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オンライン会議の違和感について考える(中編)

こんにちは。うえぽん、こと上田です。

前回、書いたnoteの続き(中編)です。

すみません、いきなり謝罪からです。

前回のnoteで、後編からとお伝えしたのですが、いざ書きはじめたら、どんどん文量が増えてしまいました。なので、いったん、今回は間をとって、中編にしてみます。

前回のnoteで、なかなかネガティブなことを書いていて、けっこうしんどいなぁと思いました。

書いているうちに、ネガティブなことばかり言って、お前ならどうするんだぁ、って遠くから言われているような気分になりました。

投稿ボタンを押すのにも、ほんとに押していいのかなって躊躇してしまいました。

(書くのって、勇気がいります)

中編はなるべく、、ポジティブなことを書いていきます。

マンツーマン・オンライン会議をやってみて。

前回のnoteでは、ぼくの少し過去のオンライン会議の違和感について書きました。今回はここ最近の話です。


最近のご時世もあって、じぶんにとって、少し遠のいていたオンライン会議をする機会が、また増えてきました。

あらためて、それらをやってみた違和感を綴りながら、じぶんだったら、こうする、こうしたらオンライン会議たのしくなるんじゃないかといったことを書いていければと思います。


先日、お仕事でテレワーク(在宅勤務)をしたり、オンラインコミュニティ(コルクラボ)のメンバーと仕事ではない雑談をしてみました。いずれも、マンツーマンの形式でした。

マンツーマン形式でやってみて抱いた違和感としてあったのは、前回のnoteでも書きました、じぶんの視線を画面のどこに持っていっていいかが分からないということでした。

もう1つ今回発見としてあったのは、相手はぼくのどこを見ながら話をしているのか、感じとりにくいというところでした。感覚的な話です。

相手がどこを見ながら話をしているのか、感じとりにくい。

例えば、リアルで目の前にいる相手と話す場合、相手の視線がどこを向いているのかは、相手の目を見れば、なんとなく分かります。

相手と視線が合えば、相手はじぶんの目を見ています。もしくは、じぶんの顔、鼻、おでこ、口かもしれません。

ちょっと遠くに相手の目線がいっていれば、頭髪、じぶんの後ろにある壁や窓を見ているかもしれません。

実際どこを見ているかは置いておいて、目の前にいるじぶんの顔の周りのどこかしらを見ているか、もっと言えば、じぶんという物理的な存在を見ているのだと、想像ができます。

これが、オンライン会議の画面だとどうか(下の写真は、先日テレワークしたスクショで、相手が誰か分からないように加工してあります)。

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相手が、じぶんのどこを見て話を聞いているのか、感覚的にイマイチ分かりませんでした

もしかしたら、相手は、カメラではなくて相手側のコンピューター画面に映し出されている、別ウィンドウで何か別の作業をしているかもしれません(実際、ぼくもそういうことをしていました)。

相手は、物理的にはカメラを見ていますが、カメラを通して見ている先のじぶんのどこを見ているかは分かりません(逆に相手もそう思っているはず)。

感覚的に少し似ていると思う例を挙げます。

もし地下鉄の電車の中で、座席の向かいの窓に映り込むじぶんの隣に座っている人の表情を、こっちがじっと見ていても、例え相手側も同じ映り込みを見ていたとしても、相手は、ぼくがその相手を見ているかどうかは分かりません(見られているかもとは思うかもしれませんが)。


これがマンツーマンではなく、大勢を相手にした場合の例えになりますが、

もしテレビだったら、美人女性キャスターの夏の服装やオーバーに露出した肌に、筋肉ムキムキのインストラクターの血管が浮き出た上腕二頭筋に、心奪われるかもしれません。

コメンテーターのイケメン俳優の歯が黒ずんでいて、この俳優さんタバコ吸っているのかなぁって思うかもしれません。

(例えがだんだん変態チックなってきましたね)

これぐらいの大勢が観るメディア規模になると、画面に映っている・話している側は、観て聞いている側が、じぶんのどこを見ているかなんて、もう分かりません(そもそも視聴者は見えないし、物理的存在を感じとることもできません)。実際、そんなこと気にしはじめたら、頭がおかしくなりそうですね。

話している側も、相手の姿・存在を感じとりにくい、距離感がつかみにくい。

相手がじぶんのどこを見て話を聞いているのか、さらに感覚的に分かりにくくなるのは、じぶんが積極的に話しているときのケースが多いです。

じぶんが話しているとき、カメラを通して、相手を見ながらちゃんと話をしているか怪しいかなと思います。

話すことに夢中で、画面をちらっと見ていても、ちゃんと相手を見て話せてないと思うんですよね。

その理由の1つに、相手が目の前に物理的にいるという距離感がつかみにくいからだと思います。

実際、ぼくもじぶんで話しているとき、相手をどれくらい見て話していたか思い出すと、そんなに見ていなかったと思います。

物理的存在感がない相手と話している感じでした。ラジオで、ヒトリ語りしているのではって感じです、

相手をちらっと見るぐらいでしたので、相手がそのとき、どんな表情をしていたか、あまり思い出せません。

画面に相手はいたけど、相手がいることが感じにくかったです。終わった後、目の前にいた(画面に映っていたが)存在感が残っておらず、空虚な気分になりました。ぼくは誰と話していたのだろうか(言い過ぎか)。

これら違和感を通して、ぼくは、あらためて、オンライン会議は苦手だなと思いました。

(あれ、ネガティブな文章になっているぞ。。。)

視覚情報よりも、人の肉声に没入感あり。

相手の表情や存在はあまり残っていないのですが、相手の肉声の調子はけっこう覚えていました。相手の笑い声、わずかに聞こえる息遣い、考え中のときの声(うーんとか)、いろんな情報がイヤホンごしの音声から、感じとれました。

画面越しで見ている情報以上に、聞こえてくる相手の肉声の方が、画面越しの相手のことを感じとるのに、重要だったりするのではと思いました。

今回、マンツーマンでしたが、大勢でやるオンライン会議と違って、ぼくは、それなりに没入感を感じることができました。そして、たのしかったのです。

(やっと、ポジティブなこと言えた)

この没入感は、マンツーマンと、相手の肉声を聴くことで、もたらされたのだと、今は思っています。近い感覚として、電話でコミュニケーションするのと同じではないかということを思いつきました。

オンライン会議をたのしむための方法として、じぶんを含めた参加者の想像力をどれだけ膨らませられるかが、鍵のような気がしています(現在の思いつきです)。

(今日は、ここでタイムアウトです。残りは、今度こそ後編かな。。。)


最後まで読んでいただきありがとうございます。今日は、ほんのちょっとだけポジティブなことを書いてみました。マンツーマンのオンライン会議は、たのしめる要素が、今のところありそうな予感です。続きは、また明日。





サポートありがとうございます。カフェでよくnote書くことが多いので、コーヒー代に使わせてもらいますね。