診断名ではなく、君は君だ
今でも覚えているのは当時、ショックだったからではない。
私は小学校6年時の恒例行事として
1年生に掃除のやり方を教えにいくという行事がありました。
私が不真面目にボーッとしていた時
死角からそーっと近寄り
Tシャツの袖で鼻を拭いていく女の子がいました。
その当時は「おう!どうした?!」という驚きだけで終わった。
当時(今もですが)コミュ障なので
「ねーねー聞いてよ!さっきさー」なんて友達にも話せず
湿ったTシャツの袖が乾くスピードと同じくらいの勢いで
ひっそりと僕の記憶の中に封印された。
病名と診断名は個人を表すものではない
高校くらいの時、一般教養がある程度身についたとき
「あの子はダウン症の子だったんだ」と知った。
その瞬間、あの頃の記憶の彼女は「僕の袖で鼻を吹いた子」から
「僕の袖で鼻を拭いたダウン症の子」になった。
診断名は便利である。
今やダウン症に限らず、ADHDや、HSP(?)など
診断名で括ってしまえばある程度は周りの理解が得らる
しかし、一人ひとりの人格はもちろん、状態も多岐に渡るため同じ診断名でも状態は異なる。
しかし、理学療法士になるまでの私は
診断名=個人 となった。
世間も無意識にこの感覚を持っていることは大にある。
声を大にして主張して欲しい。君は君だ。
自分ADHDなんで
自分HSPなんで
言うのは勝手だが
合理的配慮が行われるだけで、その上で正統な評価がされる。
私は診断名の有無は関係ないと思う。
愛される人かそうでない人かに分かれると思う。
自分で生きる力は人への愛され方を知ること
こんな家庭がいた。
重症心身障害児を目の当たりにしたことがない人からしたら
起きているのか、寝ているのかもわからないお子さん
ご両親はわずかに見られる意思表示を拾って支援員に伝えていた。
すごく自然な感じでお子さんのケアに当たっていることを
日常的にも見受けられる暖かな家庭だった。
「この子は〇〇して欲しいと思っています!絶対やってください!」と
保護者の方が強めに言うことはなかった
親子の接する雰囲気
日頃から家族に愛され、肌も髪も綺麗にされていて笑顔が溢れる家庭
それはスタッフにも伝播して自然と暖かい雰囲気となり、ケアも変な緊張もなく丁寧なものになっていく。
人に愛されることで、それは伝播して親亡きあとも子の財産として受け継がれていく光景を日々見ている。
重度の身体障害だから誰からも愛されない。
重度の知的障害だから誰からも愛されない。
障害を言い訳に生きていない。
本当にありのままを愛されている。
もちろん、後悔や罪悪感にかられる親もいる。
そういった場合は子どもが社会につながると「この子と生きていけるかも?」と、その入り口に招くことが療育センターなどの役目ではないのではと感じている。
和を乱す
私は誰しもが愛される才能を持っていると思う。
生まれてから、これまでの過程を考えたら万人に与えられた才能だと思う。
(ここで例外があることはややこしくなるので避ける。そこも重く受け止めて仕事をしているので悪しからず)
でも、社会には障害者に対する差別に留まらず
あいつは嫌いだ
生理的に無理などいったことは
健常者⇄健常者でも起きている
言ったことをすぐ忘れる
喋っているとツバが飛んでくる
皮肉を込めて多数派を定型発達障害と言われる
・暇な時は誰かと一緒にいたい
・集団の和を乱す人を許さない
・社会の慣習にはまず従う
・はっきりと本音を言うことが苦手
・必要なら平易でうそをつく
こういった特性をもった多数派がダイバーシティーを壊しているのではないかと思う。
クラスに2人くらいはいたヘンな友達
昔はクラスに何人かはいた多動な子
この令和の時代には個別級の所属が主になっているのか?
自分自身も平成の時代を生きづらいと感じたこともあった。
そんなこんなは30年前くらいから各地で療育施設が必要と思われ
「普通」と言われるマジョリティーと過剰な合理的配慮に基づき交流が途絶えていたような気さえしました。
(最近は交流級もしっかりしてきたのかな?)
障害を理解するということ
全ての人間が何かの基準から見れば
知的障害なり運動障害がスペクトラムに連なっていると考えて差し支えない。
従って障害を理解するというのは
相手を理解するだけでなく
自分自身の特性への理解が深まることで
もっと他人が愛せると思います。
相手はそう簡単には変わらない。
だから自分が変わろう。
歩み寄るのはそこから。
私は他人を信じている
研究では
・個人の力が周りと劣っている、または異なっていると感じるのは5−7歳
・力関係に気づくと、子どもは弱者を守ろうとします。
・赤ちゃんは悪者より正義の味方をよく見ます。
これらをつなげると人間は性善説。
弱いものを守ろうとして、それを本能的に行動を起こす。
いつしか僕らは手を差し出すことを躊躇している。
マジでごめん。
もちろん、大人になれば状況を見て
介入してはいけない事態を判断している部分もある。
世の中は残酷かもしれないが
きっと君の力を必要としているよ。
ー全ての子ども達と全ての元・子ども達へー
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