
月の利益は8万円。暮らしのすべてがわたしの仕事。
はろーはろー、岐阜県中津川市で写真家百姓をしている小池菜摘です。
一週間に一本ぐらいは書きたいな、と思って書きはじめたけれどぜんぜん公開できないでいて、下書きにもう10本も溜まってる。どうしよう。
仕方ない、こわごわでも、やると決めたのだ。
好きなことを仕事にしよう
という綺麗な言葉を盲目に信じて、私はひたすらに好きなことを仕事にしてきた。
結果的には会社員を2012年にやめてから3年後から徐々に稼げるようになり、7年経った今は夫婦の目標としてはとりあえずの合格ラインまで収入を得られるようになった。
その目標は利益ベースで月8万。
パートをやっていれば週3、6時間ぐらいで得られるこの金額を、年中無休でやりつづけて維持していくようにコントロールしている。
さて、これを聞いて信じられないと思うひともいると思う。
しかし私は今、最高潮にしあわせだ。
働いている時間でいうとまあ、結構な時間になるのだろうと思うけれど、暮らしていればそれが仕事になって、それが全部が全部楽しくて、めっちゃ稼げたり稼げなかったりやることによって利益は全然違うけれど、とにかくやることなすことやりがいばっかりである。
タダではやらない
たったひとつ、自分でなにが何でも守り続けると誓っているルールがある。
それが、絶対に仕事を無料では提供しないこと。
頼まれた仕事に関しては、それぞれの仕事の種類によって自分が身につけてきたスキルを鑑みたギャランティを提示して、それをのんでもらえればお請けする。
写真に関してはわたしはとっても良い写真を撮る。特にライブ感のある、カメラマンが操作不可能な現場にはめっぽうつよい。誰かが何かをしているところを全く邪魔せずかつ伝わる形でそれを画にするのが得意だ。
例えばプライベートで撮影した写真を欲しい、と言われたら域内のひとなら540円、それ以外のひとなら1,080円を支払っていただけるなら、とお渡ししている。(商用はまた別)
安い、安すぎる。カメラマン界の価格破壊だ。
億万長者になりたいわけではないので金額は必要とするひとが払えるだけの額でいい。
そうはいってもわたしの写真には著作権が当然存在して、それを利用するからには一定の金額をしはらって貸与される、という感覚を持っていてほしい。特に田舎は著作権に関して無法地帯だ。東京で当たり前にやりとりされる契約時の会話なんて、聞いたこともない。こちらがなにも言わなければ多分永遠に勝手に使われる。無断使用の請求書を送りつけるのはわけないが、540円程度のことで仲違いなんてしたくもない。
「ちょうど良いカメラマンがきてくれたわね〜」
なんて冗談じゃない。わたしはカメラマンだからこそそれで生活しているのだ。
パン屋の焼いたパンを、絶対に黙って持って行ったりはしないひとたちなのに。農家のつくった野菜を、差し上げようとしてもお金を渡すようなひとたちなのに。
とにかくわたしの写真は有料だ、と言い続ける。
「小池に撮られると金を搾り取られるぞ」なんて言われても、そんなことに屈している場合ではない。
その写真が、お金を払う価値のあるものにすることこそがわたしの仕事だ。
お菓子も、野菜も、提供する場も、すべてお金を払う価値のあるものにする。
その責任こそがこの仕事なのである。
Photo MISAKI
無料でもいいからやりたい、の罠
NPOで働く、というのがこの地域でのキャリアのスタートだったからか、わたしの周りにはボランティアだとか月1-3万円だとかで、自身のリソースを惜しみなく割いているひとたちが本当にたくさんいる。
そこには想いがあり、強い意志があり、強烈な愛がある。
本当に素晴らしいことだと思う。
しかし今のところ、その中の特に若いひとたちがずっと幸せであった図を、わたしはみたことがない。(本業を引退してから余生でもってそれを幸福にやっているおじいさんおばあさんはたしかにいる)
たったの4年だけれど、その短い間にどこかのタイミングで心身のバランスを崩してつぶれたり、理解してくれないひとたちを糾弾したりしだして、とてもじゃないけれど幸せそうではなくなる。
それらの人々は本当に意識も高く、スキルもあって、知識も豊富だ。
わたしからすればすぐれたひとにしか見えない彼らだから、ほんとうに今すぐにでもお金をもらいながら続ける術を思いつくのだけれど。
それを伝えてみてもみなさん揃ってこういう。
「この仕事の価値は、お金じゃはかれないんだよ」
そうかあ、というしかない。
いいんだ、それであなたがしあわせに続けられるなら。
でもほんとうに、みんながみんな苦しそうだ。
「持続可能性」を声高に叫ぶなら、自身の仕事が持続可能なのか、もう一度考えてほしい。「無料でもいいからやりたい」程のその高い志は、ぜひ続けていってほしいとわたしは思う。
そして、その理想や価値観を、他人に押し付けるのは本当にやめたほうがいい。
話し合って染めあげるようとするひとも多いが、そんなことは諦めたほうがいい。価値観が違う、ということを認め合う以外に平和なんてないのだから。
ああ、脱線してしまった。
そう、それで誰も苦しくない場所をつくりたくて地域のコミュニティをはじめるのだった。タイミング的に頭の中はけっこうそのことでいっぱいだ。
理想郷ではあるけれど、きっと責任をもって成り立たせたい。
小池菜摘にとって仕事とは
わたしはこれからも百姓であり続ける限り、いくつもの仕事をやることになる。
ただし何でも屋ができるほど精神的に器用ではない。
①自分を表現すること
②だれかを応援すること
③自然と調和していること
の3つを満たすことはどんどんわたしの仕事としてやっていく。と決めた。
自分を素直に表出させられない現場はわたしにとってストレスだ。
特に写真とお金はわたしにとってのアイデンティティだ。
それらを覆い隠さないと会話もできないような現場はノーサンキューだ。
だれかを応援する気のない、一人勝ちを狙っているひとの何かを手伝うなんてまっぴらごめんだ。自分さえ満たされ儲かれば、誰かが不幸になることを厭わないひとって相変わらずしっかり存在する。
そういうひとには言葉ひとつ貸したくもない。
自然を邪魔しない、ことは中津川で暮らしているから意識できるようになったことだけれど、彼らは自分で修復できるし、消えることもできる。自然の意思をできるだけ阻害しないかたちを目指したい。なにをするにも。
何かをつくるにもきっと、共存するすべはどこかにあると信じて探し続ける。
大体の課題は、一朝一夕で解決できるものではない。ひたすら実直に続けていくことが必要になる。
だからわたしは続けるために対価を受け取り続ける。関わるひとすべてに感謝して、価値を提供し続ける。
死ぬまでこの意思を貫き通せばもしかしたら、夢は叶うかもしれない。
だから、わたしは死ぬのがとってもたのしみだ。
編集:岡山史興