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「成長」に会ったら、「成長」を殺せ。

僕らは生まれてから死ぬまで、いったい何度「成長しよう」という言葉に触れるんだろう。本屋さんには「これこれこうしたら成長できる」という本がずらっと並べられているし、ネットにもそういった記事が溢れている。

そういう言葉を目にし、耳にするたびに、「ほう、そうか」と思う自分と、「そうなの?」と思う自分がいる。そして僕はひねくれているので、往往にして「そうなの?」が勝つのだ。

臨済宗に「仏に会ったら、仏を殺せ」という教えがあるのだけど、僕はこの教えにならって、「『成長』に会ったら、『成長』を殺せ」と思う。

例えば僕にとっては、パートナーや親友をしあわせにできることであったり、庭の植物をすくすくと育てられることだったり、シャツを上手に洗えることだったりが「成長」だったりする。

なのだけど、日常をあわただしくすごしていると、つい誰かのいう「成長」にひきよせられてしまいそうになる。もっとお金を稼ごうとか、営業がうまくなろうとか。

そういうのも大事なのだけど、誰かがいう「成長」を追いかけるあまり、自分にとっての「成長」がさまたげられてしまうことがあるからやっかいだ。誰かのすすめる「成長」は自分にとっての「成長」である、ということなんて、ほんとうは稀なはずなのに。

だから、だれかのいう「成長」にひっぱられそうになったら、「いかんいかん、そうじゃない」と、自分にとっての「成長」ってなにかを思い出す。そのことが、自分の人生を自分のものに引き戻しててくれる。だから、「『成長』に会ったら、『成長』を殺せ」なのである。

こんなところがあるから、「山中くんて、頑固だよね」なんて言われる。ううむ、頑固すぎるのも考えものだ。「成長」という言葉に会っても、よしよしと愛でることも自分に許してあげたい。頑固さと柔軟さと。リンスインシャンプーみたいにどちらも兼ね備えていれたらいいなぁなんて。

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