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長い帯

もうその人の人となりや生き方を1年以上、目にしている。

最初は「三十路の良さ」を確認する記事からであった。何年たってもその年代のそれぞれの生き方にはその「よさ」がある。今更、この人は何を言っているんだろう、でも、前向きなのはよいことだと思い「スキ」を押したのが始まりだった。

次第に、その人にコメントを残したくなり、記事を読むたびにコメントを残してきた。なんでだろう?その人が綴るものは「言葉」であり「コトバ」であり「ことば」であり「詞」であるのだ。それが読後の私の心にふと何か残ったからであろう。あと、もっと読み手が増えてほしいと思ったからだ。

しかし、途中からそれを辞めた。

調べたら「あなたを許すこと」の記事から。読んでみると分かるのだが、何かがふ吹っ切れた、喜怒哀楽を自らの言葉でしっかりと綴られた記事だったような気がして、そこからコメントは辞めてしまった。その人はもっと外に出て読み手を増やさなければならない人だと思ったので。勝手に私はそこで距離を置こうと思った。

この時期からツイッターで、noteの感想や思ったこと、読み手に伝えたいことを少しずつ共有することを私は始めていった。すると、その人は私のしていることに対して「帯」という名前を付けてくれた。なるほど、「帯」ねぇ。と最初は思っていたのですが。

今では、当たり前のようにnoteの住人の皆さんは、ツイッターにnoteの記事を共有することを「帯」、と言っている人が多い。その「帯」を文化として捉えnote酒場で紹介してくださった方もいて、言葉を文化にした張本人。

note酒場では受付でばったりお会いすることができて、「そのまんまだなぁ」との印象。

そこから日々、進化していって、毎日の投稿はなくなってしまったが、その分、1つの記事に深みと楽しみと哀愁が交錯するようになった。もう、何か、どんどん自分のやりたいことを実現していくような歩き方していると感じながら。

そして、
先日、電子書籍を出版するというnoteを記していた。

とうとうきたか。
読み手としてはとてもうれしいです。そしておめでとうございます。

そして
「本を出したい」と言っていたので、実現できたことも。


ただ、あともう一歩。
紙媒体での出版への実現。



いつか、手に取って、電源を入れずに、画面を触らずに、読みたいときにすぐ手に取って読めるようなあなたの本が、日本中に行き渡りますように。

もしかしたら、その「いつか」が「恋」なのかもしれない。

その人への「長い帯」でした。



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