呟くように歌う

音沙汰が全く無かった「父」が死んだんだそうな。

『生きてたんだ。。あ、いや死んだのか』自分に妙な1人ツッコミを入れながら、目は『父の弟』と名乗るその男性に釘付けだった。背、高いな。なかなかシュッとしたおじいさんだな。。
その人が私の父なわけでもないのに、なぜか目が離せなかった。

広島から、行き当たりばったりで過去の記憶だけをたよりに、姉と私を訪ねて車で駆けつけてくれたそうだ。まぁ、実態は、要約すると「実の子供にしか通帳の残額を銀行が教えてくれない(お金が手に入らない)」「父が生前に直した屋根の修理代と、葬儀のお金を立て替えてるから払って」という世知辛い銭金の話だった。

それでも、「生前、お父さんは釣りが大好きだったんだよ」というおじさんの話を聞いて、姉は目を輝かせながら聞いていた。『小学生の頃、毎週釣りに行きたいと姉が騒いでいたのは、そのせいだったのか』と初めて気がついた。姉は単に釣りが好きなんだと、うん十年ずっと思い込んでいた。本当は父の記憶を追っていたんだな。。
昔からドライな私には、幸か不幸か、玄関で靴を履く父の後ろ姿しか記憶にない。家庭内別居をしていたので、母がいない時に玄関に人の気配がすると、こっそり廊下の戸を開けて見ていたのだ。それだけ。前から見たことがないので、いくら写真を見せられても、知らないおじいさんにしか見えなかった。
姉は、祭りの写真を見て一発で父を言い当てた。
父の遺品のアタッシュケースからは、姉が中学生の時に書いた父への手紙が出てきたとの事だった。もちろん、私の話はでてこない。
昔、私が15歳の時に、当時母親が付き合っていた人と別れ「16年も連れ添ったのに今更会社の若い子と浮気するなんて」と喚き散らしたことがあった。
だから、私は、きっと父にとっても、母が付き合っていた男性にとっても、『母の子』であって自分の子ではないのだ。
母が付き合ってた男性も「くみちゃん(姉)が社会人になるまでは」と姉が社会人になった途端に去っていった。もちろん、私はまだ学生(高校生)だが、大人の眼中に私がいない事は分かりきった事なので、ただじっと成り行きを傍観していた。

で、そんな環境がイヤで、18になると同時に県外に出て、2度と帰って来ないつもりが、2019年に神さまから衝撃パンチをお見舞いされ、人生の半分以上過ごした関東から実家の愛媛に戻る事になった。
歌を奪われ、軟禁状態にあい、極めつけは未曾有のコロナ禍。関東に戻ろうという細い細い反骨精神は、もろくも粉砕されてしまった。
。。と、いう頃にやってきた今回の刺客。姉夫婦もつい最近まで山口にいて、姉の旦那さんが仕事を辞めて嫁の実家で暮らし始めたのも、私が帰る半年くらい前のお話し。

どういうメッセージが込められているのか、まさか父まで合流してくるとは。。
。。ちなみに。
裸足のまま、敷地内の車付近で倒れ、不審死として警察が調べたとのことだった。「突然の発作で車に薬を取りにでも行こうとしてたのかな」とおじさんは言っていた。血は争えそうもない。きっと私もそういう死に方をするんだろう。孤独とは相性がいい。
全く誰かに看取られるイメージがつかない。

人が死んだというのに、私は久々に歌を口ずさみたくなった。特に、届いて欲しいなんて思いもしないけど、なんか、ようやくどっかで届く気がした。
愛媛に帰ってからずっと眠りが浅かったけど、
今日はとても、眠い。

眠い。

東京の友人関係も、いろいろ様変わりしているようだ。ただ、そうあって欲しいと願ってるだけで、ずっと変わらない場所なんて、都合が良すぎるよね。。竜宮城へは2度は行けませんわな。

歌いながら、寝むりにつきたい。
きっと東京でオープンマイクに参加しなくても、今日はきっと、

観客がいる。

あたしはココに、いるよ! 気づいてくれて、ありがと~(*´ω`*)ノシ えーる、届けー。えーる、おくれー(←頂戴の意味)。