見出し画像

『演技と身体』Vol.37 無意識の話⑤ 言語構造と無意識

無意識の話⑤ 言語構造と無意識

言語は意識と無意識の混合体

前回は、個人的無意識状態である「忘我」と集合的無意識状態である「恍惚」について説明したが、これらの状態に技術的に接近するためには、言語構造と無意識の関係について考えることが有効だ。
というのも言語の構造はまさに意識と無意識の混合によるものだからである。つまり、その混合の中から無意識的な働きにフォーカスすることができれば、無意識に接近する方法というのが見えやすくなるということだ。
集合的無意識というのは、そもそも言語構造を超越しているのだが、演技の多くはセリフがあるので言語構造から逃れることが難しい。
すると、現実的にはまず言語構造の中にある無意識的な部分を足がかりにするというのが順当であるように思われる。

〈統語法〉と〈喩〉

言語の機能は、〈統語法〉的な働きと〈喩〉的な働きの二つに分けて考えることができる。
〈統語法〉的な働きとは、物事を分割して並べる文法的な機能である。
「月が山間から空に上る」
と言う時、月と山と空は初めから区別され、月が主語として山間から空へ移動するという時系列が描かれることになる。
それを次のように言ったらどうだろうか。
「暗いスクリーン。の、小さな破れ目。から漏れ出た光が山肌を浮かび上がらせる。そして光は円い気泡となった。」
同じ景色を比喩を使って表現している。これは〈喩〉的な働きの一つである。ここでは、空と山は分離されておらず暗闇の中で同一化している。その暗闇に穴が空いたみたいに月の光が漏れ出ると、暗闇の中から山肌が浮かび上がる。無から有が生起する瞬間である。月はやがてはっきりと姿を現すが、あくまで空と分離されておらず気泡のように空の中に閉じ込められている。
上の二つの文を比べるとどうだろうか。
明確でわかりやすいのは間違いなく前者であろう。だが、それは物事の実体をうまく表現できているのだろうか。
少なくとも、山と空は同時に存在しており、宵闇の景色の中では渾然一体となって見えるはずだ。その山と空が別々だとわかるのは、それらが別々であると事前に知っていたからでしかない。つまり知識に過ぎない。
他方、後者の表現は端的に嘘である。そこにはスクリーンも気泡も存在しない。だが、目の前にある景色を別のものに置き換えることによって、一体化した景色のありようを表現することができる。こうした置き換えは[メタファー(隠喩)]と呼ばれる。[メタファー(隠喩)]の機能によって、月と気泡という大きさも性質も全く異なるものが置き換わり同一化されるのである。

分別化・無分別化

このように、〈統語法〉的な言語の機能は物事を分別化し、〈喩〉的な言語の機能は現実の差異を超えて物事の区別を消失させて、無分別化するのである。
前々回の記事のリンゴの例で説明した通り、無意識に隠伏するというのは、他者との区別(分別)がなくなるということであった。
すると、言語の〈統語法〉的な働きが抑制されて〈喩〉的な働きが強く出ている状態の方が無意識は表面化しやすいということが言えないだろうか。
〈統語法〉的な文法の働きは、混沌の中から物を切り取って意識化させるところにある。そして主語と述語の関係に当てはめてそれらの関係を明確化する。
「カエル」という言葉は世界をカエルとカエル以外に分ける働きをする。「カエルが池に飛び込んだ」と言えば、風景の中からカエルと池が別々に切り取られてその二者の相互関係が意識化されることになる。そこには主体(主語)と客体(目的語)があり、カエルが池に対して動作の働きかけをするという一方的な関係がある。さらに、それを目撃している“私”というものがそこに前提されている。
同じ光景を〈喩〉的に表現したものが
「古池や かわず飛び込む 水の音」
という芭蕉の有名な句である。
この表現においてはカエルもそれを見ている私も全てが「古池や」という景色の中に包摂されている。いわば、カエルも私も「そこにいるのにそこにいない」のである。この句に歌われている景色というのは、ただ池の上にゆったりと広がる波紋とポチャンという音のこだまだけである。カエルも私もすでに景色の中に溶けてしまっている。
さらにこの句が表現している景色は古池だけにとどまらない。古池の静けさを歌うことで、もっと広い景色に染み渡る静けさを表現している。カエルが飛び込んだポチャンという音はより広い空間に広がる無を際立たせているのだ。
このように部分によって全体を表現する技法を[メトニミー(換喩)]という。[メトニミー(換喩)]は部分と全体を同一化するのだ。例えば、「蹄が土を蹴る」という部分的な映像を見て、「馬が走っている」という全体を表現することができる。ここでは「部分=全体」という奇妙な出来事がすんなりと受け入れられている。

〈喩〉的な機能は無意識に働く

このように、言語構造の無意識的な部分すなわち〈喩〉的な機能に着目すると、大きさも性質も全く異なる物同士が置き換わり(メタファー)、部分と全体が同じ質量を持つ(メトニミー)という、直感に反することが言語の中で起こっているのである。そして、そのことを普段私たちは気にも留めない。なぜ気に留めないのかと言えば、それらが〈統語法〉的な意識界の機能の陰に隠れて、無意識界で処理されているからである。
すると、こうした言語の無意識的な機能を前面に引き出すにはまず〈統語法〉的な機能を低下させるということと、〈喩〉的な機能を強調することの両方向からのアプローチが必要だろう。

では、具体的にどのような方法が考えられるか。次回、考えてみたい。


※【公演情報】10/27~30 初の舞台演出作品『相対性家族』が上演されます。


------------------------------
「うちの夫、わたしから見たらスローモーションなの」 
「うちの次男ときたら、まるで逆再生しているみたいだ」 
「。よだり送早らた見らか僕、はんさ母」
------------------------------
劇団一の会
Vol.52  相対性家族 
作・演出:高山康平
 @ワンズスタジオ 
出演: 坂口候一  熊谷ニーナ  玉木美保子  川村昂志  粂川雄大 
桜庭啓 
大平原也(A) 梅田脩平(B) 

10月 27㈭19時(A) 
  28㈮14時(B)・19時(A)
  29㈯13時(B)・18時(B)
  30㈰ 13時(B) 

ご予約: https://www.quartet-online.net/ticket/sotaisei?m=0ujfaee


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?