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(42)ワークショップをハイブリッドでふりかえる 〜同じ空間にいるのがこんなにも嬉しいなんて…

 先日、ワークショップのふりかえりをしました。昨年後半から始まって、つくった演劇を1月に発表したことについてのふりかえりでした。
 新規感染者数が増加し続けていて、実際に会うことが躊躇される中、ふりかえりだからオンラインで良いか、という想いと、いや最後まで実際に会ってふりかえりたい、という想いの両方がありました。

 結論としては、移動や集まることを禁止されているわけではないので、どうするかを本人の意向に沿うように、対面とオンラインとのハイブリッドで行うことにしました。

 そのふりかえりを紹介がてら、その時に感じたことをお伝えしよう(というか自分のために書き残しておこう)と思います。

【42】-1 ふりかえりの進行

 オンラインの方とリアルで集まった方と両方いて、私がリアルで集まった方たちの空間にいると、(自分の性格からいっても)その場にいる方たちの方に意識が向いて、オンライン参加の方が傍観者になってしまうのではないかと思いました。そこで、リアル参加の人が集まった部屋はスタッフにお願いして、私は隣の部屋で一人で進行をすることにしました。

 リアルで集まった部屋には大きくプロジェクタで映し出します。また、リアルで集まった人が何か話す時には、スマホでアップにするということもしました。
 大きな流れとしては以下の通りです。

1:近況報告
2:上演した演劇のビデオを見る
3:感想
4:ワークショップの流れ(何をしたか)を思い出す
5:ワークショップ中にどんな気持ちだったかのグラフを書く
  5-1:リアル組は、紙に書く
  5-2:オンライン組は、Google Jamboardに書く
6:二人組になり、グラフを見ながら気持ちを話したり、気づいたこと・発見したことなどを話し合う。相手の話したことをメモする
7:リアル組のグラフをスキャンしてパソコンに取り込む
8:ペアの相手のことを、グラフを見せながら全体にシェアする

 リアル・オンラインのハイブリッドでやったにも関わらず、遜色なくふりかえりが出来たと思っています。リアルの人もオンラインの人も、自分の感じたことを比較的長めにちゃんと話せて、それを他の人にもシェアできたが良かったです。かつ、Google Jamboardを使って、間に媒介を置いたことが、会話を窮屈にしなかった大きな要因かと思っています。

 例えば、仮に10人の参加者がいた場合、一人3分話したとしても30分かかってしまいます。しかもファシリテーター(講師)としては、一つのコメントに対して反応してしまうのがほとんどの場合です。とすると、話の長いファシリテーターであると(私の場合は特にそうです…)、それだけで小一時間経ってしまいます。

 振り返りの時は特に、他の人の意見や感想を聞くことも非常に大切ですが、話すことで自分の考えがまとまったり、自分の考えを発見したりします。なので、ある程度まとまった時間話す機会というのは非常に重要ですが、永遠に続けるわけにはいかないので時間を区切る必要があります。

 また、他の人のふりかえりを聞くと、良い意味でも悪い意味でも影響されます。聞いた意見に賛成(反対)ということだけではなく、聞いた意見によって思いついくことが多く、もともと自分の持っていた考えからズレてしまうこともあります。

 最終的に多くの意見から自分の意見を見つけていくのは良いことです。しかし、最初に自分が何を思っていたかを認識することも必要です。なので、最初はペアになり、15分ほど思ったこと、発見したことなどを話してもらい、後で全体でシェアをすることにしました。

 たくさん話すことができて参加者の満足度も大きく、オンラインと対面とで相違なく意見交換が出来たのではないかと感じています。

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 Google Jamboardについては、こちら(↓)に書いてますが、希望が多ければ、どんなふりかえりのJamboard画面をお伝えする機会を作ろうかと思います。

【42】-2 隔離部屋から大部屋に行った時の嬉しさ

  今日の本題は、実はふりかえりのことではなく、誰かと同じ空間にいるって嬉しいってことです。

 前述の通り、対面とオンラインの両方に参加者がいるので、対応の差が出ないように、私はオンラインで進行することにしました。対面で何かあれば、隣にいるのですぐに対応できると思ったことも理由にあります。
 そして、小一時間ふりかえり(ワークショップと言っても良いです)をした後、少し休憩を取ることにしました。私は、ZOOMの画面を見ているのにも疲れたので、隣の部屋に行きました。
 隣の部屋に行き、その場にいた人の顔をみたら…

なんか、すごく嬉しかったんです。思った以上に嬉しかったんです。2020年のコロナの始めのころに誰も会えなくて、その後に久しぶりに誰かに会った時のような嬉しさと解放感のようなものを感じました。自分でも驚きました。

 隣の部屋にいるのは分かっていたし、スマホで顔のアップにしたり、ZOOMで声を聞いたりしているので、それにスタッフとは事前打合せで2時間くらい一緒に過ごしていたのにも関わらず、とても嬉しかったんです。
 「嬉しくなる」なんて想像もしなかったし、隣の部屋に行くまで「寂しい」とも思っていなかったんです。
 なのに、隣の部屋に行くと、気持ちが高揚しているのがすごくよく分かりました。
 思わず

「なんか、この部屋に来るのが嬉しいね。みんなに会えるのがすごく嬉しい」

と言ってしまったくらいです。
 この感覚は、隣の部屋にいた人は分からなかったようです。隣の部屋にいた人たちは既に他の人と同じ空間にいたので、私が感じたようなことは感じなかったようです。さらっとスルーされました。

私はこんなに嬉しいのに!(片思いって感じですか…)

 当たり前ですね。私一人が「ひとりぼっち」の空間にいて、その他の人は他の人と一緒にいて、私一人「増えただけ」なのですから。

 この感覚は「これからのワークショップ」にヒントになるものを含んでいるような気がします。別にハグするわけでも握手するわけでもないし、同じ空間にいる以外、ZOOMであってもほとんど違いはありません。
 でも、なんでしょう、物理的な距離はあるし、例えば3m位離れていることは普通にあるんですけど、それなのに、同じ空間にいることが嬉しいし、安心もします。それは何なのか…

【42】-3 人間は必要なものを拾いに行くし、不必要なものは拾わない…と思います

 実は、私は演劇をやっているから、このことについては昔から感じていたし、時々そのことについてコロナ前から話していました。例えば演劇を生で見るのとビデオで見るのでは全然違うということからも分かります。

 演劇を見る時は、舞台から一定の距離があるため、様々なものが視界に入ります。でも後々思い出すと、俳優の表情がアップで思い出されたりします。それは、自分が俳優の表情や感情を拾いにいっているからだと思います。
 またビデオで見た時に、特に市販されているものではなく発表会を録画したものなどの時には、余計なノイズ(近くで話している声など)も拾ってしまい、とても聞き難いことがあります。でも生で見ている時は、その他のノイズは耳に入っているはずですが、それをかき消して、舞台で流れる音楽やセリフだけを拾っています。もちろんその時は「隣の人のガサガサする音がうるさいなぁ」と思っていても、記憶からは失われ、元の舞台の音しか記憶に残りません。

 日常生活で考えてみましょう。私がワークショップファシリテーターをやっているということもありますが、何かを見たり聞いたりする時に、広く浅くやっている時と集中して取り上げる時を交互に(同時に?)やっているように思います。
 例えば、誰かと話している時に、遠くの方で自分の気になる話題が出た時には、そちらの話題に乗っかったりします。誰かと話している時に、遠くの方で変なことをやっている人が視界にちらっとでも入ったら、きっと笑うでしょう。

 その感覚は、全方向に向いていて、だんだんと遠くなっていく(薄まっていく、関わり難くなっていく)ことはあったとしても、区切られることはありません。

 でも、ZOOMをはじめとするオンラインのものは、物理的に区切られてしまいます。場面であったり音声であったり。区切られるということは、その方向にしか意識が向かわないわけです。

 ZOOMで複数の人が同時に喋ったら、聞きづらくて仕方がありません。一人が話してて、他の人が小さい声で話してたとしても、です。例えば、誰かが話している時に、別の誰かが電話をしていたら(時々このような状況ありませんか?)電話の声がうるさくて話に集中できません。

 こんな風に、人間の知覚機能や認識能力、取捨選択能力は、基本的には非常に優れているものです。でもビデオにしろZOOMにしろ、ハイテクな物は全てを拾います。見えるもの全てを取り込み、聞こえる音全てを取り込みます。
 いや、最近はノイズを拾わないで、話している人だけを選択できる機能もあると思います。でも「本当に必要か不必要か」を決めるのは、人間であって、その人の興味やその日の状況に大きく作用されます。それを機械でやるのは、結構ハードルが高そうだし、100%ではないし、仮に出来たとしても「鬱陶しい」と思うかもしれません。人間はわがままですからね。

 人間の認知能力は、四方八方に広がっていて、遠くなることで認知し難くなっていくということが心地よいということかもしれません。物理的に区切られることが心地よくなくて「オンラインは疲れる」「オンラインはイマイチ」というような印象になっていくのではないかと思ったわけです。

 自分の感じることは自分で決めたい。機械によって音を選択してほしくないし、視界に入っているものを機械によって取捨選択してほしくない、と本能的に思ってます(少なくとも私は)。
 私は感覚的に分かるわけではないですが、大きな音に敏感な人は取捨選択が上手くできないということかもしれません。全ての音がビデオの様に同じように入ってきたら、とても辛いことだと想像できます。
 でも、音を遮るヘッドホンのようなものを付けるというのは、私たちが出来る選択の一つです。くり返しますが、その選択を機械ではなく自分でやりたいのだと、本能的に感じているのかもしれません。

 ……これが一人小部屋にいて、大部屋に行った時に感じたことについての考察です。

 とは言え、だからオンラインはダメだ、と言うつもりはなく、そのように人間は感じるんだということを再認識した上で、どうしていくかをこれから考えていこうかと思う次第です。

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