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組織が陥る7つの学習障害とは?

前回の記事に引き続き、ピーター・センゲの「学習する組織」からの学びをまとめます。

今回は組織学習における7つのアンチパターンのお話です。どれも私たちが無意識に陥ってしまう障害であり、改善にはこの障害を認識することが第一歩となります。

①私の仕事は◯◯だから

私たちは学校でも職場でも真面目で忠実であることを良しとされる環境で育っています。そのために「自分が何者であるか」と「職務」を混同してしまいます。

ある米国の鉄鋼メーカーが工場を閉鎖し、解雇される職工に新しい職につくための訓練を施したが、「おれは施盤工なんだから」と根付かなかったそうです。この時、職工たちは深刻な自己認識の危機(アイデンティティ・クライシス)に陥っていました。

自動車メーカーの例では、全て同じボルトで良いところを、異なる技術グループが「自分たちの」部品だけを担当したことで異なるボルトが使われ、それが全体のコストを膨らませていました。それぞれのグループでは自分たちの組立工程は問題なく機能しているので、自分たちの仕事はうまくいっていると考えていました。

組織内の人たちが自分の職務にだけ焦点を当てていると、他との相互作用により生み出される結果に対して責任を持つことができません。その結果、期待通りにならなかった時に「誰かがへまをした」と考えることしかできなくなってしまうのです。

②悪いのはあちら

私たちは物事がうまくいかない時に、誰かのせいにする傾向があります。①の「私の仕事は◯◯」症候群の副産物として「悪いのはあちら」症候群が生まれてしまうのです。

自分の職務だけに焦点を当てていると、職務の境界を越えた影響か見えなくなり、これらが跳ね返ってきたときに、それは外的要因による新たな問題だと誤解してしまうのです。

しかし、「あちら」と「こちら」はともにシステムの一面です。「悪いのはあちら」症候群に陥ると自分たちと「あちら」の境界をまたいで、「こちら」側で活用できる解決策を見つけることが不可能になってしまいます。

③先制攻撃の幻想

「積極的になる」ことが良しとされており、状況が手に負えなくなるまで待ってから行動を起こす「受け身」は避けるべきと考えられています。しかし、たいていの場合、積極的に見えても実は受け身なのです。

ある損保会社の経営チームが支払い和解をねらって多くの訴訟を起こす弁護士たちに、「これ以上好きにさせない」と法務部門の社員を増強し、示談ではなく陪審員裁判に持ち込む計画を立てました。しかし、勝訴の割合、直接費、間接費、係争期間、その他あらゆるシナリオを検討しても、必ず総費用が増加することがわかりました。増加する訴訟の費用をペイするだけの数の裁判に勝つことは不可能だったのです。

それはビジネスであれ、政治であれ、「あちらにいる敵」と戦おうとして攻撃的になる時、すでに受け身ということです。真の積極策は、私たち自身がどのように自身の問題を引き起こしているかを理解することから生まれます。そして、それは私たちの考え方から生み出されているのです。

④出来事への執着

組織で会話の大半は「出来事」に関する話題が占めます。「昨日、四半期の業績低調が発表されたのを受けて、ダウ平均株価は16ポイント下落した。」このような説明はその通りかもしれませんが、その背後にある長期的な変化のパターンに目を向け、そのパターンの原因を理解することを妨げます。

原始人であれば「トラが自分に襲いかかろうとしている」という出来事にすばやく反応する能力は重要でした。しかし、現代に生きる私たちにとって、組織にしても社会にしても、脅威は突然の出来事によってではなく、ゆっくりした緩やかなプロセスによるものなのです。

人々の思考が短期的な出来事に支配されていると、組織内で根元から未来を創造するための学びは起こりません。

⑤ゆでガエルの寓話

企業の失敗に関するシステム研究において、徐々に進行する脅威への不適応が非常に多いことから「ゆでガエル」の寓話が生まれました。煮立った湯の中にカエルを入れると瞬時に外に飛び出しますが、常温の水の中にカエルを入れ、じわじわと温度を上げていくと、カエルはどんどん意識がもうろうとして、そのままゆだってしまいます。

米国の自動車業界は1960年代、北米で圧倒的な強さを見せていました。1962年は日本メーカーのシェアは4%にも満たず、脅威と見なされていませんでした。1967年に10%、1974年に15%となっても、まだ考えませんでした。1980年代に日本メーカーのシェアが21.3%まで増えた時、米国の大手メーカーは自らのビジネス前提を批判的に捉えはじめました。1990年に25%、2005年には40%に近づきました。このカエル(米国自動車メーカー)が体力を取り戻し、熱湯から脱出できるかどうかは定かではありません。

ゆっくりと徐々に進行するプロセスを見ることを学ぶには、わずかな変化にも注意を向ける必要があります。

⑥「経験から学ぶ」という妄想

最も力強い学習は直接的な経験から得られます。より具体的にはある行動をとり、その行動の結果をみて、新たにまた別の行動をとる試行錯誤によって得られます。しかし、行動の結果を観察できないときはどうでしょうか? 行動の結果が時間的や空間的に遠く離れているときは?

私たち一人一人には「学習の視野」があり、時間的にも空間的にも、ある一定の幅の視界の中で自身の有効性を評価します。行動の結果が自身の学習の視野を超えたところに生じるとき、直接的な経験から学ぶことは不可能になります。

つまり、「私たちにとって最善の学習は経験を通じた学習だが、多くの場合最も重要な意思決定がもたらす結果を私たちが直接には経験できない」というジレンマを抱えているのです。

組織の縦割りについても述べられています。組織を細かく分断することは意思決定が及ぼす影響を限定し、理解しやすくなります。一方で、会社内の最も重要な問題である、職務の境界をまたぐ複雑な課題の分析が、危険な作業となるか、あるいはまったく行われないものとなってしまうのです。

⑦経営陣の神話

こうしたジレンマや障害と闘おうとするのが、組織の様々な職務や専門分野を代表する「経営陣」です。経営陣は一丸となって、組織の垣根を超えた複雑な問題を解決するはずです。しかし、典型的な経営陣にこれらの学習障害を克服できるでしょうか?

たいていの場合、企業内のチームは格好悪く見えることは避け、あたかも全員がチームの全体戦略に従っているようなふりをする「まとまったチーム」という体裁を保ちます。そのイメージを保ち続けるため、意見の不一致をもみ消し、大きな疑念を抱えた人は公言を避け、共同決定は、全員が容認できるように骨抜きにされた妥協案か、1人の意見がグループに押しつけられた案にすぎないものになります。

これはメンバの根底にある前提や経験の違いを、チーム全体がそこから学習していく機会を奪います。クリス・アージリスによると経営陣は集団での探求を本質的に脅威と感じます。学校では答えがわからないと認めてはいけないと教え、企業では複雑な問題の解明に秀でたものではなく、自分の考えの主張が上手なものに見返りを与えます。

私たちはたとえ分からないと思っても、ほかの人にそう察せられないよう自分自身を守ることを学びます。そのプロセスそのものが、私たちを脅かすような、いかなる新たな理解をも遮断してしまいます。その結果が自らを学習から遠ざけることに堪能な経営陣であり、アージリスは「熟練した無能」と呼びました。

学習障害に陥らないために

歴史上も私たちが生きている現代も、学習障害に陥る例はたくさんあります。学習する組織の5つのディシプリンは、学習障害への処方箋となり得ますが、まずは、学習障害を明確に把握することが必要となります。

学習障害は日常的な出来事の中で見失われてしまうことが多く、私たちが自身をシステム全体の一部として俯瞰して見ることで、どんな障害が起こっているかを認識する必要があるのです。





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