言葉と泉(9/11-9/13)

9/11(水)
仕事をかたづけたあと、武蔵野美術大学の市ヶ谷キャンパスへ。「ナラティブとデザイン」というテーマでの公開講座があったのだ。

デンマークの大学院で映像文化人類学を学び、映像と写真ですばらしい作品をつくっている方や、世界各地のナラティブを集めた雑誌をつくっている方などが、その考えや取り組みを話してくれた。どの方の取り組みや作品もすばらしいクオリティで圧倒されつつ、「おれもいつか、すごいものつくるぞ」と、土俵際でやる気に転換。美大に多い服装なのか、無地のシャツとパンツ(シルエットが計算されているから、とてもおしゃれにみえる)、高そうな眼鏡、といういでたちの人がたくさんいた。

ひさしぶりに大学の教室で授業を受けてみて、めいいっぱい学ぶことが許された時間と空間のぜいたくさを思い出した。またいつか、学生にもどってみたい気持ちも、ちょっとわいたりなんかしたりして。市ヶ谷駅前のラーメン屋で味噌ラーメンを食べて帰宅。

9/12(木)
本づくりの企画、ちょっとずつ進みつつある手応えがある。チャンスがないならつくればいい。失敗してもまたやってみればいい。そういうスタンスに、35年の人生ではじめてなれている気がする。空はかつてより高く、風はかつてよりちからづよく僕の背中をおしてくれる。けれどもお尻は坐骨神経痛ぎみ。まーそれも一興よ。


藤本和子さんの『ブルースだってただの唄』を読み終わった。宮本常一の『忘れられた日本人』を読んだときのような衝撃。「聞き書きをもとにしたエッセイ」という手法、社会から透明化されてきたひとびとへのまなざし、語りの背景にあるものへのふかい洞察、聞くことや語ることの力への信頼、あたかもその人が目の前で語っているかのようないきいきとした文体……。

「普遍性のなかにやすらぎを見出すよりも、他者の固有性と異質性のなかに、わたしたちを撃ち、差しつらぬくものを見ること。そこから力をくみとることだ、わたしたち自身を名づけ、探しだすというのなら。」(9頁)

「ウィルマはゆっくりとは喋らない。ことばで体験を撃つように話す。撃ち止めた瞬間痛みがからだをつらぬくが、彼女はことばを持続させる、あくまでも。涙がおちる、とめどなく。ことばで自分史を撃ちとり、ウィルマは自らの生を名づける。第二級殺人罪をおかして仮釈放の身である自らに、威厳を回復する、名づけることの力によって。」(182頁)

言葉や文章が、その人の生きざまという泉からぽこりぽこりとかたちをあらわす泡のようなものだとするなら、藤本和子さんという泉はどれほどの深さなのだろう? その色は? 温度は? 

今は藤本和子さんという人じしんに興味がある。もうすこし著書を読んでみよう。


9/13(金)
やってしまった。取材に遅刻。15時からだと思って向かっていたのだけど、ほんとうは14時からだったと、電車のなかでクライアントからのメールをひらいて気づいた。

いそいでタクシーで向かうと、その方は「ぜんぜんだいじょうぶですよ〜」と言ってくれた。無事に取材も終わったけれど、さすがにこれは……。さいきんものごとがうまく進みはじめていて、気がゆるんでいたのかもしれない。反省。

小田急線が多摩川をわたるとき、山の稜線のむこうに橙色の陽がしずんでいくのがみえた。まちも橙に染めつつ。

サポートがきましたって通知、ドキドキします。