見出し画像

ラインを越えて

―人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼は言うのだった。そしてこうつけ加えた。「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ!」―

カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』より

 僕は映画が好きです。なんで、こんなにも映画が好きなのか。自分が映画を偏愛する理由はなんだろう。なんとなく、観てて楽しいから好き、では済まない何かがあるのです。

 映画の中。海の向こう、時代も人種も違う人に自分を重ねてしまう。犯罪者のことを少し好きになってしまう。自分の人生では到達しえない、最果ての景色を見せてくれる。映画はいとも簡単に、壁を破壊し、ボーダーラインを消します。そして、そんな壁やボーダーラインが幻想だったと教えてくれるのです。

 そんな映画は、必ずしも心地良いものではありません。目を背けたくなるような醜悪さや、“間違い”とされていることを見せつけられてしまうこともあります。特に、現代では韓国映画でそういった種類の映画が多く作られています。いわゆる、ハリウッド的なハッピーエンドではない結末。暗鬱とも言える重厚な空気。むせ返るような死の匂い。目をそむけたくなるような描写で僕たちを容赦なく撃ち抜いてくる、2000年以降の韓国映画は日本でも圧倒的な支持を得ています。

 そんな韓国映画の巨匠、ポン・ジュノや、日本映画界を背負っている監督の一人、山下敦弘監督の元で助監督を務めた片山慎三監督のデビュー作、『岬の兄妹』観てきました。

 映画好きと話していると、「日本で韓国映画のような、重厚で魅力的な作品が作られないものか」と話すことがたまにあります。この『岬の兄妹』は、その希望に答えてくれる素晴らしい映画でした。しかも韓国映画の模倣ではないオリジナリティがある。おそらく今村昌平監督にも強い影響を受けているのではないでしょうか。独特なユーモアは山下敦弘監督の影響を感じます。

 とある港町。片足に障碍があり、造船所で働きながら暮らす良夫と、自閉症の妹、真理子の物語。シャレにならないくらい貧しく、どん底で暮らす二人は、兄の良夫が職場をクビになり、生活が立ち行かなくなります。電気が止まり、生ゴミを漁り、ティッシュを食べるところまで追い詰められます。

 ちなみに僕も超極貧バンドマン時代に「少し高いティッシュは甘くて美味い」と友人と話したことがあり、二人がティッシュを貪り食う描写に「おっ!」となりました。僕は翌日の給料日まで所持金が完全にゼロ円という事があり、思案に思案を重ねた結果、冷凍庫で氷を作って食べるという行為に及んだことがあります。ま、この二人みたいな環境ではないんですけどね。

 話を戻すと、妹の真理子が体を売ってお金を得ていたことを知った良夫は、二人で生きて行くために女衒となり、売春で稼ぐようになるのだが……。というのが起承転結の“起”の部分。見る人によっては嫌悪感を抱かせるような醜悪さを見せつつ、美しい映像やユーモラスなセリフでグイグイと映画に引き込んでいきます。

 この映画、セリフがすごく良いんです。本当に面白い。観て数日たったいまでも思い出し笑いするくらい。僕は声を出して何度も笑ってしまいました。だから、確かに重く救いの無い話なのですが、あまり暗鬱に感じることはありませんでした。

 映画が動き出すのは、二人が売春で稼ぎ、マクドナルドのハンバーガーをメチャクチャな食い方で平らげ、部屋を塞ぐダンボールを剥がすシーン。湿った暗闇に浸された部屋に、眩しい陽光が射し込む。このシーンは生活に光が指した瞬間でもあります。これ以降、二人はある意味生き生きとしてくるのです。

 良夫は、障碍者として雇われているという身ではなく、自立しているという自覚が湧いたのでしょう。生きることをある意味楽しんでいるかのように見えます。海辺でコンビニの焼きプリンを食べているシーンや、プールサイドで缶コーヒーを一気飲みするシーン(数秒後少年たちに絡まれるんですけど……)など、なんというか、微笑ましくてニヤついてしまいました。

 妹の真理子は、自己の承認欲求が満たされているのか、積極的に売春をしているように見えます。特に母の形見であろう口紅を塗り、恍惚とした表情で鏡を見るシーンがありますが、とても印象深く残りました。また、小人症の男との逢瀬は、仕事を越えた愛情すら感じます。また、兄の良夫もそうですが、発言がいちいち面白い。

 そんな二人を観ていて、僕はこの二人が好きになってしまったのです。確かに二人がやっていることは完全に間違っている。僕は“間違い”というボーダーラインを飛び越えてこの二人が好きになってしまいました。正直現実にいたら兄の良夫には絶対近寄りたくありません。障碍があるからとかそういうことでなく、あの水のないプールの出来事とか(最低で最高だったけど)、幼馴染のハジメ君にお金を借りる時、「ハジメ君は俺と真理子が餓死してもいいと思ってるんだ…」とか言えちゃう感じとか、なんというか、バカで愚かで性格悪いんです。でもそんな良夫でも、一握りの優しさや苦悩を抱えている。僕は、現実でもある一面を見て人のことを断罪することなんて出来ません。そしてこんな二人を好きになれるのが、映画であり、僕が映画が好きな理由の一つです。

 『岬の兄妹』を語るときに比較したくなるのが、是枝裕和監督の『万引き家族』です。僕は正直『万引き家族』はあまり心に響きませんでした。

 『万引き家族』は、“物語”なのです。ストーリーの中で、登場人物が“選択”をして、物語が進んでいく。当たり前の構造。ただ、『万引き家族』はあまりにもそういった物語構造がしっかりしているので、ガッチリと固めたフィクションという感じがしました。現実社会へのテーマやメッセージが明確に打ち出された、フィクション。映画鑑賞後に「こういう社会問題があります。人間の絆とはなんでしょう? さぁ、あなたはどう思う!?」と詰め寄られた気がしました。

 『岬の兄妹』の二人に“選択”の余地はありません。A、B、Cが差し出させて選ぶのではなく、良夫と真理子にはAしか差し出されず、それを選んでいるだけ。ただただ、自分たちの手持ちのカードで出来ることが一つで、それを使い生きているだけ。「あそこで違う選択をしたら……」というifはこの映画には存在しないように思います。そういった意味で、僕は反物語的だと思うのです。ただ、反物語的であるがゆえに、強烈なリアリズムがある寓話に仕上がっているのだと思います。“物語”としてしっかりしすぎている代わりに、リアリティを失っている『万引き家族』と対象的だと、僕は思います。

 そして、『岬の兄妹』の軸にあるのは、社会的なメッセージではなく、人間の暮らしを描く、人間が生きることを描くという、とても広義なテーマがあるように感じます。それは僕たちの日常にも落とし込めるテーマです。だから、『岬の兄妹』は優れた寓話なのです。

 まぁ、色々書きましたが、僕は良夫の「まだまだ出るぞ〜!」を思い出して、クスクス笑いながらこの映画を思い返しているのです。この兄妹は、間違ったことをしている。でも、僕は二人が好きですし、笑顔でいて欲しい。僕の友人でも、「それはちょっとなぁ……」と思うようなことをする人は、います。でも、僕はそんな人でもやっぱり笑顔でいて欲しいと思うのです。

 映画と現実のラインを越え、“間違い”というラインを越えて、人間に寄り添うことを考える機会を与えてくれる、素晴らしい映画でした。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?