No.10「いき」な𠮟り方・褒め方(園だより11月号・後半より)

あれは運動会の約一か月前の、初回の練習中のことです。

初回だけに、整列も表現体操もなかなか上手く出来ない子も多く、全体が整いません。

そこで先生たちは、出来ないことを叱責することなく、「これが出来ると、かっこいいよ!」と言って子どもたちを励ましたのです。

そして出来るようになると、「今の○○、すごくかっこよかったよ!」と心から褒めてあげるのです。

多様な才能を削ぐことなく、みんなで一緒に一つのものを創りあげていく興味・能力・素養を育むための励ましの言葉としての「かっこいいよ!」。

それを聞いた私はあらためて、「「のぞみ」でこの先生たちと一緒にやることになったのは運命だったのだな」と感動すらおぼえました。

と申しますのも、私が最も敬愛する「ぼくの好きな先生」の一人に九鬼周蔵(1888-1941)という哲学者がいます。

彼は主著『「いき」の構造』の中で、「個」(個性を伸ばす)と「全体」(集団行動がとれる)のどちらが優先されるべきかという西洋的二元論を越える、最上位の価値判断基準として、江戸の町人文化を発祥とする「いき(粋)」、現代風に言えば「かっこいい」という概念を探求しました。

九鬼先生は、「いき」は日本固有の文化ゆえ、他言語に翻訳不可能と言っています。

つまり「のぞみ」の先生方が日常的に行っている「声かけ」は実は、20世紀における哲学上の最高の成果の一つを、幼児教育において実践していたのです。

このことがなぜ、幼児教育のみならず教育全般において決定的に重要なのか?

そのことを、もう一つ例を挙げて説明しましょう。

「のぞみ」の先生は、園児が出来なかったり、過ちを犯したときでも、「悲しい言葉(=否定の言葉)」を決して使いません。

例えば、「○○しちゃダメって言ったでしょ!何度言ったら分かるの!」と言ったような。

そうした怒気を帯びた「悲しい言葉」が、決して善悪の理解にはつながらないこはなく、ただ子どもの心に傷を負わせるだけで、下手をすればその後の人生を狂わしかねないことを熟知しているからです。

その顕著な例が、福山の小学校での悲しい事件です(詳しくは中国新聞『福山の小学校教諭、児童に不適切発言繰り返す』参照のこと)。

「悲しい言葉」の代わりに「のぞみ」の先生は、「他の園児を叩く」などの過ちを犯した場合にはまず、それをされた側がどんな気持ちになるかをとことん問い続け、自分で考えてもらいます。

そしてその相手が「悲しい気持ち」になることに自分で気付いてもらいます。

そしてそれに気付いたら今度は、自分が同じことをされ、同じ気持ちになった時のことを考えてもらいます。

そうした過程を経て最終的に、自分のしたことがしてはいけないことだということを、主体的に気付いてもらいます。

先生はその「水先案内人」に徹します。

言い換えれば、「良い悪い」を「悲しい言葉」に頼っていきなり「頭」で理解させようとするのではなく、「かっこいい」といった感性、あるいは「悲しい」という感情、つまりは「心」に訴えかけ、「心」で判断出来るよう導く「声かけ」。

それが「のぞみの伝統」です。


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