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僕らは、好きという感情を知らないはずなのに誰かを好きになる

自分の好きなことを掘り下げる企画に参加している。

僕は恋バナが好きなので、恋愛をテーマにしてみた。

1回目の記事はこちら。

今回は、「人を好きになること」に触れてみる。

人はなぜ、人を好きになるのか。

恋に落ちるとか、

頭から離れないとか、

目を奪われるとか、

胸が苦しいとか、

気づいたときには、誰かを意識している。

ドキドキを「吊橋効果」といって、恐れから心臓の鼓動が高まるのを恋と勘違いすることもあるようだ。

とはいえ、ドキドキしているから誰かを好きになるとも限らない。

静寂の中で、ただ自然に誰かが心に入ってくることを許した人もいるだろう。

そもそも、好きなんて感情は誰にも教わっていない。

僕たちがなんとなくわかっているのは、喜怒哀楽なのだ。

誰かを好きになることは、喜びかもしれない。

誰かに嫉妬したり、目の前の今すぐ手に入れたい輝かしいものを手にできない、はがゆさからくる怒りなのか。

なぜあの人の隣に自分はいれないのか、はたまた自分の無力さに哀しみを覚える人もいるだろう。

あるいは、楽しいと思う人もいる。

僕は「好き」については、人間の本能がいつも眠っていて、恋をすると覚醒し、暴走を始めるようなイメージを持っている。

脳科学でいえばアドレナリンの分泌による興奮状態らしい。

脳波の研究によれば、親が子を想うときや、ドラッグで有頂天になっているときと波長がとても似ているとのことだ。

とにかく、科学的にも平静でいられないことがわかっている。

ただ、暴走から「好き」に変換するとしたら、その間に何があるのだろう。

何かを感じ、意識できる感情が確かにそこにあり、どこかで「好き」に変化している。

僕たちは「好き」という感情を知らないはずなのに、なぜ認識できるのだろうか。

好きに込められたものは、暴力とも言える強い感情ではないか。

もしかすると、愛でるより先に、めちゃくちゃにしたい衝動があるのかもしれない。

その、めちゃくちゃにしたい本能的な想いは一瞬にして消え去る。

そして「大切にしたい人には優しくする」と頭で考える。

やがて、根底に押し込めた想いは、嫉妬やヤキモチと呼ばれる現象に繋がってくるのだろう。

好きになった人は独り占めしたいということだ。

どれだけ温和で優しい人も、あまり自分の恋人と異性が仲良くしていると、ほんの少しだけ眉をひそめることがある。

冷静でいる人ほど、自分の中で爆発した強烈な愛情を忘れかけている。

恋愛感情は隠せるものではない。

覚醒している状態をどれだけ表面で取り繕っていても、ほころびは必ず出る。

鈍い男性は心のほころびを察知できないことがある。

女性は、自分にも他人にも勘がするどい。

この、「勘」についても研究は進んでいて、勘は偶然生まれたものではなく経験の積み重ねのようだ。

男性脳と女性脳のちがいとして、経験を引き出せるかどうかに大きく差がある。

女性脳はストックの扱いがうまい。

ただ、冷静にストックを用いて対処できるかというと、そうではないから人はおもしろい。

感情には起伏があり、感情は理性を上回る。

女性脳を持つ人は、感情の起伏が激しい傾向にあるので、感情に身を任せがちなのである。

鈍い男性脳は、鈍いゆえに冷静でいられることもある。

本当によくできている。

ところで、好きにも種類があるだろう。

恋人としての「好き」、友人、家族、尊敬する人としての「好き」などだ。

「好き」を因数分解すると、あらゆる「好き」が存在すると思うけれど、そこには自分にしかない「好き」があるはずだ。

たとえば、尊敬を恋愛感情とすり替えてしまう現象はあらゆる場面で起こる。

学生の頃、学校やアルバイト先で先輩を好きになったことがある人は多いだろう。

あるいは、教師や塾講師はどうだろうか。

尊敬というのは実に不思議なもので、尊敬できるということは自分もそうなれる可能性が高い。

尊敬、つまり誰かのいいところが見えるということは、自分の中に「見ようとする自分がいる」ということなのだ。

意識できることはとてもすごいことで、大小を問わず自分の中に意識があるからこそ為せる技だ。

自分の中にいる自分が具現化されたものが、尊敬できる人たちなのである。

ただ、ここでの意識は、僕たちが期待しているものと少しズレる。

個人的には、尊敬は恋愛とはちがうと感じている。

とはいえ、先ほどから言っているように僕らは「好き」を知らない。

誰かにとっての「好き」が尊敬であるならば、それを恋愛として捉えてもなんら不思議ではない。

最近、誰かを好きになっているだろうか。

あまりにも恋愛がコンテンツ化しすぎて、今や恋愛は「他人事」になっている人もいるかもしれない。

他人事とはなんのことかというと、世間と比べてその人を見ることだ。

テラスハウスやバチェラーと現実を混ぜることもそうである。

そして、SNSが当たり前になりパートナーとの間で何かをやらかしてしまうと仲間内にすぐ広がる。

アイデンティティの喪失を恐れ、思い切った行動に出れない人で溢れている。

というより、何かトラブルがあったほうがおもしろいと期待されるのだ。

恋愛というよりは、新しいゲームを提供してくれる人を求めるだけなのであろう。

人を好きになり恋愛となっていくのは、ただのゲームなのだろうか。

僕はそう思わない。

恋愛はRPGではなく、制限がないと考えるからだ。

僕は結婚8年目だけれど、今だに妻を好きになったときは告白している。

人としての妻を好きになることとは別に、新しい一面や改めて好きな部分を噛み締めたとき、彼女を好きであることを実感するのだ。

いくらでも、たったひとりの人を好きになれるのである。

また、恋愛が始まったわけでもないのに妄想で恋愛を済ます人がいる。

あきらめではなく、本気で妄想の中で恋愛し、それで満足なのだ。

いずれにせよ、僕たちは恋愛を知らない。

恋愛という虚像をそれぞれが思いたいように思っているだけだ。

むしろ、それでいい。

だからこそ僕は、恋バナが好きなのだ。

その人にしかない「恋愛」と名前をつけた物語がある。

誰かを好きになること自体、奇跡のようなものだ。

「好き」はどんな感情も許してくれる。

何かが確かに根底から湧き出ていて、それにどんな名前をつけようが、どのような意味を持たせようが、まわりにはわからない。

自分なりに、恋すればいいのである。



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