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生活者のための日本語教育と日本語支援のあり方について ③: 人間というこの何ともことばに依拠した存在 ─ そして、日本語教育のカリキュラムの標準化の問題

1.昆虫や動物の個-性
 人間の個-性ということを考えてみたいと思います。「個性」とするとすでに人間だけの話になってしまいますので、「個-性」としています。「その個体としての特別な性質」という意味です。まずは、昆虫や動物の個-性から。
 昆虫や動物に個-性はあるでしょうか。例えば、セミのことを考えてみましょう。クマゼミというのをご存じでしょうか。夏に早朝から「シャンシャン」と鳴く何ともうるさいセミです。

クマゼミ

 虫好きの人でない限り、「すべてのクマゼミは、同じ大きさ、胴体と羽根の比は同じ、羽根の文様の色合いも同じ」と思っているでしょうね。しかし、実際には、個体によって異なっています。大きさも違う、胴体と羽根の比も違う、羽根の文様の色合いも微妙に違います。(羽根の文様自体が同じか異なるかは「不明」!) つまり、個々のクマゼミは、身体的には個-性的なのです。
 次に、クマゼミたちの振る舞いは個-性的でしょうか。これはぼくにはよくわかりませんが、振る舞いの基本的な身体的メカニズムは同じだろうと思います。ただ、そうは言っても、例えば子どもがクマゼミを捕まえようと網を近づけたときの逃げるタイミングは個々のクマゼミによって異なります。また、飛んで逃げるときの軌道も「セミによって」異なります。なので、振る舞いも個-性的だとも言えます。ただ、その個-性は、その個体が置かれている微妙な環境の要因に左右されているのかもしれません。気温、湿度、止まっている木の種類、空気のかおり、風、当該個体の成長段階(昨夜成虫になったばかりなのか、もうすぐ命が尽きてしまう段階なのか、など)の要因。さらに言うと、そのとき、そこで、生を営んでいるという意味では、すべての生命体の生きること=振る舞いは絶対的に個-性的です。
 動物の個-性についても、こうした昆虫の場合と同じことが言えます。そして、動物の中でも脊椎動物で群れで生活するようになると、個体としての振る舞い方の上に、群れ=社会の中での振る舞いという要因がかぶさって、「より複雑な」振る舞いをするようになります。ここに言う「より複雑な」というのは、「(この)群れ=社会の中のオレ」という自己位置づけに基づく振る舞いが個体としての(勝手な!?)振る舞いにかぶさってくるということです。そして、そうした社会性動物においては、身体の動き、そしてやがて顔の動きとそれが作る原初的な表情などを仲立ちとして、群れ=社会の中での活動や行為の相互調整が行われます。そうした社会での振る舞いということが生じてくると、個々の個体の社会的な個-性がはっきりと現れてきます。
 *社会的な昆虫がないわけではありませんが、その議論は省略。

2.人間の個-性と言語的な振るまい
 次に、人間のことを考えましょう。
 人間においては、身体的な個-性、個体としての振る舞いの個-性、社会的な振る舞いの個-性はもちろんあります。同じ身体を持ち、同じ振る舞いをする複数の人というのは考えにくいでしょう。もちろん、「似ている」ということはあるのですが。
 ここからが本記事の主眼ですが、人間は身体の動きや顔の動きだけで個-性を示すのではなく、デリケートな身体の動きや顔の表情を伴いながらの言語的な振る舞い、つまり言語で個-性を示します。
 ことば(とデリケートな身体の動きと顔の表情)を仲立ちとして一定の個-性を示しながら集団=社会の中での活動や行為の相互調整を行うようになるというのは、人間という動物は、自然的な世界ではなく、象徴的な世界(自然的な世界を土台としながらもその上に人間たち自身によって人間たちのために創り上げられた仮想的な世界、文化や文化的世界と呼んでもよい)で生きる動物になったということです。
 一旦象徴的な世界を創り上げた人間たちは、象徴的な世界をますます増幅していきました。書記言語による象徴世界の増幅、人間の知の発展(例えば科学の発展)による象徴世界の増幅、哲学や思想や文学の発展による象徴世界の増幅など。そして、そのように言語を素材とした象徴世界の増幅に従って、各人間の存在や個-性もますますその人の言語的な振る舞いに依拠するようになりました。
 現在では、人間の個-性というのはその人の言語的な振る舞いによってこそ示されると言っていいでしょう。つまり、その人が何を話すかこそが、その人の個-性の中核とも言うべき重要な部分を作っているということです。
 ここまでの議論をまとめると、以下のようになります。

                  昆虫    動物    人間    
(a) 身体的な個-性           ○     ○     ○
(b​) 個体としての振る舞いの個-性    ○     ○     ○  
(c) 社会的な振る舞いの個-性      ×      ○     ○
(d) 言語的な振る舞いの個-性     ソモソモナシ   ソモソモナシ    ◎
(e) そのとき、そこで生きている    ○     ○     ○
   という個-性

3.「わたし」を紡ぎ出す言葉
 ここで注目しているのは、言語的な振る舞い「方」ではなく、言語的な振る舞いです。言語的な振る舞い=何を話すか、です。どのように話すか=言語的な振るまい「方」ではありません。
 それぞれの人は、その人がこれまで生きてきた個人史と個人史の物語を持っています。また、自身を取り巻く家族や友人や旧知や同僚などとともに作るそれぞれの世界があり、それに属しています。そして、またそこでさまざまな出来事が起こり、それが自身の身近な最近のエピソードとなります。また、あり得る将来の展望や、夢なども描いています。そして、それらはすべて個-性的なものです。そうした物語、エピソード、展望、夢などを内包している存在、そして時にそれらを語る存在それが人です。
 一人ひとりの人というのは、言葉によって紡ぎ出される、「わたし」の物語の主人公なのです。そして、一人ひとりの人にとって第一に重要なのは、そのような「わたし」を紡ぎ出す言葉なのです。そうして獲得された言葉は、その人の「人格の声」となるのです。

4.日本語教育における「人」の捉え方
 外国語教育は、1980年頃から、文法や語彙などに注目して教える教育から、実際のコミュニケーションを運営できる能力の育成へと変わりました。日本国内で行われる外国人に対する日本語教育もその例外ではなく、今は実際のコミュニケーションが大いに注目されています。
 しかし、実際のコミュニケーションが注目された結果、日本語教育では、「人」を、生活のための必要な用を満たす存在、仕事の上での必要な行動を達成する存在、というふうにただ目的主義的に捉えるようになってしまっています。これは、人間観(「人」の捉え方)としてあまりにも偏狭です。
 上で論じたように、言葉の重要な機能は、「わたし」を紡ぎ出すことです。そして、一人ひとりの人は、家族や友人や旧知や同僚と交わって、言葉を交わしてお互いのことを話して、人生を分かち合いながら、一人の人としての人生を送っています。言葉はそうしたことに直接に関わっています。
 現在、日本語教育を所管している文化庁を中心として、日本語教育のカリキュラムの標準化が進められています。しかし、残念なことに、そこでは、生活者であれ、就労者であれ、留学生であれ、日本語学習者が目的主義的に偏狭に捉えられ、ただ実用に生きる人間として捉えられています一人の個-性のある人として捉え、一人の個-性のある人として自身を日本語で紡ぎ出すという部分にはまったく目が向けられていません
 現在の方向で日本語教育のカリキュラムの標準化が進むと、自らの人格の声を日本語で発することをさせない非人間的な日本語教育が各方面で拡がってしまいます。日本語教育の「大危機」です。


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