匠真幸希の事件簿file:8『解かないと決めた謎』(おばあちゃんと僕の思い出)
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匠真幸希の事件簿file:8
『解かないと決めた謎』
(おばあちゃんと僕の思い出)
※ 実話を元にプライバシーを考慮した物語です。
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僕には『一生、解かない』と決めた謎がひとつだけある。
・・・
小学校3年生の時、僕のあだ名は
「粉 (こな)」
だった。
僕の服の腹部や袖口は、
いつもチョークの粉だらけだったことが理由だ。
3年生の時の担任、女性教師の小林教諭は、
ノートを一切とらない僕に、
いつもヒステリックに怒り、その結果、
僕の学校の机には、いつもチョークや黒板消しが置かれることになった。
小林教諭がそう決めたのだ。
僕は、6秒ほどジッと見たものは、
ビジョンで覚えることができたからノートをとらなかった。
正確には、とることができなかった。
一目見れば覚えられることを、
意味もなく何度もノートをとることで、
視覚情報を二重三重と記憶していってしまうかもしれない・・・
覚えても何の生産性もない、
いわば ”景色” を、
一生忘れられないかもしれない・・・
そう考えるだけで、
自分の身体が巨大な手に握り潰され歪んでいくような感覚、
全身にザワザワと不快感が走り、
頭部全体からボコボコと脂汗が留まることなく滲みでる。
入学後間もなく、
例えば、国語の漢字の書き取りで、
「小」「山」「川」「人」「正」・・・
これらを、ノートに何度も何度も書かされる
40分あまりの時間・・・
皆、なんの疑問もなく、黙々と取り組んでいる。
でも僕は手にもつ鉛筆に脂汗が滲み、
不快でワナワナと震えがとまらない。
辺りを見回しても、そんなのは僕1人。
多数決で 37 対 1 。
自分がマイノリティー、
自分が "おかしい" ことは揺るぎない事実だ。
2年生になっての一番の苦痛は、
九九を覚える算数の時間だった。
6秒見れば覚えられる九九を、
何時間もかけて、音読、書取り、テストまでさせられる。
一縷の希みをもっていた、
『2年生になれば、僕と同じように、
書かなくても覚えられて、もうノートをとりたくない!
というクラスメイトも、でてくるんじゃないか・・・』
そんな儚く、願いにも似た想いは、容赦なくかき消され、
ここで僕は、人とは違うのだという現実と絶望を、ハッキリと突きつけられた。
でもそれは、
この絶望を越える絶望の始まりでしかなかった。
3年生になり小林教諭が担任教師になると、
ノートをとらない理由を説明しても、頑として認めてはくれなかった。
僕の手をいきなり掴むと、
「ノートをとりなさいっ!!」
と怒鳴り、
女性とはいえ、大人の力いっぱいの握力で鉛筆を握らされ、
折れた鉛筆が僕の親指の爪の間にめり込み、
かなりの出血をしたこともあった。
保健室で止血をしてもらっていると、
連絡を受けた母親がすぐに迎えにきて、
近くの病院に行き、保健室では取りきれなかったトゲを鑷子で抜いてもらった。
その時の激痛は今でも忘れられない。
病院を出ると、そのまま学校に戻り、
謝るのは小林教諭ではなく、母親。
小林教諭は、
頭を下げ平謝りする母と、
頭を下げない僕を見おろし、
「お家でも、よく言い聞かせてください!!」
と、怒鳴りちらした。
その後も、仕事を終え帰宅した父から
「小林先生の言うことを聞け!
ノートを取ることが気持ち悪いわけないだろ!」
そして、殴る蹴る。
壁まで蹴飛ばされ、和室の壁に穴があく。
土壁の斑模様に、今までなかった赤い彩が滲んでいく。
大人になってから、右足の靭帯を痛めたことがある。
レントゲンを撮ったとき、右足に古い骨折の跡があると言われたが、
僕は右足の骨折治療をしたことはない。
あの日、父から蹴られた時にできたものだ。
痛がると余計やられる。
だから黙っていた。
歩みを進める度に、折れた骨がきしみ、周辺の肉に刺さる。
僕の日常はこんな感じだった。。。
のちに様々な格闘技を身につけたのは、
この肉体と精神の痛みにはもう堪えられないという、
心の声に従ったからだ。
テストで満点を取り続け、ノートを取らずとも覚えていることを証明しても、
それは小林教諭の感情を逆なですることにしかならなかった。
ある日の授業中、小林教諭は、
「ノートをとらないなら、机の上は空いてるわよね!」
と、言い放ち、
チョークや黒板消しを、一番前の席だった僕の机の上に移動しはじめた。
「授業にきちんと参加しない人の机より、
授業に参加している皆が使う黒板周りが綺麗な方がいいでしょ!」
と、まったくもって論理的でもなく倫理的にもおかしい発言だが、
8~9歳のクラスメイトの前では、その権力は絶大で、
反論など起きる訳がない。
前に出て黒板に書く児童は、
僕の机からチョークを持って黒板に向かい、
終わると僕の机に置いていく。
黒板消しは置かれる度に白煙をあげ、僕はむせかえるのだが、
庇ってくれる味方などいない。
今なら社会的な問題になるだろうが、
当時は、教師の権力がまだ強く、
言うことは絶対 の時代だった。
月に1度ある席替えは、僕だけ移動なし。
いつも教卓の前。
だから皆がチョークを取るのに差し支えない。
同級生が思う様な、
「好きな子の隣がいいな」
なんて感情を、僕は持ち合わたことがないから、
席替えをしたかったわけじゃないが、
数人が嘲笑いながら、座ったままの僕の近くを
机を抱えて席替えをしていたのを覚えている。
そんなわけで、僕の服の袖やお腹周りは
いつもチョークの粉で白かった。
「粉」
そう皆に言われるようになるのに、
そんなに時間はかからなかった。
そんな日常の中迎えた9歳の誕生日、
学校が休みのこの日、
僕は電車に乗り、おばあちゃんの家に向かっていた。
おばあちゃんと
"ある約束"
をしていたからだ。
誕生日も、親から怒られていることが大半だから、
御祝いなどされない。
プレゼントももらえない。
そんな両親をおばあちゃんは叱ってくれたり、
「引き取る!」
と、強引に連れ去ってくれたこともあるが、両親は猛反発。
警察沙汰になったことも2回あった。
だが、今ほど児童虐待が騒がれていないあの時代では、何も変わらなかった。
変わらない両親であることは、
おばあちゃんも重々理解しており、
そんな僕を見かねたおばあちゃんは、
「今年から、誕生日プレゼントを用意してあげる!」
と約束をしてくれていた。
初めてのプレゼントは、
天体望遠鏡 だった。
もちろん、そんなに精度の高いものではないが、
看護婦の婦長をしていたおばあちゃんにとっては、
お給料の1カ月分はするものだったに違いない。
そんなおばあちゃんの、
ナースキャップにだけ入った、
紺色のラインは、婦長の ”証”。
この証を初めて僕が見たのは、
弟が生まれる、前年の春休みのこと、
僕はおばあちゃんの家に預けられ、
おばあちゃんが仕事中の居場所は、
ナースステーションだった。
僕はノートをとらない、
つまりは字を書く練習を殆どしていなかったので、
まだ2年生とはいえ、書く字がとても汚かった。
見かねたおばあちゃんは、
僕がナースステーションに居る間、
達筆な新人ナースの松崎さんに、
「手が空いている時だけでいいから、
孫に字の綺麗な書き方を教えてあげて!」
と頼んでくれていた。
もちろん、僕が退屈しないようにという想いもあってのことだった筈だ。
松崎さんの手ができるだけ空くように、
新人ナースの仕事を、婦長であるおばあちゃんは、
”証” の付いたナースキャップでテキパキこなしていたのを僕は知っていた。
天体望遠鏡という、物心ついて初めての誕生日プレゼントをもらった僕は、
去年も、
”綺麗な字を書けるようにしてもらった“
というプレゼントをもらっていたことに、
今更ながら気づいた。
望遠鏡を夢中で覗き込んでいたその時、
おばあちゃんには見つからないように、
隠していたことを気づかれてしまった。
チョークの粉で汚れた袖だ。
繊維に深く入り込む白い粉までは
洗濯しても落ち切らず取り切れない。
少し汚れている程度なら
「男の子だし・・・」で、
何も言われなかっただろう。
現に洗濯をしてくれていた母親からは、
気にも止められていなかったが、
おばあちゃんの ”愛ある目” は、誤魔化すことはできなかった。
当然理由は聞かれたが、答えたくはなかった。
でもその答えたくない態度をしている時点で、
孫にただならぬ事が起きていることを悟られてしまっていた。
おばあちゃんの性格上、もう答えないわけにはいかない。
僕は事情を説明しつつ
「でも大丈夫だから、何も心配しないで!」
とだけ、何度も必死に言い続けていた。
おばあちゃんが、怒りと悲しみが入り乱れた、
見たことのない表情を浮かべていたからだ。
その後もおばあちゃんは殆ど口を開かずに、
黙って考え事をしているようだった。
夕方になると、おばあちゃんは夜勤、
僕も翌日は学校のため、駅までおばあちゃんに車で送ってもらい、
僕は帰路についた。
翌日、
また憂鬱な一週間が始まろうとしていた。
相も変わらず、僕の机にはチョークや黒板消しが置かれている。
3時間目が始まって間もなくの頃。
教室前方の扉が、突然ガラッと開いたとほぼ同時に、
ピカッと光った。
続けて2回、3回と。
教室中がざわつき、
何事か!と担任の小林教諭は扉に駆け寄った。
閃光で一瞬、視力がおかしくなったが、
徐々に回復した僕の目には、
おばあちゃんが立っているのがうつった。
更に目が回復しきると、おばあちゃんは、
ナース服にカーディガンだけを羽織り、
手には使い捨てカメラをもっていた。
小林教諭は、驚いた声で、
「どなたですか!?ご父兄の方!?
何をなさってるんですか!」
と、敬語ながらも威圧めいた声でおばあちゃんに言い放った。
おばあちゃんは、
「私は、匠真の祖母です。
お騒がせしたことと、
授業を邪魔してしまったみんなには申し訳ないです。
でもね、、、
孫の机の上をチョーク置き場にされて、
黙っ・・・」
おばあちゃんは涙で言葉を詰まらせた。
騒ぎを聞きつけ、周りの教室の教師たちも様子を見にきはじめた。
おばあちゃんは、辺りに集まって呆然とするだけの教師たちを一瞥すると、
「あなた達、本当に見て見ぬふりなんだね!
さっき、ここに電話を入れて、抗議させてもらったら、
誰だが知らんが、男の先生がおでになったけど、
お孫さんにも原因がある?
小林先生は考えがあってやられている?
それも教育なんです?
何をバカなこと言ってるんだ!!!
私の働いている病院には精神科もあって、
人とは違うことで、悩んでる患者さんも、
生活がままならない患者さんも、沢山くるっ!
中には自分で首くくったり、
飛び降りて死んでしまう患者さんもいるんだぞ!
そういう人たちの悩みと、孫の悩みと、何が違うんだ!
苦しいって言ってるのに、無理やりやらせることに何の意味があるんだ!
それを闇雲に言うこと聞け!って、
あんた達こそ、児童の言うこと少しは聞け!
電話じゃらちがあかないから、こうして来たんだ!」
小林教諭は圧倒され、上半身だけ斜め後ろに15度ほど傾斜したまま
という実に滑稽な格好で、絞りだすように、
「じ、じゃ、じゃあなんで、写真を撮られたんですか?」
「いいから、いますぐチョークをどけなさい!
そしてこれからもまた隠れて孫に酷いことをしたら、
この写真を、うちの病院に通われている、
◯◯新聞で編集長をされている方に、
事情を説明して、ネガを渡すかんね!
そのための写真だよ!!」
今ならおばあちゃんも個人情報保護法違反だが、
この当時の、
"人望と人の繋がりの強み"
に、周りの教師たちの顔が一斉に青ざめ、ひきつっていった。
おばあちゃん劇場に見いっている児童たちの手前、
斜め15度を続け、何も出来ずにいる小林教諭に代わって、
隣のクラスの担任が、僕の机の上のチョークの全てと黒板消しを拾い、
最後に小林教諭の机に置かれたウェットティッシュで、机を綺麗に拭いてくれた。
おばあちゃんは、それを見届けると、
「お邪魔しました!」
深々とお辞儀をした後、
夜勤明けでクマの濃い目をキュッと細めて、
僕の目をみつめニコっと笑い、去っていった。
その後、、、
小林教諭が僕にノートをとることを強要することも、
僕の服が白くなることもなくなった。
ただ、このことは、校長や教頭も耳にし、
逆ギレの怒りを買うこととなり、
表立った嫌がらせは減ったものの、
その後も、陰湿な接し方は卒業まで続いた。
僕のあだ名は「粉」から、
「ババナス」
に変わった。
「ババアのナース」
ってことだろう。
そう呼んでいた人間を僕は全員覚えている。
もしこのnoteを読んでいるなら、一言だけ伝えておこう。
『僕は、僕の大切な人をコケにした輩を許すことも、忘れることもない。』
勿論、僕はおばあちゃんに、
「もう一切イジメられなくなった」と伝えていたから、
おばあちゃんが学校に乗り込んでくることも、
写真が世に出ることもなかった。
おばあちゃんはその後も毎年、
誕生日とクリスマスにきちんとプレゼントをくれた。
それは、僕が29歳でおばあちゃんが亡くなる時まで、
絶えることなく続き、
おばあちゃんの僕にむけた最期の言葉は、
「もうプレゼントあげられないかもね。ごめんね・・・。」
だった。
モルヒネの影響で、幻覚を見ながらうなされている中でも、
僕のことを最後の最後まで気にかけてくれていた。
おばあちゃんを亡くし、
はじめて迎えた30歳の誕生日。
プレゼントの小包が届いた。
差出人は・・・
おばあちゃんだった。
中身やメッセージカードの内容は秘密だが、
カードや配送伝票は、
僕と、そっくりの筆跡で書かれていた。
おばあちゃんからのプレゼントのバトンを受け継いでくれたのは、
今ではおばあちゃんの
"紺色の証" も受け継いでいる、
"あの人"
だと思うが、
この謎だけは、解かないことにした。。。
ババナスと揶揄されたおばあちゃんだが、
夜勤で疲れた身体に鞭を打って、
ただ一人、僕を助けに駆けつけ、
力が上の大人たちとの戦い方を、身をもって教えてくれたナース服姿。
僕がカメラやレコーダーを駆使して仕事をするのは、
肉親でたった一人愛してくれた、
大切な人から受け継いだ "戦い方" だからだ。
愛する人を守るため、なりふり構わず、立ち向かうその出で立ちは、
僕には、何者よりも強い戦闘服にうつり、
ヒーローとして僕の心の中で生き続けていく。
The End
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