「わかりあえなさ」が、生きやすさのきっかけになる。 -『家族は他人、じゃあどうする?』竹端寛-
「話せばわかりあえる」なんて無邪気に思っていた青春時代を経て、歳をとると悟る。「どんなに話し合おうとも、わかりあえないじゃん!」と。
家族やパートナーといった近しい関係だとしても、「なんでそんなことするん!?」と、とまどったり、怒ったりしてしまう。
そう、“家族は他人”なのだ。
家族とわかりあえないこと。それを終着点にするんじゃなくて、対話の出発点にすることもできる。鷲田清一も「「分かりあえない」「伝わらない」という戸惑いや痛みから出発すること、それは、不可解なものに身を開くことなのだ」と言っていてるし。(引用「対話の可能性」)
竹端寛さんの『家族は他人、じゃあどうする?』は、福祉社会学者である筆者が家族という他者のわかりあえなさに直面しながら、それをのりこえようとするなかで、個人がそれまで囚われていた「仕事中心主義」や「力ずく」のやり方(=男性中心主義)の価値観を「まなびほぐし」し、ケアの論理を身につけていく過程が綴られている一冊だ。
竹端さんは、「馬車馬の論理」と「ケアの論理」をこう説明している。
そして、多くの日本人(とくに男性)は、「馬車馬の論理」が刷り込まれてしまっている。「馬車馬の論理から一歩引き、ケアの論理に一歩踏み込むだけで、『戦線離脱』 と思い込んでしまう」、つまり、育休など、家族のケアのために仕事を離れることにためらいを覚えてしまうのだ(90頁)。
竹端さんも「馬車馬の論理」にとらわれていたが、子どもが生まれ、パートナーと子育てをするなかで、自分の思うようにならない他者=子どもと向き合うことになる。そんななかで、「馬車馬の論理」が学びほぐされていく。
「馬車馬の論理」をにぎしめているときには面倒なものだった、わかりあえない他者と向き合う時間が、むしろ「関わり合いのおもしろさ」を感じ、生きる喜びを得る時間に変わっていく。
そう、他者が「わかりあえない」からこそ、他者と生きることが自分自身を知り、生きやすくなるきっかけになるのだ。
身近な他者との関わり合いが、自分自身への関わり合いを取り戻すきっかけにもなる--。家族やパートナーに対して、なにかイライラしてしまうようなとき、矢印を相手に向けて「なんでそんなことするんだ!」と怒るんではなくて、「この怒りの根っこには、自分のどんなニーズがあるんだろう?」と考えるような、ふところの深さを持ちたいなぁ、と思う。
それがなかなかできねんだなぁ、みつを、という感じなのだけど。できねぇ自分でもそばにいてくれる他者がいるとしたら、何度でも何度でもぶつかったり謝ったりしながら、自分を知っていけるはず。家族は、自分を気づかせてくれる存在でもあるのだ。
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