会議も飲み会もオンラインで出来る現代に、あえて「会う」意味はあるのか考えた。
オンラインで打ち合わせも、飲み会も、合コンもできるいま、それでも「会う」っていうことに意味があるとしたら、どんな意味なんだろう?
てなことを最近考えます。
そう、僕は「いろいろオンラインでええやん!」論者なんだけれど、それでも「やっぱオンラインじゃなあ」ってこともある。好きな人とデートするとかは「オンラインじゃいやだ」と思う、この気持ちはなんなのだ?
その気持ちを探るヒントが、「オープンダイアローグ」にある気がしています。
オープンダイアローグは、フィンランド発祥の精神医療の治療法で、患者と医療者、ときには家族などの関係者も加わり対話を行うことで治療する方法で驚異的な効果を上げて世界から注目されています。
そんなオープンダイアローグでは、「メンバーがその場に居合わせ、固有のかけがえのない身体を持ち寄って、対面しつつ言葉を交わすこと」が重要視されていそうで。
言いかえれば、言葉の共有だけでなく、「身体性」や「感情」を大事にしている。そしたら当然、オンラインじゃちょいと難しいわけです。
そのことについて、オープンダイアローグの第一人者であるヤーコ・セイックラ氏たちは次のように語っています。
治療プロセスでは、ある種の経験がターニングポイントになることがわかってきました。その経験とは以下のようなものです。
分かち合い一体となりつつあるという強い集団感情、あふれ出すような信頼感の表明、感情の身体的な表現、緊張が解け身体がくつろいでいく感じ、などです。
(中略)
ミーティングにおいて相互に同調し合い、そこから生まれる深い交感に完全に没頭することで、私たちはある感覚にたどりつきます。それは私たちを、共にある関係的な存在として、真の意味で「人間」たらしめてくれるあの感覚です。
(引用:「治療的な会話においては、何が癒す要素となるのだろうか」ヤーコ・セイックラ、ディヴィッド・トリンブル、斎藤環訳 『オープンダイアローグとはなにか』177-178頁 斎藤環 2015 医学書院)
ここでは、おたがいに身体を持ちよって同じ場を共有することで生まれる感覚、いうなれば「愛の感覚」が、僕たちを関係的な存在として、人間たらしめてくれる、つまり癒してくれるということが説明されています。
「愛の感覚」って、抽象的だし、いうのも面映ゆいような感じもある。でも、この文章を読んだときに「ほんとうだな」って思う自分がいるんですよね。
それは頭ではなくて、身体が「それはほんとうだぜ」って知っている感じ。お母さんからおっぱいをもらったころから、「おたがいの身体を持ち寄るって、大事じゃん」っていうことが染みついてる感じです。(伝わってくれ…!)
「愛の感覚」はオンラインじゃなかなか持ちづらい。やっぱり身体をもちよって感情を交換する、そうした関わりのなかで、僕らは生きている手ごたえをたしかめあう。
だから、「あーやっぱ会いたいな!」ってなるわけですな。
だから、コロナが落ち着いたら、好きな人たちと夜が開けるまで飲み明かしたい。カラオケいきたい。散歩したい。今はその時のことを妄想しながら、時間をやりすごしてます。
サポートがきましたって通知、ドキドキします。