優しいひとになるために

 静かに降る雨がむせ返るような夏の熱気を鎮めている、ある日の夜。僕は中野駅前の交差点で信号待ちをしていた。しぶきを上げて通り過ぎるタクシーや、歩く人の流れをぼんやりと眺める。そんな光景を見ていると、今日も夜は平穏に過ぎていく、と思えてきて穏やかな心持ちになるのだ。そんな風に惚けて雑踏を眺めていると、駅前を駆けていた小学生くらいの小さな男の子と、駅の階段から降りてきたスーツ姿のおじさんが、出会い頭に激しくぶつかった。男の子は転び、濡れたコンクリートに尻もちをついた。思わず「痛っ」と僕は心の中で言ってしまったほど、二人は激しく接触していた。
 おじさんは、痛そうに膝を抱える少年を一瞥すると、何も言わずそのまま雨降る町の中に歩いて行ってしまった。なんてこった。まだ小さくあまりに非力な子供、おじさんからすれば同い歳くらいの息子がいてもおかしくないだろうに、彼はその存在を無視し、平然と歩き去ってしまった。少年はしばらく濡れた路面で膝を抱えて座り込んでいた。道行く人々も、無関心を装い、誰も声をかけない。
 僕は周囲の大人の冷徹な眼差しに恐怖を感じた。そして少年が心配で仕方がなかった。怪我はないだろうか、誰も助けてくれない状況に絶望していないだろうか。少年がさしていた小さな可愛らしい傘は、無造作に濡れた路上に転がって、その傘すら誰も拾う人はいなかった。
 点滅する信号機。僕は決心した。信号が青に変わったら、彼のところにかけつけて、声をかけてあげよう。彼が大人を、世界を憎む前に手を差し伸べてあげよう。信号が青色に変わり、さて行こうかとおもった矢先、少年はすっくと立ち上がり、傘を手に取って人混みの中に駆けて行った。

 ああ、少年に光あれ。きみは強いな、と感心したけれども、ぶつかったおじさんや周囲の人の無関心による不気味ともいえる恐怖は消えなかった。自分とは関係ないかも知れないけれど、まるで少年がそこにいないような、風景の一部になってしまっているような振る舞い。悪意では無く、冷徹な無関心の靄が立ち込めているような、居心地の悪さ。東京の嫌な一面を見てしまった。少年よ、君は周りの大人みたいになるな。格好悪いからな。優しい人になれよ。優しい人は強くてかっこいいんだぞ。きっとモテるぞ。
 僕はやりきれない気持ちのまま総武線に乗り、車窓から町並みを眺めていた。穏やかだったはずの夜にひっかき傷が出来て、なんだか心がヒリヒリと痛むような気がした。窓の外、家々の明かりが後方に流れていくのを眺めていると、同じような雨の降る日の友人の行動を思い出した。

 10年以上も前の夏のこと。その頃僕は東京23区から離れた、西の郊外に住んでいた。友人たちと一軒家を借りて、男3人でルームシェアをしていたのだ。まともに働きもせず、最低限生きていくためのお金を稼ぐために週に3日ほどアルバイトにいく。僕はあの頃の光景を、今でもはっきり思い出せる。苦いだけのインスタントコーヒー。テーブルの上、吸い殻が山のように堆積した灰皿。隣の家から聞こえる、子供の泣き声。僕たちは音楽を聞いたり賭けトランプに興じたり、何の生産性もない時間を過ごしていた。
 ある晩夏の熱帯夜。僕たち3人は駅前のファミレスでたらふく夜食を食べ、ドリンクバーのメロンソーダを飲みながらバカ話に興じていた。時間は深夜、終電もとっくに過ぎ去った時刻だ。さてそろそろ帰ろうと外に出ると、相も変わらず穏やかに振り続ける雨。週末ということもあってか、酔ってふらつきながら帰路に就く人々が何人かいた。各々が傘を差し、濡れた夜の道を歩いていた。駅ビルの煌々としたライトが眠らない町を照らし、濡れた路面はその猥雑な光を反射させて汚らしく輝いていた。

 駅前から伸びるレンガ通りを談笑しながら歩いていると、前方からスーツ姿の1人の女性が傘もささずに歩いてきた。こんな時間に女性ひとりで、しかも駅の方に向かうなんて、まるで世界の流れそのものに逆らっているような印象すら覚えた。その女性の艶やかな長い髪に付いた雨粒は、まるで宝石の様に、街灯の光りを受けて美しく輝いていた。綺麗な人だな、と僕ら男3人の視線は釘付けになった。と、その時、友人の1人が、「すいません!」と声をかけた。
(馬鹿!ナンパしてどうするんだ!)
 と思った矢先、
「よかったらこの傘使って下さい」
 と女性に傘を強引に渡したのだ。彼女は唖然としながらも、「ありがとうございます」と傘を受け取り、微かな香水の香りを残し夜の街の中へ消えていった。僕が「お前……すごいな」と言うと、「いや、とっさに声をかけちゃったんだけど、もらってくれてよかったわ」と照れくさそうに笑っていた。僕は内心、「負けた」という圧倒的な敗北感を味わっていた……。

 少年よ、君はこういう粋な男になるんだぞ。かく言う僕は、今のところなれていないけれども。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?