背仲_新_のコピー2

【連載小説】 背仲  第1話

一、


高校二年の冬を、俺は今でも覚えている。



武道館の外はリクルートスーツをまとった学生達の声でざわついていた。黒いスーツに、黒い革靴に、黒い髪。それだけ黒ずくめになっていると、どの顔も青白く見えた。

昨夜、大学の入学式以来久しく着ていなかったリクルートスーツをクローゼットの奥から出した。胸元に白いシミがついており、しまった、と思ったもの、クリーニングに出す時間も残されていなかったため、仕方なくマッキーで塗りつぶすことにした。

日差しを浴びると、俺の胸元はまるで浮いたように変色する。見つかったら印象が悪いが、会場は薄暗い屋内のため、たぶん平気だろう。

3月2日、今日は大学近くの武道館で大規模な合同説明会が開催される日だった。どこにいても耳にするような有名企業が数多く出席するらしいが、俺自身、それで熱が入っているわけでもなかった。

キャンパスライフはあっという間に過ぎていった。だから就活だって、きっとすぐに終わるだろう。



「ごめん、俺決まっているわ」

智(さとし)の口からその言葉が出たとき、研究室に衝撃が走った。

「はぁ!?」

「どういうことだよ!?」

あんなに不真面目で落単王だった智が、もう既に内定を貰っているとは。しかも、そこそこ名の知れた都内のメディア企業だ。どうやら彼は、大学入学前からライターを目指していたらしい。

「最初は就職せずにフリーでやってくつもりでいたけど、向こうの人が俺のブログの記事を気に入ってくれてさ。フリーだけで食っていくのも大変だし、経験値を積むのにどうかって。インターンとかも何回か行ったんだけどなかなかおもしろいところだったからさ、OKしたんだ」

「え、てことはお前試験とか面接とか受けてないの?」

「面接は受けたけど、試験の方は免除だったかな。俺の記事もう見ているわけだし、それに、そういうお硬いテストみたいなやつ?あまり採用していない会社なんだ」

それから智は給料のことやボーナスのこと、何よりフレックス制度が導入されていて、仕事をする場所が比較的自由であるということを包み隠さず自慢してきた。その間、彼の顔から滲み出る「どやオーラ」に、このとき誰もが苛立ちを覚え、そして完全に圧倒されていた。

確か、今から一ヶ月ほど前の話だ。「就活」という言葉は知っていたものの、俺はまだそれを他人事のように思っていた。四年生になったら少しずつ始めればいい、なんとなくそう思っていたが、ゼミの同級生が、しかも智が、こうして確約された明るい未来を雄弁に話す姿を見て、ようやく「就活」が自分事であることに気づいたのだった。

「でもさ、お前卒業できるのかよ」

「大丈夫、なんとかするから」

「卒業できなきゃいいのに」

「死ねよ」

今まで暇さえあれば研究室に集まり、たわいのない話をしていたゼミの同級生たちは、この出来事を機にぱたりと集まらなくなった。おそらく皆、リクルートスーツと革靴を新調し、美容室に髪を染めに行ったのだろう。

俺自身も内心は焦っていた。焦っていたけれど、ゼミの仲間達のように、すぐに行動に移すことはしなかった。というよりも、できなかった。まず、何をすればいいのか見当がつかなかったし、久々に自分の未来について考えた俺は、この先ずっと続いていくであろう雇われ生活に、かなり滅入っていたのだ。

父親がサラリーマンをやっているからこそ、その想像の中の生活はかなりリアルに迫ってきた。取引先や上司に毎日頭を下げ、愛想笑いを繰り返し、溜まりに溜まった泥みたいなストレスを発散するために、記憶がなくなるまで毎日酒を飲む。

正直、いやだった。そんな願ってもいない未来のために「頑張る」ということが、俺にはよく分からなかった。



目の前の中年男性が、車の映像を流しながら自慢話を繰り返している。七三に分けられた前髪をワックスで針金のようにかため、浅黒い顔面は脂ぎっていた。そして、あの時の智よりも、もっと腹が立つ喋り方をしていることが、何よりも嫌だった。

「このエンジンはなんとわが社独自開発で___」

さらに嫌だったのは、周りの学生たちが、その自慢話に食らいつくように血眼になってメモを取っていることだった。浮いたらいけないと、俺も手元にメモ帳とペンを控えていたが、その中年男性の喋り方のくどさに参り、早々に帰りたくなっていた。

どうして周りの学生達は、そんなに必死でメモを取っているのだろう。独自開発のエンジンについて事細かくメモ帳に記すことによって、一体、それが何になるというのだ。

マッキーの下に潜むシミのような気分だった。黒をまとって周囲に馴染み、けれど、本質はかなり浮いていた。

結局、図書カードがもらえる条件である3社のブースを訪れ、早々に引き上げてしまった。様々な話を聞いたけれど、そのどれもが胡散臭く、智みたいな自慢げな表情ばかりが目について、1ミリも心に響かなかった。

抜け殻のような気持ちでアパートまでの帰路を辿る。リクルートスーツが体に重くのしかかり、革靴がぎしぎしと軋んでいる。ため息が止まらない。

これが夕方だったらまだしも、3社の説明しか聞かなかった俺は、腹立たしいほどに青い、真昼間の空の下を歩いている。重たい心が嘘のようで、とにかく情けない気持ちでいっぱいだった。俺には本当に未来なんてあるのだろうか。ああ、今にも死んでしまいそうだ。

すがる思いでポケットからスマホを抜き出す。憔悴し切った心を慰めてくれるアプリはないか、全てを忘れさせてくれるような笑える動画はないか、ただそれだけを願って電源を入れた。

起動し、画面がぱっと明るくなると、渦巻く空としんしんと光る三日月の絵がロック画面に映った。フィンセント・ファン・ゴッホの『星月夜』。ずっと昔から尊敬し、崇めてきた画家と作品だ。とても魅力的な絵だけれど、希望を見出せていない俺にとって、それはとても遠く見えた。


___分かっている。本当は自分にやりたいことがあることくらい。

分かっているが、もうそれは叶えられないということも、十分すぎるくらいに分かっていた。俺は、その道で勝負をすることができなくなったのだ。どうしても手が震えるのだ。あの時のことを思い出すと。


渦巻く背景の上に、3件ほどの通知が出た。おそらく武道館にいる間に送られてきたラインだろう。

あまり人とやりとりをする気分ではなかったが、通知上にメッセージが表示されないように設定している俺は、すぐにアプリを開いた。だから、メッセージ相手に『溝(みぞ)先生』と表示されているのを目にしたときは、度肝を抜かれた気分だった。

恐る恐るトークページを開くと、3件のメッセージが表示されていた。


(久しぶり。絵の方は順調か?)

(○○高校の旧校舎が9月に取り壊されることが決まった。敷地内の違う場所に建て直すらしい。)

(一度、帰ってこないか。一緒に飯でも食おう。)


ふと、無数の埃が耳の傍を横切ったような気がした。白い吐息が浮かび上がり、空(くう)に溶けてゆく。

湿ったカビの匂い。ほろ暗い部屋。日差しを吸収する髪。羽のようにえぐり出た肩甲骨。傷跡と赤紫の痣だらけの細い二の腕。どこかを見上げる、壁に映った彼女の影。


気づくとアパートに向かって全速力で走っていた。胃がムカムカし、喉が焼けるように熱い。猛烈な吐き気が俺を襲っていた。

何度も疼きながら部屋の鍵を開け、トイレに駆け込んだ。朝から何も食べていなかった俺の体からは絞っても絞っても胃液しか出てこず、しかし、息ができないほどに激しい吐き気と疼きはしばらくおさまらなかった。

便器の中のほとんど透明な吐瀉物を見た後、少しだけ気分が落ち着いた俺は、そのままトイレの壁に寄りかかった。手足に、体に、力が入らない。リクルートスーツに吐瀉物が跳ねている。今度こそ、クリーニングに出さなくては。


___どうして人には心があるのだろう。記憶があるのだろう。

それらがなければ、もっと楽に生きていけるというのに。未来に怯えたり、過去に後悔することも、ないというのに。


壁に寄りかかりながら、俺は呼吸だけを繰り返していた。このまま機械になれないかと思ったが、自分が永遠に人間のままで、あの時の記憶を一生抱えて生きていかなければならないことは、嫌でも分かっていた。




___高校二年の冬を、俺は今でも覚えている。

一つの命が消えてゆくさまを一番近くで見過ごした、罪深い冬だ。


第2話に続く





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