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「わかりあえなさ」が、生きやすさのきっかけになる。 -『家族は他人、じゃあどうする?』竹端寛-

「話せばわかりあえる」なんて無邪気に思っていた青春時代を経て、歳をとると悟る。「どんなに話し合おうとも、わかりあえないじゃん!」と。

家族やパートナーといった近しい関係だとしても、「なんでそんなことするん!?」と、とまどったり、怒ったりしてしまう。

そう、“家族は他人”なのだ。

家族とわかりあえないこと。それを終着点にするんじゃなくて、対話の出発点にすることもできる。鷲田清一も「「分かりあえない」「伝わらない」という戸惑いや痛みから出発すること、それは、不可解なものに身を開くことなのだ」と言っていてるし。(引用「対話の可能性」

竹端寛さんの『家族は他人、じゃあどうする?』は、福祉社会学者である筆者が家族という他者のわかりあえなさに直面しながら、それをのりこえようとするなかで、個人がそれまで囚われていた「仕事中心主義」や「力ずく」のやり方(=男性中心主義)の価値観を「まなびほぐし」し、ケアの論理を身につけていく過程が綴られている一冊だ。

竹端さんは、「馬車馬の論理」と「ケアの論理」をこう説明している。

馬車馬の論理とは、世間的評価や他者評価を内面化し、それに従うための、自 己中心的で時に保身的な論理である。

他方、ケアの論理とは、ケアを必要とする身近な他者のために時間と関心を払うことに集中する論理である、と言えるかもしれない。

『家族は他人、じゃあどうする?』竹端寛,85頁

そして、多くの日本人(とくに男性)は、「馬車馬の論理」が刷り込まれてしまっている。「馬車馬の論理から一歩引き、ケアの論理に一歩踏み込むだけで、『戦線離脱』 と思い込んでしまう」、つまり、育休など、家族のケアのために仕事を離れることにためらいを覚えてしまうのだ(90頁)。

竹端さんも「馬車馬の論理」にとらわれていたが、子どもが生まれ、パートナーと子育てをするなかで、自分の思うようにならない他者=子どもと向き合うことになる。そんななかで、「馬車馬の論理」が学びほぐされていく。

(子どもと過ごす生活は)ややこしくて、思いどおりにならないのだが、だからこそこの世界は、自己中心的に回 る世界以外の、具体的な他者と共にある世界なのだと気づかされる。すると、ぼくの中に ある強固な自己中心性のようなものが、ほんの少しだけど剥がれたり緩んだりし始める。

生きる喜びとは、関わり合いのおもしろさなのかもしれないと、最近ふと思い始めている。

『家族は他人、じゃあどうする?』竹端寛,153頁

「馬車馬の論理」をにぎしめているときには面倒なものだった、わかりあえない他者と向き合う時間が、むしろ「関わり合いのおもしろさ」を感じ、生きる喜びを得る時間に変わっていく。

そう、他者が「わかりあえない」からこそ、他者と生きることが自分自身を知り、生きやすくなるきっかけになるのだ。

「馬車馬の論理」の世界は、他者がいなくても、自分の頭の中だけで練り上げることが できるし、誰だって一定の訓練をすれば、それなりに「緻密な論理展開」は可能である。

でも、娘や妻と関わり合い、ケアし合う関係性は、自分の頭の中だけでは完結しない。 それどころか、思いどおりにならなくて、しばしば感情的になる。

でも、「これらの感情は、 自分がいのちとつながれていないと気づくためのアラーム」だとするならば、ぼく自身が 自分のいのち(=自分のニーズに触れることができている状態)とつながり直すことを、娘や妻との関わりがもたらしてくれているのだ。

それが、馬車馬の論理ではないケアの論理の豊かさなのだろうと思う。妻や娘との豊かな関わり合いは、自分自身への関わり合いを取り戻すきっかけにもなるのだ。

『家族は他人、じゃあどうする?』竹端寛,217頁

身近な他者との関わり合いが、自分自身への関わり合いを取り戻すきっかけにもなる--。家族やパートナーに対して、なにかイライラしてしまうようなとき、矢印を相手に向けて「なんでそんなことするんだ!」と怒るんではなくて、「この怒りの根っこには、自分のどんなニーズがあるんだろう?」と考えるような、ふところの深さを持ちたいなぁ、と思う。

それがなかなかできねんだなぁ、みつを、という感じなのだけど。できねぇ自分でもそばにいてくれる他者がいるとしたら、何度でも何度でもぶつかったり謝ったりしながら、自分を知っていけるはず。家族は、自分を気づかせてくれる存在でもあるのだ。



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