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「家族」について、正しさを押し付けない。「ポリフォニーとしての対話」のこと

Twitterをひらくと、いつも家族にまつわる話題がのぼってる。
あたらしい家族のかたちについてとか、選択的夫婦別姓のこととか、法律婚すべきかいなかとか、あの芸能人の不倫けしからん、みたいなこととか。

僕が家族というテーマに興味があるから、タイムラインがそんな僕向けに最適化されている…ということをさしひいても、みんな家族というテーマは語りたくなるんだろう。

でも、その語られ方に、息苦しさを感じるときもある。どちらが正しいかや、誰かを断罪するような語りがけっこう見られるからだ。ほら、自分の家族観を表明すると、「それは違う!」ってコメントが飛んできたりするの、Twitterとかだとみるじゃないですか。

そういう語られ方がよくない、と自信を持って言えるわけじゃないけれど、正しいほうを決める、ある意味ディベート的な語りが多い場では、「これ言ったら責められるかな」と気にしてしまって、「実はこう思ってるんだけど…」ということが言えない人もいるんじゃないかな。っていうか、僕も自分の家族観を語るのをためらってしまうときがある。

そんな理由があって、さいきん、「ほしい家族の井戸端会議」という会を開催している。オンラインで、15人ほど集まって、家族について対話するのだ。

その場が、僕はとてもよいなぁ、と手応えを感じてる。それは、家族についての語りが一人ひとりから生まれ、それに触発されてまた語りが生まれる…という場になっているから。言葉をかえると、家族についての「ポリフォニーとしての対話」が生まれる予感があるのだ。

「ポリフォニーとしての対話」とは、なんぞや。

斎藤環さんの著書『オープンダイアローグとは何か』で、フィンランド西ラップランド地方で開発され、高い効果をあらわしてきた精神科医療のアプローチ「オープンダイアローグ」について紹介されているのだけど、斎藤さんはその特徴の一つをポリフォニーという言葉で説明している。

オープンダイアローグの空間では、ただ「複数の主体」の「複数の声」がポリフォニーを形成しており、そのこと自体が治療の資源となるのです。

……言葉が現実を構成するという社会構成主義的立場にもとづいて、やりとりが新たな現実をつくり出すようなシステムを目指して、対話が続けられていきます。(『オープンダイアローグとは何か』38頁)

簡単にまとめると、「ポリフォニーとしての対話」とは、対話を通して合意や結論を目指すのではなく、多様な表現や視点が接続されることを重視するような対話のこと。正しさを決めるために語るんじゃなく、音楽におけるポリフォニーがそうであるように、異なる声が重なり合うような対話だ。そのことによって、メンバーの中で共通言語ができていくのだそうだ。

そういう、「ポリフォニーとしての対話」が、家族というテーマで起こっている感覚が、「ほしい家族の井戸端会議」を開催しているとある。「実はわたしはこうで…」ということを語り合い、耳を傾け合っているような感覚。

まだ2回しかやってないから、なんとも言い切れないけど。個人的に、手応えを感じ始めている。そういう場に救われるような人も、もしかしたらいるのかもしれない。っていうか僕が救われることがあるかもしれない。だから、しばらく続けていきたいなぁと思っている。

「ほしい家族の井戸端会議」は、たぶん毎月くらい、開催するので、興味ある方はぜひ。







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