悪漢⑬

 Sテックの製品製作責任者がそんなありもしない疑心暗鬼に取り憑かれたのは、この会談が最終的に3時間越えのロングランに至ったからであります。
 彼は“正義は我に有り”と思っていますし、データから見てAさんを問い詰め陥落させるのはいとも容易い、と信じて疑わなかった。
 ところが蓋を開けてみると、Aさんはノラリクラリ、どれだけ問い詰めようが“柳に風”と受け流すわ、そうなるとこちらに(Sテック側)それ以上詰め寄るだけの決め手を欠いてしまっている。
 所謂“ドヤ顔”はしていないまでも、Aさんの会談開始当初から変わらぬ表情や態度から『この余裕は何処から来るんだ?』との疑念が生まれ、時間と共に『何かこの状況をひっくり返す“奥の手”を隠し持っているのに違いない』との幻想へと育ってしまった。
 まぁ、まさかAさんが最初から“ごめんなさい”するに足る軽いペナルティを模索している事など知る由もありませんからね。

 疲労困憊した製品製作責任者氏はありもしない疑心暗鬼に取り憑かれた末に、問題の製品を当初取り決め額の60%……すなわち4割引でSテックが買い取る事を提案するに至ります。
 本来、製作図面の数値を大きくはみ出している製品なのですから、Sテックが買い取る義理などありません。データ改竄が有ろうが無かろうがね。
 しかし、それはこうした“事故製品”の理由にはならないとしても、Sテック側からの製品図面の提出が遅れたにもかかわらず製造を酷く急かした、という“落ち度”はある訳で、それを突かれてこれ以上の被害を被るよりはこの辺で“手打ち”とするのが得策と判断せざるを得なかった訳です。

 この方とて、世間から一流と称される大学を出て世界的家電メーカーで有能な現場マネージャーとして辣腕を振るい、新設の系列子会社の実務を任されたプライドは持っております。交渉事にも長けている、そんな自負もあった。
 しかし目の前のこの男(Aさん)の交渉術というか得体の知れなさは、彼のそれを軽く凌駕している。
 聞けば業界経験は3ヶ月程度。だが、いくらちっぽけな工場とはいえ、製品検査から管理業務全般をこなし、契約交渉にも加わって来るという。
 本能的に『この男とは手を組んでおいた方が良い』と感じた。

 Aさんから交渉結果を聞いた工場長は目を丸くしました。
 良くて、製品の買い取り無しプラス送り返しの送料をこちら持ち、位のペナルティはやむを得ないと覚悟しておりましてね。
 それが4割引とは言え買い値がついた揚げ句送料まで先方がもってくれる。
 「アンタ、いったいどうやったんだい?」
 「いえ別に何も言ってません。ただ向こうさんの話を聞いていただけですよ。まぁ、いずれにせよ“事故製品”扱いではあるので始末書的な書類を十数ページ書かなきゃいけないらしいですが、それくらいいくらでも書きますってなモンですわ!」
 Aさんはニヤリと笑ったんであります。

 「みんな、交渉事で勝つとなると100勝とうとするんですけど、私は51対49でも勝ちは勝ちだと思うんです。
 ただ、その51の中に絶対譲れないポイントだけを押さえておけば、それで良い。更に49の妥協の中に相手にとっては譲れないポイントだがこちらにとっては痛くも痒くもないものが入っているなら、向こうは喜んで次もガードがら空きで来てくれるんですから」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?