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第18回ケア塾茶山 『星の王子さま』を読む(2019年2月13日)

※使用しているテキストは以下の通り。なお本文中に引用されたテキスト、イラストも基本的に本書に依る。
      アントワーヌ・ド・サン=グジュペリ(稲垣直樹訳)
      『星の王子さま』(平凡社ライブラリー、2006年)

※進行役:西川勝(臨床哲学プレイヤー)
※企画:長見有人(ココペリ121代表) 

***


マスクの話(新型コロナ感染症以前)

西川:
 僕はテレビも新聞も見ないから知らないけど、インフルエンザとか、ものすごい流行ってるらしいね。それで東京行ったら、みんなマスクかけてる。気持ち悪くて。それでエッセイに書いたら、あなたは世の中の事知らんからって人にいわれました(笑)

B:確かにね、通勤電車なんかはみんなかけてる。

西川:今それが常識になってるの?

B:マスクは便利ですもん。寒くないし、あんまり表情も読み取られないし、安いし。

西川:気持ち悪いですよ。代々木のオリンピックの跡地かなんか知らんけど、青少年センターという所に泊まって、ちょっと早かったから日曜日に散歩したんです。あんな所用事があって来てるんじゃなくて、たぶんみんな元気だから来てるんですよ。それなのに全員マスクかけてる。

B:東京の方が多いかもしれんね。

西川:それで、おかしいなと思って数え始めたら、47人連続マスク!ようやく一人マスクかけてないが人いると思ったら、また次もマスク!もう数えるの嫌になるくらい。それもお互いペチャクチャ喋ってるねんで、4,5人並んで。もう意味がわからん。

C:皆がマスク着け始めたのっていつからでしたっけ。そんなに新しい文化ではないような。

西川:咳エチケット、要は咳する人は他人にウイルスを飛ばさんように咳しましょう、というのはまだわかるんです。でも、予防のためにマスクをするというのがね。

C:もらうのが嫌っていうイメージなのかも。

B:そんなん違うと思うんですよ。多分きっとぜったい安心感。顔半分見られへん。

D:それもあるみたいですね。

西川:ファッション?

B:ファッションというか体の一部みたいな。

C:安心感ですよね。

西川:それが意味が分からん。

C:でもなんか病気というか、ちゃんと病名みたいなのがあるみたいですよ、マスク依存症じゃないですけど、そんな感じの。

B:病院では絶対マスクしろって言われますよね。一歩入った所から出るまで。

西川:それはどっちの方?感染用?

B:感染予防でしょうね。院内感染予防。

西川:マスクによって感染が予防できるかどうかは結構疑わしい所がありますよね。やろうと思ったら本当に紐のところ以外触ったらあかんねんもん。

D:外す時も紐持って外して着けてですよね。

西川:外してこっち側にやってポイと捨てないといけません。でもそんなことやっている人いませんよね。

D:昨日見舞いに行った病院は目の部分も透明のゴーグルみたいなのがくっついてるマスクでしたけどね。

C:いわゆるそのバイオハザードっていうんですか、完全に、

西川:
 要するに感染症が流行ってるからということでしょうけど。でも要するに病気になるということが全部自分の外側にあるっていう考え方ですよね。免疫力も何も考えてないわけよ。全部敵は外にある。完璧な排除の論理です。

 昔だったらマスクかけてる人見たら、どうしたの?具合悪いの?ってマスクかけてる人に周りがちょっと心配げな声をかけるのが普通やったのに、今マスクしてる人は咳してる人をキッと睨みつける。

参加者一同:そうそうそうそう。

西川:
 逆転してるんです。マスクかけると病気なんよって、ちょっと辛いのよ、っていう印で、それで周りが心配してたのが、今はマスクかけてたら病人に近づくなって言ってるような。それこそ本当に人を病原体のように扱う。そこらへんがね、こんなんでいいのかなと思います。

 風邪を引いても休めない人に薬が出てたりするのも意味が分かりませんね。養生というか自分の健康というものを守るための理屈が間違えてるんじゃないでしょうか?自分は本来正常で、美しい汚れなきものであって、汚れはみんな外にある。それからできるだけ距離をとったりとか、遮断するとか。そのために自分の顔を見えなくする。人に顔を見せないで平気で街を歩くというのに何も罪悪感も感じない。
 人間として、なんかおかしくなってるんちゃう?って思います。東京では当たり前のように、そういう人が大群でおるわけです。それも健康的な休日の代々木公園のあたりで。俺もうこれは東京お終いだなと思いました。やっぱり大阪帰って来るとそれほど、、やっぱり北とかは結構多いけど、釜ヶ崎ではマスクしてる人はほとんどいない(笑)。

 どう言ったらいいでしょうか。マスクかけないからインフルエンザに感染したということはないと思いますけどね。それよりも不摂生な生活改めたりとか、体の調子が悪い時はちゃんとゆっくり休むとかさ。そう言う真っ当な養生法をまず第一にするべきで、仕事ちょっとしんどくても無理やり薬飲んでマスクかけて出かけて行くって、もう意味が分かりません。

西川:『二十歳の原点』を書いた高野悦子[*1]のことわかります?めちゃくちゃ昔に流行った人ですけど。

B:ああ懐かしい。鉄道自殺した人でしょ?

西川:全学連の時代に、学生運動に入ろうかどうしようか、という青春の悩みなんです。彼女は常に伊達眼鏡をかけてた。で、京都のシアンクレール[*2]と言う喫茶店で本を読む。それが日記にずっと書かれてるわけです。

[*1]『二十歳の原点』、高野悦子:高野悦子(たかの えつこ、1949年1月2日 - 1969年6月24日)は20歳で自殺した日本の大学生。遺著『二十歳の原点』(にじゅっさいのげんてん)で知られる。『二十歳の原点』は、1971年に新潮社から発行された高野悦子による日記。およびそれを原作とした映画。2009年4月にカンゼンから「新装版」が発行された。

[*2]シアンクレール:シアンクレールは、京都市上京区河原町通荒神口角荒神町にあったジャズ喫茶

C:その感覚すごく近いような気はしますね。自分ではない、なんて言うんですかね、何者でもないような自分の安心感というのはなんか、あるのかな。

B:うちの息子も一日中マスクしてますよ。家の中以外は。

C:
 あんまり関係ない話かもしれないですけど、ずいぶん前に東京から来た、あんまり面識なかった人と話す機会がありました。で、その東京の子がいうにはオウムのサリン事件があってからおかしな事してる人とか、宗教でもそうですけど、聞いた事ない宗教やってる人がすごく怖いと。

 みんな分からないことしてる人が怖いから、みんながみんな犯人探してる。そういうのが今の時代に蔓延してるんじゃないかな、と言ってました。

西川:
 分からない事に対する耐性、我慢はすごく落ちてるように思いますね。だからステレオタイプな理解でごまかす。特に昔やったら精神障害とかに対して分からんというのがあったんやけど、分かりやすい言説でステレオタイプに全部理解しちゃうみたいなところがあります。認知症にしてもそうやけど。そこから外れる認知症とか、そこから外れる統合失調症とかになるといきなりもう訳分からなくなってくる。たくさんの人たちの賛同を得れる価値観のみが力を持つというか…

C:最近は特にそんな気がしますね。

西川:インターネットの検索回数じゃないけど、多数派の論理ばっかりになってしまう。そういう意味で、グローバリゼーションというは数の力がものすごく力を持ちますね。一つ一つの個々の意見の内容とかがつぶれてしまう。屁理屈扱いされる。

D:マスクもね、予防というよりみんながしてる中で一人だけしてなくて、でそこで発生したらお前が犯人だみたいになるじゃないですか。わかりやすくなるんでお前から感染したとかいわれる。それは怖いからやっぱり。

西川:圧倒的に同調圧力の下に生きてる。嫌だね。


不可能ウォーキング

西川:
 ソロー[*3]の『ウォーキング』の話をチラッとやったんです。ソローは『森の生活』が有名なんですけど、一日4〜5時間は歩かな気済まへん、ってなことを書いてます。ちなみに『ウォーキング』は講演の文字起こし原稿です。

 彼曰く、「歩く」というのは道ではないそうです。道は商品を乗せて町から町へ行き来する商人だとか荷馬車とかが行き交う所で、ああいうところを行くのは「歩く」とは言わない。道なきところを歩くことを彼は「歩く」と言うんですよ。でも今それ不可能ですよね。

[*3]ソロー:ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau、1817年7月12日 - 1862年5月6日)は、アメリカ合衆国の作家・思想家・詩人・博物学者。・『ウォーキング』/大西直樹訳、春風社、2005年出版。・『森の生活』/佐渡谷重信訳『森の生活 ウォールデン』 講談社学術文庫 1991年、飯田実訳『森の生活 ウォールデン』(上下)、岩波文庫、1995年 / ワイド版、2001年、酒本雅之訳『ウォールデン』 ちくま学芸文庫、2000年など。

C:まあかなり難しいか。山でも道ありますからね。獣道を行くしかないか。

西川:
 いや、登山しても何しても絶対不可能なんです。いわゆる公道というか、歩いていいとされているところのちょっと脇それたら、ここは国有地で立ち入り禁止とか、ここは私有地で立ち入り禁止とか。

 ソローはアメリカの独立戦争の後しばらくして何十年か後ぐらいに生まれてる人だから、まだそれほど私有地がバーっと広がっているわけではないけど。やっぱりどんどん柵がつけられて土地の所有がはじまっていきます。沼地であろうと誰かの所有物になっていく。彼は測量をやっていたので、そこを分かってて歩き回ってたわけです。当時それほど管理社会でもなかったから、「歩く」ことができたんでしょう。

 道から外れるって今は不可能です。自然の場所がない。すべて誰かの所有地です。不法侵入になる。言ってみたら、許されているのは歩道だけ。猫よりも犬よりも不自由かもしれません。

D:そうかもなあ。

西川:
 おまけに交通機関使ったらさらに自由度は減ります。あれは単なる移送です。移送されてるだけ。本当に東京行くのでも新幹線の中に閉じ込められて、指一本窓から外に出すこともできないんですよ。走る棺桶だとか思ったりしますよ。

C:新幹線は車内販売もありますからね。勘違いしちゃいますよね。移送って言われたらそうか。

西川:あれは移送なんです。新幹線でもバスでも、とにかく箱の中に入れられて、みんなと同じ線路の上やねんで!

B:そんな事考えたことない(笑)

西川:1ミリたりとも違う所を走っていない。

D:自動車の利便性も発揮できるのは既存の道がある前提なんですよね。そうじゃないと車買っても全然便利にならない。舗装された道があってそれが日本中整備されてるからみんな車買ってる。

西川:
 鷲田先生が『濃霧の中の方向感覚』という本書かれてるんですけど、心理とは方向感覚だと。フランス語で「センス」というのには「方向」という意味もあるらしい。ということはね、センスがある人は自分で行くべき方向を決められなくてはいかない。なのにもう僕たち決めることができない。決められたとこしか行かれへん。センスがない。

 下手したら、便利とか早いとか効率性に基づいた判断をしたら、それこそ本当に他の人達と全然変わらない移送の手段に乗っかるしかないわけです。そういうの考えてたらもうゾッとしてくるよね。できるだけ散歩というか紆余曲折のね。それにしたってまだ都会の中だったらたかが知れてます。迷路実験されてるネズミみたいなもんです。

C:西川先生は無人島に行きたいとかそういう願望はあるんですか?そういう話ではないかもしれないですけど。

西川:僕もともとアウトドアの人間ではなかったんですけど、授業で四国遍路に行くようになってから徐々に家の外を出歩くようになりました。だから、今、河内長野に住んでいるので不便になってるはずなんですけど、ある意味、気分はよいんです。

C:開放感がちょっとある感じ。

西川:
 うん、少しあります。たとえば、金胎寺山[*4]、富田林で一番高い山で296.1メートルなんです。観光地になってないから人はいませんね。そこに昨日登りに行ったんです。道は決まってるんですけど、楽しいですね。

なんか良かったですよ。立ち止まることも自由だし、へたり込むこともできるわけです。東京駅でへたり込んだら警備員が飛んできます。都会では立ち止まることすら難しいわけです。おかしいですよね。

[*4] 金胎寺山:こんたいじさん。富田林市の最高峰。別名城山。

C:僕もこの前嫁と子供が実家に帰って、久しぶりに一人になったんですけど、何もしないというのがすごく難しくなってました。急になんか手持ち無沙汰で。確かにその時は何もしない、って決めてただ座りながら本読んだり、ただ座ってるだけやったんですけど。最終的にはすごく充実した気持ちになりました。何もしないっていうのもなかなか難しい。

西川:
 そうだよね。「しない」という形でしか自分の自由意志を表現できないということです。動いたら必ず世間にあるレールの上に乗らざるを得ない。どこか行こうと思ったら自分の行きたいようには行くことはできないですよ。

 電車に乗るとか、道路を歩くとか、どっちにしてもみんな法律的に許された方法でしかできない。これって生きることが自由からかけ離れているというか。ずっとそうだったわけですけどねえ。当たり前だと思ってたけど、本当は当たり前じゃないんでしょうね。

C:江戸時代とかの小説読んだりした時に、当時はどんな感じだったんだろうってすごく思うんですよ。あのぐらいの時代って。刀持って歩いてる人たちが当たり前のようにいて。100年ちょっと前ですけど、今と比べたら全然感覚が違うでしょうね。

西川:
 切り包丁持って歩いてる奴がゾロゾロしているんですからね。メキシコ行った時に警察が自動小銃持ってましたねぇ。ほんでからかわれるんです。「チャイニーズ!」とか。やっぱり怖い。ゾッとしますね。

 あそこはマフィアの関係もあってけっこう血生臭い事件がしょっちゅうあるらしく、だから「危ないんだよ!」って一緒に行った池田光穂さんからえらい脅かされました。「西川さんこの辺ちょろちょろしたらあかん!」って。

 一日だけ一人きりになった時があって。メキシコシティだったかな、歩いてたらデモにちょうど遭遇してしました。危ないから逃げようと思うけど、逃げられへんねん(笑)。ずっとついて駅まで行ってしまった。若い頃、実際に機動隊に囲まれてデモをした事もありますけど、そんな半端じゃないんです。僕らなんてせいぜい放水銃と、「逮捕!」って言われるだけだったけど、彼らは自動小銃持ってる奴らの中でデモやってるわけですから。

C:すごく根性いりますね。

西川:ちがうよな。

C:トルコ行った時も警備員がやっぱり持ってるんで、あ、この距離やったら当たるな、っていう怖さがすごくありますね。銃も怖いです。人を殺す道具はその人の気持ち次第では殺されるっていう可能性が孕んでるんで気味悪いですね。


朗読する


西川:
 はい。今日は107ページからです。もう半分くらいきました。音読をここでは僕が主にやってるんですけどね。この本は前の嫁さんのところにあったんです。こないだ子供の誕生日に行って。チラチラ見てたら『星の王子さま』のことが出てました。

 『朗読 声の贈り物 日本語をもっと楽しむために』松丸春生著、平凡社新書で、2001年に出てますね。ミニCDもついてました。朗読についてけっこうね色々書いてあって、『星の王子さま』については、第2部の第5章からになります。

 本を読んでいて、どうにもイメージすることのできない表現にぶつかることがあります。そんなとき、 ーーああ、これでは朗読できないな。と思います。 話を具体的にするために、以下、すべて内藤濯訳『星の王子さま』(岩波少年文庫)から例を引くことにします。「7」の章に、王子のこういうせりふがあります。 「僕の知ってるある星に、赤黒っていう先生がいてね、その先生、花のにおいなんか、吸ったこともないし、星をながめたこともない。(中略)そりゃ、ひとじゃなくて、キノコなんだ」 この「赤黒っていう先生」のイメージが、悲しいかな浮かびません。自分の内面に像が結ばないのに平然と朗読して、聞き手に想像させようとするのは、絶対にいけないことだと思います。 ここは、仏文と英文に当たってみたら、「赤ら顔の男の人(紳士)」と書かれてありました。これならイメージできますし、想像してもらうのもかんたんです。しかし、このあと、「そりゃ、ひとじゃなくて、キノコなんだ」とつづくと、また訳が分からなくなります。その人がキノコなのか、比喩としてキノコと言っているのか、この訳文でははっきりしないからです。(おそらく隠喩なのでしょう)。 想像できるかできないか、ーーこれは極めて大切な尺度です。翻訳にとっても、朗読にとっても。

 まあこれ内藤濯の訳について文句ばっかり言ってるんですけど(笑)。例えば、「ね……ヒツジの絵をかいて!」が「私にとっては、文字の奥の〈声〉の聞き取れないせりふ」ですとあります。 

・そっと遠慮がちに声をかける……「ね」
 「ね…ヒツジの絵をかいて」

・強制的なニュアンスをもった……「ね」
 「ねえ!ヒツジの絵をかいて」

・不満げな表情を持った……「ね」
 「ねぇ?ヒツジの絵をかいて」

・念を押している感じの……「ね」
 「ねっ、ヒツジの絵をかいて」

 などなど、いくらでも考えられます。これらのうちのどれであるかを決める根拠がどこにもないので、文字の向こうから〈声〉が聞こえてこない、というわけです。

 次に、「かいて!」のところですが、「!」は付いているものの、省略形のためいくらでも考えられる。
 
・書いて(ったら)! 
・書いて(ください)! 
・書いて(欲しいんだけど)! 
・書いて(くれたまえ)! 
・書いて(よう)!

 どのニュアンスかを決める手がかりがないのです。やむを得ず、原文に当たってみたら、フランス語版では「S’il vous plaît」、英語版(仏語からの英訳)では「If you please」、新しい訳では単に「Please」となっていました。訳文からでは分かりませんが、「ね」と「かいて!」には、「お願い(します)」のニュアンスがあるということです。

 という感じで、サン=テグジュペリの『星の王子さま』を朗読しようと思ってもなかなか朗読しがたい。悪い翻訳や、と言ってるわけですけど。別にそこはいいやと思ってるんです。

 僕も以前、大谷大学で学生に朗読させたんです。それで大体、相手がどれぐらい理解してるかというのは、おおよそ分かるんですよ。でも自分の朗読も自分の理解を表現しているはずなんですね。それを考えると恐ろしくなってきて。

 例えば今日のところもぜひ皆さんでいっぺん読んでみたらいいと思うわけですが、松丸さんの本に次のようにあります。

 話す、とは、相手の心や頭脳に、必要な濃淡をつけて、声で書く(描く)こと。

 聞く、とは、声の表情や、声の情報量を、過不足なく読むこと。

 「聞く」のは情報量を読み解くこと。鷲田先生は「声のきめ」と言ってるんですけど、「きめ」ってtexture(テクスチャー)ですから、やっぱりテキストを読むというのとほぼ繋がってくるわけです。「聞く」というのもそういう「声を読む」ということなんだと。

 谷崎潤一郎に『文章読本』[*5]って有名な本あります。こんなこと言ってるところがあるんです。例えば、普通読書というのは黙読ではないそうです。黙読は近代になってからでてきた読書のスタイルであって、本来は音読っていうか、それも人に聞かせるための音読だったと。

[*5] 『文章読本』(ぶんしょうどくほん):谷崎潤一郎が読者向けに文章の書き方、読み方を分かりやすく記した文章講座の随筆集。

 絵巻物には、読んでる人がいてその周りでみんな聴き入っているような絵がいっぱいあります。だって文字を知ってる人はごくわずかであったわけですから。

 人に聞かせるために読むっていうことのほうが圧倒的だったはずです。我々も小学校のうちは朗読というか本読みさせられるんですけど、高学年になるにしたがってそういうことはなくなって黙読だけですましてしまう。でも本当に黙読ってあるんやろうか、というようなところから谷崎潤一郎がこんな風に言うわけです。

 西洋、ことに仏蘭西(フランス)あたりでは、詩や小説の朗読法が大いに研究されていまして、しばしば各種の朗読会が催される、そうして古典ばかりでなく、現代の作家のものも常に試みられると云うことでありますが、かくてこそ文章の健全なる発達を期することができますので、彼の国の文芸の盛んなのも偶然ではありません。それに反して、我が国においては現に朗読法と云うものがなく、またそれを研究している人を聞いたことがない。(中略)国漢文の先生たちはひと通りそのほうの技能を備えておられるようにしたい。私が何故これを力説するかと申しますのに、たとい音読の習慣がすたれかけた今日においても、全然声と云うものを想像しないで読むことは出来ない。人々は心の中で声を出し、そうしてその声を心の耳に聴きながら読む。黙読とは云うものの、結局は音読しているのである。既に音読している以上は、何かしら抑揚頓挫[*6]やアクセントを附けて読みます。然るに朗読法と云うものが一般に研究されていませんから、その抑揚頓挫やアクセントの附け方は各人各様、まちまちであります。それではせっかくリズムに苦心して作った文章も、間違った節で読まれると云う恐れがあるので、私のように小説を職業とする者には、取り分け重大な問題であります。

[*6] 抑揚頓挫(よくようとんざ):調子が高低して起伏があり、途中で停滞、転折して調和のとれていること。 また、盛んな勢いが途中でくじけること。

 サン=テグジュペリは『星の王子さま』をディクタフォンで綴っています。自分のメモ書きの原稿なんかを用意しながら声に出してディクタフォン、今でいうテープレコーターに入れる。それを秘書がタイプして、そのタイプをまた校正して、またディクタフォンに入れる。だから常に彼は声に出して『星の王子さま』を書き続けて来たわけです。

 内藤濯さんも、ここではボロクソに言われてますけど、あとがきのところで、「これはぜひとも声に出して読んでもらいたい。だから声に出して読めるように私は訳した」と書いてるわけですよね。 

 さて、さっきの「ね……ヒツジの絵かいて!」という、この本(稲垣直樹訳)やとどうなってるかな?

 「すみません……。ヒツジの絵、かいてよ……」 

 これを例えばどんなふうに読むのかいいですかねぇ。「すみません」を、「かいてよ」をどう読むか。「かいてよ!」って命令のように言うのか、哀願するように「かいてよう」と言うのか。全然違うわけです。

 だから僕たちは黙読してても何らかのイントネーションとか付けて必ず読んでいるはずです。そういうふうに読んだ読み方、黙読していた時に自分の心の中、頭の中で鳴り響いた声で僕たちは理解しているんです。だからその声が作者の意図と全く違っていたら、全然違うように読んでるという恐れがあるんですよ。

 文字を読んでいても全然違ったものを読んでしまっているかもしれない。「ね」っていうのを「かいてよ、ねえかいてよ」とするのか。「すみません」ていうのも、これどんなふうに言うのか。本当に申し訳なさそうに言うのか、それとも「すみませーん」って店に入るような時に言うような言い方で言うのか。それとも、もうちょっと礼儀正しく「すみません」って言うのか、全部違うわけです。

 この時の王子ならば一体どういうふうに言ったんだろうと考えて声にするためには、この文字情報だけでは分からない。文字の連なりの奥にある声を聞かなきゃいけないというのはそういう事なんです。作者がどんな声でこの物語を書いているのか。そこにまで想像力を豊かにしないと読めないということなんですよね。

 というわけで、朗読というものをもう少し研ぎ澄ますというか練習することもすごい大事かな、と思ったんです。『走れメロス』とか、新美南吉[*7]の『でんでんむしのかなしみ』とか。

[*7]新美南吉:にいみ なんきち(1913年7月30日 - 1943年3月22日)は、日本の児童文学作家。愛知県半田市出身。雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人。『でんでんむしのかなしみ』は1935年(昭和10年)に発表された。

 例えば映画『タイタニック』。ディカプリオが出ているやつ。ちょうど最後の別れ際っていうか、冷たい海の中で最後にする会話。ジャックとローズの会話ですね。「愛してるわ、ジャック」「やめろ、別れなんか言うのはまだ早い。わかったな。」と言うのがありますけど、これの吹き替えが全く本物の演技してる人の声と違うって話がありますね。

 「愛してるわ、ジャック」って言ってるのに、「やめろ、別れなんか言うのはまだ早い。わかったな。」と返していることになっている。「愛してるわ、ジャック」は「I love you,Jack.」です。

 ジャックには「別れ」の言葉に聞こえたわけです。ローズが「別れ」のつもりで言ったかどうかは、このセリフのどこにも書かれてありません。書いてあるのは、脚本家や演出家の心づもりの中に、だと思います。ローズ役の女優ケイト・ウィンスレットは、演出されてのことでしょうが、文末の「ジャック」の「ック」のところに、別れのニュアンスをみごとにただよわせています。せつなくなるほどのひびきです。

 ジャック(レオナルド・ディカプリオ)は、それが読めたからこそ、しばしの「間」の後、「やめろ、別れなんか言うのは、まだ早い。」(Don’t  do that. Don’t you say your good-byes. Not yet.)

 ここの一組の会話は千金の、いや、万金の重みのある会話だと思います。

 それが吹き替えでは全然そんなふうになってないっていわれてます。本当に、下手をすると、ただ文字にあるものを音(おん)として読んだら、やっぱりそれはまるで意味を取り違えてしまう可能性がある、ということです。

 『星の王子さま』をどう理解するのか。それをこの勉強会では一生懸命やっています。それも主に文字に書かれてある事柄の意味内容から色々僕は話しているわけです。それよりもその意味内容の奥の声みたいなものをきちんと聞いて、それを尚且つ、自分の中にもう一度身体化して外に出せるか。

 外に出した時に初めて分かることってあると思うんですよ。たとえば、「さようならとかなしげにいいました」という部分。さようならを悲しげに言ったんです。それが分かっても、「さようなら」を悲しい気持ちでというけれど、その「悲しい」もどういうことなのか。

 自分が悪かったからこの人とさようなら言わなければいけない、みたいな自責の念のこもったような悲しみなのか。どちらも悪くないけどそういう運命が自分たちの間を引き裂いてしまうんだ、ということの悲しみを抱いているのか。相手に裏切られたということで別れなければいけない、というちょっと怒りみたいなものを内に込めながらの悲しみなのか。それは全然違うものです。 

 その声をどう出せばいいのか。やはり人生経験とかそういうのがなかったら出せないわけです。松丸さんは「朗読」を、いわゆるアテレコとか声優とか、ただのアナウンサーが読む「朗読術」と区別しています。「朗読術ではなく朗読法だ」と言ってるんです。

 アナウンサーは意味内容を正確に伝えるために声を出す。でも意味内容ではなくて、その背後にある気持ちだとか情感だとか。意味内容は一緒なんですよ。「さようなら」というのは別れの言葉。「さよならは別れの言葉である」って書いてある。そういう辞書的な意味はどんなふうに読んだって別れの言葉なんですけれど、その背後にある気持ちが、さっき言ったみたいに自分に責めがあると思うのか、それともお互いに責めがないのか、それとも相手になんか恨みがましい気持ちを持っているのかによって「さようなら」という言葉を悲しげに言うにしたって全然違うわけです。

 それからこの後二人が二度と会うことがないだろう、と思うのか、また会えるかもしれないと思うのか、また会わなきゃいけないかもしれないというか、逃げたところでだめかもしれないと思うかによって本当にものすごく「さようなら」という一つの言葉では到底語りきれないような背景がいっぱいあるわけです。

 それこそパスカルの言う「幾何学の精神」と「繊細の精神」の違いですね。「幾何学の精神」は非常に明瞭にけれども少ない原理だけでものを考える。「繊細の精神」は一挙に様々な物を見て一気に分かろうとする。推論とかではなくてね。そういう意味では言葉の声を読む、というのはおそらくは繊細の精神なんですよ。

 幾何学の精神で読んでいいんですけど、それだけではなしに繊細の精神で『星の王子さま』を、『Le petit prince』を、読もうと思ったら、それをどういう声で読むのか。どういう声で聞きたいのか、ということを常に考えるということがすごい大事なことだとこの本読んで余計に思いました。

音読してみる


西川:
 音読をするというのは大阪大学で池田光穂さんと一緒に授業をした時に、誰から言い出したともなく受講生に音読してもらって議論をするということをやってたんです。「はい、じゃあ読んでくれますか?」みたいな感じで。でもそうすることで、ものすごく高度な授業がなされることになりました。

 教員も必死ですよ。言い出しっぺの自分がショボい朗読はできないわけです。だから、僕たちが先生、君たちが生徒というのではなくて、どういう読みが一番いいのかということをお互い考えようとしてました。今回は、この短い17章をみんなでちょっとやってみようと思います。一度まず黙読しましょうよ。心の中で声を出してみましょう。

(黙読中)

西川:いいですか?今度はYouTubeで、フランス語での朗読劇をちょっと聞いてみましょうか。意味はわからなくてもよいです。

(フランス語の朗読音声)

西川:
 はい。どこのだれのかは知りませんけど。地の部分を読むナレーターと王子さま役と花役がやってましたけど。さてみんなに意見を聞いてみますね。まず蛇との出会いがあってしばらく経ってからの話です。僕ちょっと読みますね。

 王子さまは砂漠を横断しましたが、たった一輪の花に出会っただけでした。花びらが三枚だけの花。まったく貧弱この上ない花でした……。

 今の読み方はほとんど感情入れてないですよ。でも例えばたった一輪の「たった」のていうところにどんな気持ちを込めるのかとか。花びらが三枚だけの全く貧弱この上ない花でした、というのをどんな風な気持ちか、って考えてみましょう。

 それを考えないと次の『「こんにちは」と王子さまは声をかけました』の「こんにちは」にどんな気持ちがあるかがわかりません。

 「こんにちは」と王子さまは声をかけました。
 「こんにちは」と花はあいさつを返しました。 

 そして花はどんな声なのか。ここだけでも書かれてある言葉の裏にある声を読むように朗読すると思うと結構難しいかなって思います。「砂漠を横断した」というけどどれくらいの苦労の後なのか、とかね。

C:僕たまたま家で、さっきお話で出てきた内藤さんの訳の本をみつけて持ってきたんですけど、ここには「砂漠を横切りました」って書いてありますね。

D:横ぎったと横断したではだいぶ違うよね。

C:うん、違うなと思った。

西川:
 原文ではtraverser (→過去形ならtraversé)って書いてあるから、ちゃんと調べてないですけど、「旅をした」というか、長い間歩いた後ってことでしょうね。

 例えば、地球に来て蛇と初めて会うわけでしょ?それから随分歩いてるわけですよ。随分長い間、誰にも会わずに歩き歩き、王子はそれほど疲れを知らない人のように書かれてましたけど、一人で歩いてる。そしてその後に「たった一輪の花に出会っただけでした。」というわけです。

 おまけにその出会った花が「花びらが三枚だけの花。まったく貧弱この上ない花でした……。」と。残念そうに言うのがよいのか。たぶんそうなんでしょうね。長―いあいだのたった一人の砂漠の単独行の後に出会ったのがたった一輪なんですよ。たくさんの花が咲いてるのではなくたった一輪の花。それも花びらが三枚だけ。
 王子の胸の中にあるバラに比べたら、ということですよね。そして王子が声をかけるわけですけど、喜びに溢れて「こんにちは」と言ってるのか、仕方なしに言ってるのか。

 ここの挨拶「こんにちは」「こんにちは」という応答が成り立っているのはここが初めてなんですよ!!あとはほとんど応答が成り立っていないんですよ。蛇のところもなってるか。

 花はいつか隊商が通りすぎてゆくのを見たことがありました。
 「人間たちかい?いることはいる、と思うよ。六、七人はね。

 これだと男の感じですね。

D:そうですね。キャラクターがちょっとイメージと違う。

西川:男風の翻訳になってます。内藤濯さんの訳はどうなってます?

C:(朗読)

 「人間?六、七人はいるでしょうね。何年か前に見かけたことがありましたよ。だけど、どこで会えるかわかりませんね。風に吹かれて歩き回るので。根が無いんだから大変不自由していますよ。」(内藤訳)

D:男とも女ともとれる感じの印象ではあるけど。大人っぽいよね。明らかに女性言葉で訳してる翻訳もあったような気がしますね。

西川:
 「人間たちはどこにいるんですか?」ってこれ真剣に丁重に。相手がもう答えなきゃって思わせるような聞き方をしないといけませんよね。でも「人間たち?」っていう返事です。これは花に「あんなつまんないもののこと?」っていう気持ちがあるわけですよ。後ろに人間を軽蔑してることが書かれてますから。

 だから「人間たちはどこにいるんですか?」って真剣に聞いてるねんけど、「真剣に聞くから答えるけど、あんなつまらない人間のことかい?」ってな感じで言わなあかんわけでしょうね。「人間たちかい?いることはいる、と思うよ。六、七人はね。」どうでもいいこと、みたいな感じで言わなあかんと思います。

何年も前にこの目で見たことがあるからさ。だけど、どこに行ったら会えるか、皆目見当がつかないねえ。

 最後の「ねえ」というのはちょっと王子に気の毒そうな気持で言わないと。「人間たち?どこぞにおるんちゃう?知らんよ。」みたいな感じで素っ気なく答えてるんじゃなくて、やっぱり王子が真剣に聞いてきてるという事はわかってるわけですよ。王子が「こんにちは」と言えば「こんにちは」というふうに返事をしているし、「さようなら」と言えば「さようなら」と応じてるわけですから、この出会いを無下に過ごしてるわけではないです。

 ただ「人間たちはどこにいるんですか?」というのは花にとってはそれ程大した質問のようには聞こえていない。それをきちんと読み取った上で、「人間たちはどこにいるんですか?」は王子の真剣な気持ちを込めて言わないといけないし、花の返事に関しては、王子の真剣な気持ちは分かるから一生懸命答えてあげようとは思うわけです。でも人間たちがどこにいるかなんてことは、それ程大した問題ではないっていう。人間なんてそんな立派なものではない、という少し軽蔑の気持ちが入ってる。

 「皆目見当がつかないねえ。」も「もう余計なこと聞くなよ」みたいな感じでもいえるし、「皆目見当がつかないねえ。」といった後、間を置いて、「まあ言い訳だけど、あなたに教えてあげたいけど見当がつかないねえ、悪いねえ」と言いながら、「なにせ、風任せであっちへ行ったり、こっちへ行ったり。根がないんだからねえ。」という弁解じみたふうにもできます。

 でも、その根がない人間をあなたは探そうとしてるからそう簡単には見つからないよ、ということまでは教えてあげているわけです。「苦労が多いよね」っていうのは、ある意味で、人間は根が無いから人間というものは苦労が多いというだけじゃなくて、その人間を探そうとするあなたにも苦労が多いよ、っていうふうに読むこともできるわけです。

 で、「苦労が多いよね」って言われたけど、それでも王子は探しに行きます。さて、ありがとうございました、という気持ちで「さようなら」と言ってるのか、まともな返事聞けなかったと思ってぷいっと「さようなら」と言ってるのか。

 返事をしてくれた感謝だけではなしに、「ありがとう、でも僕はそんなに落胆していません」ていう「さようなら」かもしれない。ある意味強い気持ちも込めながら「ありがとう」という気持ちも込めながら「さようなら」と言っているのかもしれない。

 花もどんなふうにして「さようなら」を贈ったのでしょうか。不思議な子が来て不思議なことを聞いて行ったけど、風に吹かれてあっちへ行き、こっちへ行き、て、人間と同じようにまた行くんだね、みたいな感じで「さようなら」と言ってるのか。

 ここを、人間というのは根が無いからね、と読んで、人間全般に対する風刺みたいなものが込められてる、と読むのは簡単なんです。でもその背後にある様々な気持ちのやり取り、王子の心の動きです。

 最初の「こんにちは」から「さようなら」までの間にやっぱり変わって来てる。「人間たちはどこにいるんですか?」と真剣に聞いてるわけですから、ある意味答えを聞けるかもしれないと期待しているわけです。

 やっと出会えた、貧弱この上ないけれどもやっと出会えた。長い間砂漠をたった一人で横断してきて、初めて会えたたった一輪の花。見かけは非常に貧弱この上ないけども、この人に聞かなきゃならない。他にいないのですから。挨拶をして、そして、でいきなり本題に入ってるわけです。世間話めいたことは一切してない。それが王子さまの特徴でもありますけど。


音読して気になったところから


西川:はい、じゃあちょっとずつ、みんな読みましょうか。みんなは本を閉じて声だけを聞くと。

(第17章を一人ずつ朗読)

西川:はい。それぞれ難しいな、と思ったところを言ってもらいもらいましょうか。

D:「人間たちはどこにいるんですか?」っという質問は、王子さま、蛇にもしてるし、キツネにもしてるし。ずっと繋がってるテーマで大事なところなんですよね。だから結構想いのこもったような言い方をするのかなと思ったけどどう言えばいいかなって。ずっとこの後も人間、人間って言ってるわけですよね。

西川:どういう想いなのかっていうことですよね。

D:そうなんですよね…。なんで王子さまが人間にこだわっているのか。ずっと探していますし。考えてみたら、今までの他の星では全部着いてすぐに人間に会ってるんですよね。地球だけ人間にすぐに会わない。

西川:
 これ103ページの後ろから二行目ですけど、

 「ああ、そうだったのか」とヘビは応じました。
 そして、二人は黙りこくりました。 
 「人間たちはいったいどこにいるの?」と、とうとう王子さまがまた口を開きました。 

 だから二人黙りこくってしまうんやね。それでもやっぱり言いたいことの一番最初に来るのは「人間たちはいったいどこにいるの?」ってやっぱり言っちゃうんですよ。で、その後ろに

 「砂漠では独りぼっちで、ちょっとさびしいね……。」

 これが理由になりますよね。独りぼっちでさびしい。だから、「人間たちはいったいどこにいるの?」というのは、やっぱり友達になってほしいというか、このさみしさを癒してくれる友達としての人間たちを求めているわけです。

 「サルはどこにいますか?」「ゾウはどこにいますか?」という意味での人間ではないんです。以前に、日中にランプを持って人間を探すっていうシノぺのディオゲネスのこと言ったと思います。彼は「人間はどこだ!人間はどこだ!」って真昼間から「人間はどこだ!」と言ってる。

 彼は「人間とは何か」、「人として生きるとはいったいどういうことなのか」を考えている哲学している人間を探しているのです。

 王子の場合はそういうディオゲネスとは違うのだけれど、やっぱり孤独な自分と心を通わせて友達になれるような。まあ言うてみたら、点灯夫のところで「親友にしてもいい、と僕が思えたのはこの点灯夫だけだ」といっているので、「親友にしてもいいと僕が思えるような人」を探しているわけですね。

 人間たちがいるところに行って親友と思える人を探したい、という想いが、王子の「人間たちはいったいどこにいるんですか?」という発言の根っこにはある。

D:そうだとするとその後キツネと友達になるというのは何というか象徴的というか、何か意味があるのかもしれないですね。人間ではなくキツネと友達になるというのは。

西川:そういう意味では、人間というのは別に人間の形をしたものではないんです。

D:花とか蛇とか言ってるけど、ここで「人間」というのは、心の通じる相手とかたぶんそういう意味が含まれるのかなと思いました。

西川:キリスト教的な考え方で神の御姿としての人間ということもあるだろうから。言葉が通じればみな一緒みたいな東洋的な考え方はないと思いますけどね。

D:ファンタジーだから人間以外でも普通に言葉が通じるわけですか。でもキツネとは友達になると言ってるわけですから、それだけではなく。お伽話だからみんな言葉が通じるんだろうみたいなだけやったら、ちょっとなんか読み足らないかなとも思いますね。

西川:
 「人間たちはどこにいるんですか?」は「僕と親友になれるような人はどこにいるんですか?」と読み替えたほうがいい。別に地球人とはどういうものかを知りたくて来てるわけではないですよ。

 「砂漠では独りぼっちで少し寂しいよね」という蛇との会話にあったように、寂しさを埋めてくれるものとしての人間を探している。だから真剣にやっぱり聞かなきゃいけないのだけど、「どこにいるんですか?」という疑問は知的な疑問ではない。自分の何か満たされないもの。それを何とかしてくれる希望としての人間たちを探し求めてる。そう朗読する。それが難しいんだよね。

 だから、貧弱この上ない花に対して丁重に尋ねるのはなぜか。やはり藁をもすがるような想いです。ずーっと蛇と会ってから砂漠を横断して来た。でも質問をすることができるものとは一切会わなかった。そうしてやっとのことで、たった一輪の花びらが三枚しかないそんな花と出会ったことになります。やむにやまれぬ気持ちで聞くんです。

 ちょっと話変わるかもしれませんが、「彼女が欲しい」と言う時にどんな気持ちを込めるのかによって言い方が変わると思うんです。とにかく暇潰すための相手としての彼女が欲しいんだ、というのじゃなくて、自分のこのなんか切ない辛い気持ちを優しい気持ちで包んでくれる可能性のあるような人と出会いたいという時の「彼女が欲しい」というのは違う。

 そんな感じで「友達になれるかもしれない人間」という想いを込めて「人間たちはどこにいるんですか?」と聞かないといけない。「犯人はどこだ!」ではないんです。所在を聞いて「ああそうですか」ではないんです。

 所在を聞いたらそこに行きたい、という強い願いがあるわけです。だから花はその願いを感じているから、「どこに行ったら会えるか、なにせ風任せであっちへ行ったりこっちへ行ったり、あなたも苦労が多いよね」と言っているわけですよ。

 「場所は知らないね」って言ったら終わりなんですよ。どこかを聞いて、王子はそこに向かって歩いて行きたい。砂漠を横断してきたように、どんな長い距離も苦しい旅路も乗り越えて行こう。そういう意志を感じたから「苦労だね」と言ってると理解した方がいいのかもしれない。

D:王子は見た目で花とは友達になれないと思ったんですかね。

西川:
 花と友達になれるとは思ってなかったんでしょうかね。そこはちょっとよくわかりませんけど。

 そうそう冒頭で「今の人間は決められた道しか歩けない」と言いましたけど、この時代の人間は「あっちへ行ったりこっちへ行ったり風任せ」、デラシネ(déraciné) というわけです。デラシネって根なしってことですね。

 何にも縛りつけられてない、という意味では、デラシネ的生活をを肯定的に見る見方もあったんですけど、今はそれがないですね。人間には根っこはなくても決められた軌道の上しか動けなくなっているわけです。

 さて、『星の王子さま』が書かれた時代の人間風刺は今の時代にはもう通用しなくなっています。花の人間に対する見方、つまり根がないから不自由だねとか苦労してるね、と言われているわけですが、一方でその苦労、不自由があるからこそ人間というのは人間の生を生きているんだ、選択して生きているんだ、自らの意志によって生きているんだと反転して考えることもできたわけです。

 だからこそ、王子はどこにいるか分からない、友達になれるかもしれない人間を追い求める旅を続けることもできるわけです。

 僕がいつも言ってますけど、『星の王子さま』の星巡りのところでも、大人を風刺してる部分とだけ読んでしまうと、そこで読みが終わってしまう。人間は根無し草だというところでポンと終わってしまうとそこで終わってしまうんです。

 自分の生き方を自分が決定する、そういう自由があるんだ、何の保証もないところに自分が次から次へと賭けていく、実存的な好奇さ、勇気があるんだ、とも考えられる。

 ただ今の現代社会において、人間の生き方はデラシネと呼べるほど自由ではないですね。便利にはなっているけれど違うんじゃないか、というふうに読んでいくのが大事かなと思いますね。

C:今って結婚する相手を親に言ったとて、どこの馬の骨かも分からないみたいなこといわれたりする。自由よりも逆に何かに属していたりする方が安心感あって認められる。ここに書いてある意味は、いろんな意味があると思いますけど。自分で色んなことを選択する本当の自由のことですね。

西川:
 いやー、自由とは何か、それは一大テーマですよ。「俺が決めたんだから俺の自由だ」という自分勝手の意味ではサン=テグジュペリは多分使ってはないですね。彼は、自分というものを根拠づけている自分の命さえ、「そんなものがなんだ」って言う人ですからね。自由の根拠が自分というものにあるという考え方を恐らくしていない。そういう自分中心の自由ということでは多分ないんでしょうね。

C:そういう意味では僕は「こんにちは」と「さようなら」、とくに「さようなら」がすごく難しくて。「こんにちは」という挨拶をする。僕は最初この会話はすごい素っ気ないものに感じてたけど、「こんにちは」という言葉によって血が通って、大した結論も出てないけど、なぜか「さようなら」の時には「こんにちは」の時にはなかったような何かが生まれてるような気がして。今の話もそうですけど、同じ挨拶やけど何かそこに意味があるような気がしますね。

西川:
 あっさりしてるように見えるんですけどね。このときの「さようなら」に王子がどんな気持ちを込めてたかのは、次の章でだんだんはっきりしてきます。高い山に登って「友だちになってよ、ぼく、独りぼっちなんだよ」ていう木霊に話しかけるところですね。

「こんにちは」と、王子さまはともかく呼びかけてみました。

から始まって

 「友だちになってよ、ぼく、独りぼっちなんだよ」と王子さまは言いました。  

と続くわけですが、ここが本当に言いたいメッセージですね。「君たちだれなの?」って「人間だよ」という答えを一番期待して言ってるわけです。

D:その前には一人残らず人間が見渡せるだろうと期待して登ってるんですもんね、山の上に。それなのに誰も見えない。

西川:高い山でこだまと掛け合いするここは寂しいところがありますね。それと対比させると、このカンカン照りの砂漠のところでたった一輪の花と出会う。この辺はどう読めばいいのかね。


D:これ(挿絵)だと花びらいっぱいあるみたいに見えますけどね。

A:足跡に対してでかい。

D:これ人の足跡だとすると花がすごく大きい!一輪でもないみたいに見えるし。

西川:これ何なんでしょうね。

D:二つに分かれて花も二つ咲いてるみたいに見えますしね。

西川:絵も、以前も言いましたけど、きちんと読まないとダメなんですよ。太陽と、太陽が照り付けている砂漠っていうのが起伏もあって。

D:もちろんバラではなくて花に会ってて、この後たくさんのバラに会ってみたいなことも、もちろん意識されてるんでしょうね。

C:この挿絵やっぱりおかしいですよ。三枚って書いてるのに。なんか敢えて描いてる感じですよね。

西川:これ人間の足跡かな?

C:僕、蟻に見えました。

西川:二つ、二つ、二つって。人間だったらおかしいよ、これ。だってチョンチョンチョンチョン。あんまり深く考えなくていいんだ。でも三枚の花びらじゃないもんね。

D:どう見ても違うし、二輪あるように見えますし、形もこんなふうに生える花ってあるかなって感じもしますよね。桜とか梅とかの枝先の部分だけみたいな感じして。

西川:砂漠の絵としてはこれが二枚目なのかな?最初のは地理学者のとこで出てくるね。これは蛇と出会う前か。


D:でも想像図…ですかね?

西川:なんで地理学者のところで出てくるんやろ?でも「はかない」っていう話の時に出てくるね。

D:一応この後の『「地球という惑星がよいじゃろう。」』『「なかなかの評判じゃからな」』という辺りで地球のことを想像してるところの絵みたいな感じですかね。

西川:
 全然評判がよさそうな星にはみえませんね。『Le petit prince』の絵というのは書いてある文章の一部を絵にしてるっていう、挿絵のように考えるわけにはなかなかいかないんだよね。だってこういう絵を描きましたって、一番最初そうやんか。「その絵をここにかき写しておきます」ってあるから、絵自体がもう物語の一つになってるからね。結構難しいよね。

C:なんか作者が曖昧な記憶をもとに思い起こして描いたっていう感じですよね。

D:これはパイロットが描いた絵ってことじゃないですか。

西川:ほんとにね、王様ってこういう人でしたよっていうような、文章の中の王様をただ目に見える形で視覚化したって普通僕たち読んでしまいますよね。挿絵付きの本だから。でも『星の王子さま』はちょっと違うから。

C:やっぱ主観と客観があるじゃないですけど、王子さまが主人公なんやけど、そこのもう一歩引いたところに作者がおるように感じさせるような。

西川:基本そうですよ。パイロットの自分の昔話から始めて、帰ってきてからのパイロットの話で終わってますから、その間にパイロットが聞いた話として王子の話がある。基本はパイロットの思い出話ですね。

D:パイロットが王子さまから聞いた話みたいなとこなんでしょうね。

西川:パイロットの思い出話なんやけれども、王子もその思い出話をしたりする、みたいな結構入れ子になってるところがあって、結構難しいですよ。あ、蛇も砂漠は砂漠やね。蛇は夜だからね。


D:キツネと会ってるところは木が生えてたりするんだけど、これは砂漠じゃないんですね。


西川:これは砂漠じゃないね。だって猟師もいるし。

C:この井戸のところは、、、砂漠じゃない。


西川:砂漠ではあり得ない井戸の形なんですよ。これは砂漠にはない普通の街にある形のタイプの井戸なんですよ。

D:ここすごく不思議なことが起きてる場面ですよね。

西川:サンテグジュペリは砂漠に行ってたから砂漠の井戸がどんなものか分かってるんですけど、わざとこういうふうにしてる。

D:本来あり得ないものがあって、ちょっと超常的になってる。ファンタジーが前面に出ている。文章に出てこないところでも、結構あちこち花が描かれていて、花の描き方って描き分けられてますもんね。これ絶対意識されてますよね。その中で井戸がでてきて。バラの花壇とかいっぱいあるし、その後泣いてるところでも小っちゃいカスミソウみたいな。

C:原本にもこの挿絵にある絵以上のものは出てこないですか?

西川:出てこない。

C:下書きとかもないんですかね?

西川:これね、サンテグジュペリは、ヒッチコック社から最初はアメリカで出版されてるんですけど、この絵の大きさとかどこに絵を入れるかとかね、妥協しない出版社とのやり取りが手紙にいっぱい残ってるんですよ。だからこれはここにしかあかんねん。

C:計算されつくしてるんですね。

西川:意味・意図があるんです。この絵はここ、っていう。だからそれをどう読むのかということも読み手に課せられてるんですが、彼は本当にポンと差し出すだけで答えは書いてない。

D:この白黒の絵と白黒じゃない絵があるのもサンテグジュペリの意図なんですかね?

西川:そうそう。ただヒッチコック社の後にガリマール社[*8]がフランスで出版したやつはそれ守ってないんですよ。

C:あ、でも僕の持っている本もそうでしたよ。

西川:岩波少年文庫の日本で初めて出た『星の王子さま』もガリマール社のやつをさらに悪くした形で出してるんで。50年ぶりくらいにやっと元に戻ったんです。

D:横書き、縦書きの違いもあるしどうしても配置は変わってきますよね。

[*8]ガリマール社 :ガリマール出版社(ガリマールしゅっぱんしゃ、 Éditions Gallimard )は、 フランス を代表する 出版社 の一つ。 1911年 創立。

西川:もうちょっといきたかったけど、まいっか。こうやってみんなで読んでみると、朗読会とかやってもほんと面白いでしょうね。みんながそれなりにね、ここはこう私は読みますっていう。絵もほんとは模写するべきだと思いますよ。分かろうと思ったら。

C:今日いくつか別の翻訳者のバージョンもたまたま持ってきて、今回朗読して、翻訳の人って大変やな、って思いました。内藤さん版だと『「こんにちは」と、(点)』て入ってるんですよ。そういう空気感、「、」とか「・・・」とか、翻訳の人たちは一生懸命想像しながら原稿に書いてるんですね。

西川:内藤さんも稲垣さんも声に出して読まれることを意識して書いてるっていっていますね。

C:日本語のむずかしさなのか、限界なのか可能性なのかわからないですけど、そういうのを常に翻訳者たちは抱えてるのかもしれない。

西川:
 脚韻[*9]を踏むという言葉がありますね。西洋にはなぜ朗読法があるのかというと、文芸作品というのは必ず韻を踏むことと関係があります。韻文の歴史がある。日本にはないんです。

 脚韻と韻を踏むのはまた違います。韻文は日本にはない。だから、韻を踏んでる向こうの詩を日本語訳しようと思っても、それはできないんです。五七五みたいな音数で切るっていう定型はあるんですけど。西洋的な韻がないわけです。

 考えてみたら、九鬼周造の『文芸論』[*10]とか、そういうことをいろいろ言ってるし、鷲田先生も『「ぐずぐず」の理由』[*11]で、そこらへんのこといっぱい、オノマトペのこととかも書いていますね。結局、音読をきちんとするのは臨床哲学の本道かなと思います。遅ればせながら。

[*9]  脚韻:きゃくいん。意味や解説、類語。詩歌で、句末・行末に同音の語をおくこと。漢詩では一定の句末に同一の韻字を用い、西洋の詩では近接する行末に同一音ないし類似音をそろえる。

[*10]『文芸論』:九鬼周造著、『文藝論』岩波書店〈初版〉、1941年。生前最後に執筆していた著作で、病没4か月後に刊行された。

[*11]『「ぐずぐず」の理由』:鷲田清一著、角川学芸出版〈角川選書 494〉、2011年8月。

おわりの雑談


西川:ずいぶん今日は横道でした。

C:最近ブラッドベリのSF小説を買ったんですが、「文章だけど詩であって音楽である」みたいなこと書いてありました。音読でもそうですけど、なんかリズムがあったりとか、音の背景があったりとか。もっと語感的な要素もあるやないかという気はなんとなくします。

西川:
 語感というと非常に曖昧なように見えるんですけど、言葉ってものすごく多義的なんです。これを「意味の弾性」といった人がいます。弾性って、弾力の弾ですね。

 『レトリック認識』とかいろいろ書いてる佐藤信夫[*12]。彼はロラン・バルト[*13]の翻訳とか、『レトリック事典』の最初の責任編集者だった人です。途中亡くなられたので、その息子が完成させたんですけど。

[*12] 佐藤 信夫:さとう のぶお。1932年9月24日 - 1993年5月19日、日本の言語哲学者。専門はフランス思想および言語哲学。・『レトリック認識』(1981年、講談社/1992年、講談社学術文庫)・『レトリック事典』(共著)(2006年、大修館書店)・『意味の弾性』(1986年、岩波書店/『レトリックの意味論 意味の弾性』1996年、講談社学術文庫)

[*13]ロラン・バルト:Roland Barthes、1915年11月12日 - 1980年3月26日、フランスの哲学者、記号学者、批評家。高等研究実習院(École pratique des hautes études)教授、コレージュ・ド・フランス教授を歴任した。


 佐藤信夫の主著が『意味の弾性』という本です。僕はしばらくの間レトリック[*14]にものすごくはまっていまして。プラトンて、レトリックや詩というものを追放しろとかいいました。哲学と詩人とめちゃ仲悪いっていう立場なんです。レトリックって、飾り立てるっていうか、あたかも針小棒大みたいに、過大に評価したり、とかって思われがちです。もともとは弁論術で、要するに相手を説得するような技法なんですよ。だから真実ではないということです。

 佐藤信夫の『レトリック認識』には、レトリックを通じないと認識が開かない部分があるという指摘があります。例えば「時が流れる」といってもどこにも流れてはないですよ。でも、「時が流れる」っていうのはレトリックを通してはじめて、時の流れみたいな時間に対する一つの光の当て方がはっきりしてくるんだ、とか書いてあります。 

 情に流れる/流される。そういうレトリック的な表現ではじめて認識可能になるような事柄っていうのがある、ということを色々書いてます。言葉は、みんな意味の弾性、伸び縮みするような、そんな生きたものなんだ、みたいなことをいっぱい書いている。

 僕は自分の修士論文のタイトルが「ケアの弾性」でした。ケアとはなにか、と定義をバシッと決めるのではなく、そのときどきで伸び縮みするような在り方。そういう弾力性を持つものがケアの本体というか課題なんだと思います。生きるか死ぬか、ケアが生きるときと、ケアが相手を殺してしまうようなとき。その境目みたいなところをなんとか知りたいと思ったわけです。結局わかりませんでしたけど。

 偶然にかけるっていうところもあるし、いわゆるマニュアル的にどっちか片一方で決めれるものではない。だからケアを定義するときに、外延[*15]を「ではない」っていう形で、ケアとは少なくとも計画できるものではない、一義的なものではないという形で一部みてみたわけです。

 今は結構ケアとは何々である、という、中身をいきなり言っちゃうところが多い。そういう時はすごく参考になります。言葉の「意味の弾性」を如実に表すのが、この生の声なんですよ。文字には弾性ありません。なぜならば、文字で書かれた言葉にも弾性があるとしたら、それはいかに黙読したところで言葉がこちらに届かない。あくまで黙読も頭の中で自分の声で読んでいるはずです。声を介さなければ、言葉は自分に届かないんだっていうところからはじめてもいいかもしれません。

[*14]レトリック:ことばを巧みに用いて美しく効果的に表現すること。また、その技術。修辞。本来は古代のギリシア語レトリケに由来し,弁論の技術とその体系をさした。

[*15]外延:意味論で使われる概念。もとは論理学の用語。外延(extension)は、ある記号(ことば)の指し示す対象の範囲、内包(intension)はある記号(ことば)が指し示すものが共通して持っている性質。

C:
 仕事でメールをするんですけど、自分が送った文字が相手にどう解釈されるか気になりますね。自分はすごく丁寧に送ってるつもりが相手からしたらなんか嫌味にしか見えないとか。

 書いてる人が何が言いたいのかっていうのは、自分が書くとしたらどんな感じなのか?っていう書き手のイメージを持ってもうちょっと接したら、もうちょっと相手の言いたいことが見えるかもな、っていう気もしますね。

西川:
 そういう意味で彼が進めているのは、芥川龍之介、太宰治がやっぱり素晴らしいです。文章そのものの中に。説明的ではない声に出すためのヒントが山ほど入ってるんですよ。だから「と、丁重にたずねました」て、「と丁重に」とかじゃなくって、その書いてある事柄で、なんかそういうのがにじみ出るような書き方がいっぱいある。そういうのを練習するべきなのかもしれない。

 あと、もうひとつは、やっぱりどこまでいっても言葉っていうのは発信者側が意味を固定できないということです。言葉の意味は発信者側ですべて準備できるものではなくって、受け取り側のところで、歪曲と言いませんけど、そこで想像される分がものすごく多い。

 そういう言語論のことを関連性理論[*16]というんですけど。英語の研究書しかないんであんまり僕もよくわからなくて、それを解説した本から知ったんですけど。文脈をどう作るかなんですよね。こちら側で勝手にね、これならだれが読んでも丁寧だろていうのはやっぱり駄目なんです。相手の文脈に沿う言い方でないと。

 例えば、僕を「まさる」と呼ぶのは、僕の親しい友達ばかり。「西川さん」ていうときには、お医者さんであったり学校の先生だったり、要するにリハビリの先生だったり、自分を何かに変えようとする、そういう人たちだけが、僕に対して西川さんといいます。

 ヘルパーが「西川さん」て言ったら怖いですよ。「まさる」て読んでくれたほうが、なんか悪さしても、「おいっ、まさる!」って言われるぐらいです。困った顔も、僕がわーってやったら、困ったみたいにあって「まさる―!」って怒ったりするんですけど、それは僕じゃなくて相手が困ってるんです。

 でも先生たちは自分が困るとかじゃなくって、「西川さん、それは間違ってます」と「西川勝」が圧倒的に全否定される。だから、ケアする関係の中で相手の呼称をどう考えるかは大切です。

 「「おばあちゃん」なんて呼び方失礼です」という言い方がありますけど、たしかに「おばあちゃん」と言ったら激怒する人もいるわけですが、必ずしもそうではないでしょう。だからそれは文脈なんです。決められない。それを丹念に、丹念にときほぐしていく。ときには試行錯誤するっていうことがケアの関係なわけです。

[*16]関連性理論:語用論や認知言語学で用いられる。発話がいかに解釈されるか、ということに関する理論である。関連性理論では、主に話し手が伝えようとした意図・内容を、どう聞き手が解釈し、理解するのか、そのプロセスなどが研究対象となる。

C:「(メールの)一斉送信はあかん。絶対問題起こるから。」と言われたことがありました。みんなの捉え方がほんまに違うんですよ。人間関係とか。

D:内容としては同じでも、誰をtoにしてて誰をccにしてるかとかでも扱われ方とか変わるし。

少しのおまけ

西川:
 時々思うんですけど、僕の語りって、言ってるときには相互関係が大事だって言ってるわりには、ほとんど自分のペースでめちゃくちゃ得手勝手でね。臨床哲学て言いながら、ほとんど相手の話を聞かない。どちらかというと、説得というより折伏[*17]に近い形で。

 相手のそれまでの持ってた確固たる信念ではないかもしれないけど、疑う必要性を感じていない、日常の安心の根っこをね、ぶっ潰していく。でも、その後の適切な処置があんまりないような気もするんですよ。歳とって来て段々少しマシになりましたけど。田中角栄[*18]じゃないけど、基本はぶっ潰せみたいなね。

 先生扱いされてるときには、それがある程度、いろんな知識とか、そういうことでソフトにされてますけど。リアルな男女関係とか、嫁さんとかになると圧倒的そうなんだよね。どうしようもない男だと思う。ほんっとにね、人の話聞かないし。自分の意見の違うところはもう悪のように、相手を責めたてるし。もうどうしようもないなあと思ってね。どうしたらいいんでしょう。

[*17]折伏(しゃくぶく):折破摧伏(しゃくはさいぶく)を略した仏教用語であり、悪人・悪法を打ち砕き、迷いを覚まさせること。 人をいったん議論などによって破り、自己の誤りを悟らせること。 あるいは、悪人や悪法をくじき、屈服させること。

[*18]田中角栄:たなか かくえい。1918年〈大正7年〉5月4日 - 1993年〈平成5年〉12月16日)は、日本の実業家・政治家・建築士。郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第33代)、内閣総理大臣(第64・65代)等を歴任した。

一同:(笑)

西川:だから、こういう人間関係とコミュニケーションをぐずぐず考えたり人にしゃべったりしてない人の方が、圧倒的に間近にいる人を大事に生きてる、っていうのをちらほら垣間見ると、、、ねえ。

C:誰かを例えば僕は、妻を論破しようと思わんですね。説得したり、ああ間違ってる、みたいなことをするっていうことは絶対に怒りをかいますもんね。納得しない、納得させる、論破する、正論をいうっていうことがいかに間違ってるかを僕は最近結婚して5年ぐらいで思いましたね。

西川:おれ、最近思い始めたんだよ。

C:(笑)。あ、そうなんですか。それは遅すぎるんじゃないですか?

西川:あの、奥手なもんで。

C:(笑)奥手っていうんですか、それ。正論て、いかに正論じゃないか。

西川:仏教では正義って煩悩なんですよ。そんなことは、知識としては知ってるんだよね。でもね、僕は阿修羅になっちゃう。

一同:(笑)

西川:僕なんか、マスク一つでもあんだけボロクソに言えるから。マスクかけてるやつは、人間として最低だみたいな論を延々いうやん。思いません?

C:極端な事を言わないと伝わらないときもありますしね。

西川:だからそういうね、極端派なんですよね。

C:伝えたい、ていう思いがあるんじゃないですか。

西川:
 これはもうアジテーター[*19]です。こないだからね、もうアジテーションやめよう、と思ってるんだけどね、未だに癖が治らないというか。愛情にしてもアジテーション。

 僕ね、職業として看護士やってたから聴くことは平気でできるんですよ。白衣とか着てたら。でも家帰ってね、白衣脱ぐでしょ。でね、臨床哲学とかっていうのも脱ぐでしょ。そうなると、ただの「はだかまさる」なんですよね。うるさいなーてなる(笑)。もうそんなのいいから、コーヒー出せって。お茶を出す気持ちもないのか、みたいなね。なんかぶわーって言い始めるねん。

C:ふり幅が凄すぎますよ。

西川:だから「なんであなたの言うことに涙して聞く人がいるのかがわからない」てよく言われますよ。その通りだな、と思いましたけど(笑)。だからそういう意味では、僕の言説は、自分の生理に近いような喜怒哀楽からは、ふっと浮遊してるところあるかもしれない。それは哲学したことの得した部分とは思ってるんですけど。不誠実に見えるんだろうねぇ。

C:見えると思いますね、不誠実に。

西川:
 変わらないことが誠実なのかっていうね。泥の中の種は、泥の中で花咲かさなきゃいけない。蓮の花のように、泥に種があって芽があっても真っ白な清らかな花を咲かすというのは駄目なんすかねぇ。

 で、僕この間、このすぐそばにいた浜田きよ子[*20]さんに問い詰められましたよ。「西川さんの話はね、ほんとにグサッとくる良いお話をされるけど、なんでそういうふうに生きなかったんですか?」って言われて(笑)。

一同:(笑)

西川:
 「西川さんの言うことはわかるし、そのたんびたんびに真剣にやってるっていうのはわかりますけど、でも、どうしてあなたの生き様と言ってることがこんなに違うの?」て(笑)。

 でも、それなりに一生懸命しゃべってるんです。だから、僕の言っていることは後知恵って思うんです。やっちゃって、後からやるんじゃなかった、っていう後知恵が来る。だから、みっともない生き方の後に、人が、「うん」と思えるような言葉がやっと僕の中に訪れてくるんじゃないのかと思っているんです。

 みたいなことを言ったら、また騙されそうって顔してましたけど(笑)。

[*19]アジテーター:扇動者。大衆を扇動する人。または、音楽のパートのひとつ。観客を煽ってライブを盛り上げる役割を務める。

[*20]浜田きよ子:排泄用具の情報館「むつき庵」代表。高齢生活研究所所長。NPO快適な排尿をめざす全国ネットの会理事。

(終了)

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