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フェイスブックのお友達の顔が思い出せない。

こんばんは、上田です。

今回は、最近、しばらく会ってなかった人たちと会う機会が増えて、ふと思ったことを書いてみます。

フェイスブックのお友達の顔が思い出せない。

最近、「おともだちってなんだろう」と考えることが増えました。
おともだちと一言でいっても、人によって、ことばの受け取り方、ニュアンスが違うと思います。辞書ではこう書いてあります。

ともだち【友(達)】(名)
同じ学校にかよったり、行動をいっしょにしたりする、なかま。友人。とも。「ーづきあい」
ーがい【友(達:甲斐)】ーガヒ(名)
友だちとなった意味。友だちとしての思いやり。「ーがないやつだ・ーに〔=せっかく友だちなのだから〕ほめてやった」

出典 三省堂国語辞典 第七版

ともだちの中でも、さらに親密性の高そうなことばとして、

しんゆう【心友】(名)
〔文〕おたがいに心の中を知りあっている友だち。
しんゆう【親友】(名)
おたがいに信頼(シンライ)している、なかのよい友だち。

出典 三省堂国語辞典 第七版

があります。ドラえもんのジャイアンの「心の友よ〜」って台詞は、心友からきているのでしょうか(こういう言葉があること自体、辞書で調べて初めて知りました)。

ついでに、太宰治の『走れメロス』の主人公メロスが無二の友人のセリヌンティウスを表したことばとして、学生時代の学校の教科書で覚えているのが、

ちくばのとも【竹馬の友】(名)
小さいときの友だち。おさな友だち。〔「たけうま②に乗っていっしょに遊んだことから〕

出典 三省堂国語辞典 第七版

これは、今は付き合いはあろうがなかろうが、過去のともだちの意味合いが強そうです。

ともだちとは違って、もう少し距離のある関係値のことばとして、

しりあい【知り合い】ーアヒ(名)
〔あまり親しくないが〕つきあいがあって、知っている<こと/人>。知人。「あなたのおーですか」

出典 三省堂国語辞典 第七版
かおみしり【顔見知り】カホー(名)
前に会ったことがあって、顔を知っている<こと/人>。「ーになる」

出典 三省堂国語辞典 第七版

こっちの方が、じぶんの周りには、たくさんいそうな気がします。


先日、じぶんのお仕事の都合で、以前お仕事でご一緒したクリエイターさんと連絡をとりたいと思ったのですが、その方の個人の連絡先を知りませんでした。

今のご時世ですから、SNSをやっているかもと(実際のところは、やっている人が多いかは分からないですが)と思って、ダメもとで、フェイスブックで、その方を検索してみました。

その方の本名で探してみたら、見つけることができて、内心「やったー」と思って、さっそく連絡をとろうと思ったのですが、ぼくの中で、1つ問題がありました。

数年ぶりに連絡をとるので、相手は、ぼくのことをどこまで覚えているか分からないことです。突然、ファーストメッセージを送られた側として、「誰だろう、この人」とびっくりしてしまうかもしれません。

じゃあ、どこまで過去を遡って、じぶんの素性を語るか、あまり長く過ぎても、かえって重いファーストメッセージになってしまいます。かといって、ラフな友達感覚で送ったら、失礼な態度に見えてしまうかもしれません。

なかなか相手の距離感をどう掴んでいいのか、macの画面上で、しばし、ぼくは固まりました。

結局、悩んだあげく、お仕事につながるかもしれない案件(詳しい話はしなかった)があって今回連絡とりたかった旨と、お友達になってくださいと、文面を送りました。

ここで、文面を送る直前・直後に、ぼくの中でひっかかることがありました。じぶんで書いていて、始末が悪いのですが、

「お友達になってください」とは、どういうことなんでしょう。



フェイスブックには、友達リクエスト申請ボタンがあります。連絡をとるにしても、友達にならないと相手側とメッセージのやりとりが基本できません。

最近はあまり見かけなくなりましたが、「友達リクエスト申請しました!、よければ承認お願いします」みたいな文言を、ぼくは以前は使っていたこともあったのですが、使わなくなりました。どうも、機械的で、マニュアルくさいからです。形だけというニュアンスが強いせいもあるからでしょうか。

今回は、仕事の話がしたいという動機が、そもそもあって友達リクエスト申請をしたのは、ほんとうのところなのですが、そこに、あえてお友達になってくださいとつけたのは、なんでなんでしょう。

フェイスブックのツールにある、友達リクエスト申請という言葉に習って、便宜上「お友達になってください」と使ったところは、もちろんあるのですが、別の理由がありました。

ぼくは、ほんとうに久しぶりに会って、仕事以外のことについても、相手の方と、いろいろ話したいと思ったからです。

相手が何が好きで、何が嫌いで、どんな考え方や姿勢を持っているのか、公私混同なのは分かっているのですが、知りたいと思ったからです(もちろん、以前の仕事での相手の姿や、やってきたことは知っていましたので、ぼくの中で信頼していました)。


以前は、とりあえずつながっておきましょうな体で、フェイスブックを活用していましたが、最近それも考えものだなぁと感じています。なぜなら、初対面でフェイスブックで、とりあえず友達になっても、年月が経つと、

相手の顔を思い出せないことが増えたからです。

「たしかにお友達にはなったけど、あまりこの人のこと知らないんだよな」
「そもそも、実際会った時どんな人だったか、アイコン写真を見ても、思い出せない(写真が本人の顔でなかったら、もうお手上げ)」
「いつ、お友達になったっけ?」
「友達になったけど、1回もメッセージやりとりしていないし、直接会ってもいないぞ」

それを少なからず感じるのは、年に1回通知でくる、「今日は○○さんの誕生日です」というフェイスブックの案内です。

そもそも、ぼくの場合、友達の誕生日は、よっぽど親しい間柄でない限りは、あまり覚えられません。今覚えているのは、一緒に暮らしている、奥さんの誕生日ぐらいです(付き合った当初は覚えられなくて、語呂で覚えました)。

最初は、誕生日を知らせてくれる通知は便利だなぁと思っていて、「ああ、この人今日誕生日だったんだ」と、とりあえずメッセージを律儀に送っていた時期もありましたが、だんだん、それが妙に億劫になってきました(そもそも、設定でオンオフとかできそうな気がしますが、面倒なので調べてもいないです)。

顔もうる覚えな人も多いもんだから、だんだんと、ぼくは、お祝いのメッセージを送る人と送らない人を、自然に、分けるようになっていきました。

同時に、「あ、ぼくはこの人について、こう思っているんだな、相手との距離感こんな感じなんだ」みたいなものが、ぼんやりじぶんの中で、浮き彫りになっていきました。

メッセージを送りたいと思う人への送る理由は、タイミングだったり、相性だったり、気分だったり、いろんな理由があります。送らない理由も、同じくです(だいたいは、気づくのが遅かったり、送るのを忘れていたりすることが多いですが)。

あと、送らない大きな理由として、相手も実はぼくのこと、そんなに覚えてないんじゃないかなという不安もあったりします(相手からすれば、メッセージをもらっても、かえって困るのではないか)。

ぼくの中で、興味深いのが、1回しか会っていなくても、妙に相手を覚えている(親近感を感じる)とか、過去何回も会っているけれど、印象に残ってない人もいます。この差はなんなんでしょうね。

今後もしかしたら、お仕事につながるかもぐらいのお友達に限って、印象に残らないことが多いような気がします(たいがい、ぼくの中で打算が入っている場合があって、今でも、たまにやってしまうこともしばしば)。

さすがに、全く覚えてないからいいやというのも、ぼくの中で、ひどいことしているかもと思って、頑張って相手のことを思い出そうとすることがあります。そういう時、かろうじて、共通のお友達の名前を見て、いつぞやの時期に、知り合った人だったと、わずかに記憶がよみがえることがあります。

小学校の時に、一緒にクラスに居たあの子みたいな、そういう感じに似ています。存在に気づいた時には、なんとも虚しい(いや、こんなことしていること自体、かなり、ぼくは失礼なやつだなと思います)。

会社で名刺交換で、「▲▲会社の○○さん」みたいに、会社の看板で覚えていることもあるので、記憶をたどることもできます。ただ、経験上、仕事での関係値でしかなく、会社や業界から離れれば、途端に距離ができてしまいます(それは、しょうがない)。


こんなことをあれこれ考えているうちに、フェイスブックの中にいる友達リストにいる人のうち、友達と言える人はどれくらいいるのか、知り合いや顔見知りと言える人がどれくらいいるのか、一見それらを考えること自体、不毛と思えることが、頭の中にぐるぐると染み渡っていきました。

友達なのか、友達でないか、みたいなカテゴリー分けをしたいとかでもなく、仮にそれをしたからなんなんだというのもあるけれど、フェイスブックの友達リストをたまに見て、相手の顔が思い出せないというのは、じぶんの中で、ちょっと恐ろしいことだなと思いました。

「誰だ、この人は」って。きっと、LINEのお友達とかもそうなのでしょうか。顔を思い出せない人から、メッセージがきた時、「どうしよう」ときっとなるでしょう。逆も然りです。

ツイッターは、「誰だ、この人は」とは一瞬思いますが、何かしら、じぶんに興味を持ってくれた人なんだろうなと、受け取り方は落ち着いていきますし、いつの間にかフォロワーからいなくなっていたりするので、友達という関係にあまり縛られた感じがしません(個人的な印象です)。

きっと、フォロワーということばが、お友達だったり、そうでなかったり、応援する人だったり、その逆だったり、関係値が曖昧で、ちょうどいい距離感があるからです。逆に、フォロワーってことばが、お友達ってことばだったら、全然受け取り方が変わってくるんだろうと思います。


フェイスブックが登場する前から、友達、仕事、その他、いろんな関係値がありましたが、関わる機会がなくなってくれば、おのずと、疎遠になって、距離ができることは、経験上よくあります。

でも、疎遠になっても、たまに会いたいという気持ちがあれば、行動を起こして、また関係値を続けていくこともできます。でも、それは、じぶんの意図で、どうこうできるものではないと思います。

どうこうしようとすると、じぶんに無理をしちゃうし、じぶんに嘘をつきかねません。もう、タイミングだったり、偶然だったり、もうご縁な気がします。


今、フェイスブックでお友達になっているけれど、それでつながっていることに、ぼくは、少し安心しちゃっているところがあるのかもしれないなと思います。つながりを感じられるかどうかは、ご縁だったり、じぶんがどうしたいか、どうありたいか、じぶん次第だなぁと思います。

お友達になってくださいと、ぼくがあえて使ったのも、じぶんがそうしたかったからなのかなと思います。

SNSのツールというのは、表面上のつきあいなのか、今相手に関心があるのかないのかは、敏感に感じとりやすい環境になっていると思います。誤解がないように言っておくと、ツールの良し悪しを言いたいわけではなくて、結局、扱う人しだいだなぁと感じるところです。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。会社組織やコミュニティを抜けて、今までの関係性が一部失われていると感じている友人のことばを以前SNSで読んで、少し思うことがありました。



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