的にはいっしょにいない。
そうすると、必然的に暴言を吐きつける相手はママかパパになる。

ママやパパは日本の一般常識的には目上の人になるため、暴言を吐くとそれなりのインパクトになる。結果として娘は叱られる。
小さな娘は、まだ叱られたあとの対処の仕方がわからない。人間関係においてリカバリやメンテがいかに重要かわかってない。まだまだ軽んじている。これはしょうがないことである。周りの園児たちが全員そうなのだから。
で、娘はどうするかというと、基本、拗ねる。拗ねて黙り込むと、はっきりしない態度が余計にこちらを苛立たせて怒りを呼び込む。
こういうことが、まぁ、日常茶飯事的に起こる。

少し前までは、他人(娘)に言葉遣いの良し悪しを教えるなんて生まれてはじめてだったから戸惑った部分もあったが、今はもう「なるようになるでしょ」としか思っていない。本人の言語能力が高いなら尚のこと。身をもってトライアル&エラーでおぼえていくしかないよね、と思う。


言葉は全て借り物

もともと人間というのは言葉を知らない/話せない状態でこの世に誕生してくるはずだ。少なくとも自分はそうだったと思うし、うちの娘を3年半観察している限りはそのようである。

だから、我々が知っていると思っている言葉は全てそもそもが借り物なのである。

頭の中に言葉が何一つない状態ではコミニュケーションが成り立たない。なので、なんとかかんとか必死で相手の話を聞く。聞くと、音声と印象が紐付く。この紐付きでできたマッピングが頭の中にインストールされる。インストールされたプログラムの集合体が言語である。(文字や概念など、音声以外のものも然り。)
つまり既知の言葉は全て輸入品なのだ。輸入したものを加工したりしなかったりして輸出する → これが話す/書くということである。

言葉は頭に輸入されただけでは機能しない。インストールされなければならない。インストールとは定着である。言葉は使わないと根付かない。言葉と言葉、言葉と印象、言葉と記憶…など、複雑に絡まりあった関係性のネットワークが人間の頭の中には広がっている。その中に特定の言葉が深く定着するためには、どうしてもそれを実践的に使うしかない。
使う → 経験する → フィードバックを受け入れる、というプロセスを踏む必要があるのだ。

このことを人間は先天的にわかっているらしい。誰もこのプロセスの大切さとか理屈面の説明なんてしてくれない。でも、赤ちゃんの時点で遺伝子がそれを知っているみたい。赤ちゃんは自分の生存に必要な言葉からおぼえ、使い、理解していく。


暴言ほど吐きたいよね

さて、話を娘の暴言に戻す。

「バカ!」や「うるさい!」は、知ったらやっぱり言いたいよね、と思うのである。

こんな面白い言葉を外から仕入れてきて、「使うな」というのは非常に酷である。それは買ったばかりの新車に「乗るな」と言われるようなものである。僕は車には乗らないが、そのくらいのインパクトがある気がする。

パパとしての僕はこんな感じで、人間観察的に娘を観ている。なので、自分に対して暴言をぶん投げてくれるぶんには「お好きにどうぞ」という感じで接している。
発せられた暴言について、もう少し他のバリエーションがないか、言った場合と言わなかった場合の状況の違いについてはどうか、…などを(割と真剣に)3歳児と話し合っている。ただのディスカッションである。

それがやっぱり、相手がママであったり、先生であったり、たまに会うおじいちゃんおばあちゃんであったりすると、言葉が醸すインパクトは全然違ってくる。暴言好きの園児同士であっても、状況によってその言葉の響きは変わってくるだろう。娘にはそこに注目してほしいという親心がある。多様性を見よ、と伝えたい、いつか。

だから、暴言そのものがいけないものであるとか、暴言を吐くこと自体に野蛮性が宿っているとは思っていない。そういう「言葉のダークサイド」は、複数の事柄の間にある関係性の中で顕現するものだからだ。

むしろ今は「なにを言っても最終的には許してもらえる」という子供独自の特権をフル活用して、なんでも一度は言ってみたほうがいいとさえ思う。
どんな言葉も、外にアウトプットしてみないと、そのアウトカム(結果、作用、効果)がわからないからだ。そして、アウトカムの多様性を知っていることが言語ネットワーク全体に重要なフィードバックを与える。それが成長のために欠かせないイベントループである。


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ー 最後に緩募 ー

今日は珍しく育児ネタで書いてみました。

それで思い出したのが、少し前に企画のアイデア出しだけして放置してるこちら↓

カップル/結婚/出産/子育て…というそれぞれのステージにいる当事者たちがひとつの場所に集まって意見交換したら面白いんじゃないか? という趣旨のものです。

自分自身、このテーマで話せることはいろいろあるなぁとも思うし、先輩たちの経験談も聞いてみたいと思ってます。

でもちょっと今イベントをハンドリングできるリソースが足りない…という問題が。

というわけで、企画の内容はこのまま参考にしてもらっていいし、会場になる場所の用意などもご協力できると思うので、この企画をいっしょに進めたい/手伝いたい、という方がいらっしゃいましたら是非ご連絡ください!

また、僕のアンテナが明後日の方向を向いているだけで、既にこういったイベントはたくさんあるんだと思います。結婚や育児の方面の情報に詳しい方、おすすめのイベント情報があれば教えて下さい!

よろしくお願いします。



SN

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