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テオ・ヤンセン展〜来たるべき荒廃にいかに人間の痕跡を残すことができるか〜

大阪で開催されているテオ・ヤンセン展に行ってきました。

ストランドビースト

テオ・ヤンセンはオランダの芸術家で、ストランドビーストと名付けられたプラスチック管でできた生物のような作品群を制作している。

ストランドビーストは浜辺で風を食べて動き回る。驚くことに、電池などのエネルギーは一切使われておらず、本当に風の力だけで律動しているのだ。しかも、中には自ら水を感知して溺れてしまわないように方向転換をする種がいたり、ペットボトルに空気を貯めておいて、風がなくても動ける種がいたりと、本当に生物のようである。

ストランドビーストはその動きの愛らしさ、見た目の美しさ、工学的な完成度の高さはもちろんなのだが、それだけではない魅力がある。
彼らには独特の哀愁があるのだ。
彼らは生物のようでありながら、すでに化石のようでもある。特にギャラリーに展示されて動かなくなった彼らはそうだ。
しかも、僕の目には彼らが“未来の住人の化石”であるように見える。

ストランドビーストはなぜか生命が滅亡した後の世界を僕に想起させる。
彼らが砂浜を無造作に走り回る光景は、生命がこの地上からいなくなった世界の光景に思えてくるのだ。
荒廃した砂の世界を祝福するでもなく呪うでもなく、ただただ吹く風を食べて、少しずつ衰えていく。この地球における生命らしきものの最後の記憶となる。
そのような想像を掻き立てる。
だから、僕には彼らが未来の住人に見える。そしてギャラリーに並んでいるのはその未来の住人の化石なのだ。そんなパラドキシカルな状況がまた僕を興奮させる。

テオ・ヤンセンは自分がいなくなった後の世界を強くイメージしてこれらの作品を作っている。だから、彼はストランドビーストの作り方をホームページ上に公開しているという。自分がいなくなった後もストランドビーストたちが繁殖していけるように。それは引いては人類なきあとの世界を想像することにも繋がってゆく。

ストランドビーストがそうした“荒廃”をイメージさせるのは、かれらの材質にも因るのではないだろうか。
彼らは主にプラスチックチューブでできている。そしてこれがプラスチックチューブ本来の使われ方でないことは言うまでもない。

物が物本来の目的とは違うかたちで現れたとき、人はそのオブジェクト性(物性)を強く感じ取る。つまり、その物の不可解さが現前するのだ。
マルセル・デュシャンが男性用の便器を『泉』と名づけて展示したとき、人々は男性用便器に潜在していたオブジェクト性にさぞ動揺したことだろう。
同じようにして、プラスチックチューブやペットボトルというよく知っているはずの物で構成されたストランドビーストは却ってそれらの材質に潜在していた不可解さをよく表していた。
そして、その感覚は我々が“荒廃”を目の当たりにしたときに感じるものとちょうど一致するのだ。

荒廃した空間や打ち棄てられたものたちもまた、本来の目的を失った者たちだ。そして、それらが使われていた時には潜在していたオブジェクト性が立ち現れる場でもある。
葬儀でよく見知っているはずの故人が見たことのない表情(無表情)で横たわっているのを目にした時、閉鎖されたホテルの廃墟を通りかかった時、取り壊された住宅を見た時、路上で誰かが落とした片手袋を見つけた時、我々はそこに人の名残りを見てとるだけでなく、そこに現れた不可解さ・異物性と出会っているのだ。
そのような不可解な異物を前にした時、我々は恐怖を覚えると同時にどこか惹かれる気持ちも持ち合わせていることに気がつく。
潜在していた不可解さ・異物性とは、我々の無意識に他ならないからである。

無意識こそ我々の可能性の領域である。無意識の中にしか私たちを変化させてくれるものはない。
だから、今必要なのは打ち捨てられた物や空間を排除せずむしろそれらに接近していく好奇心なのだ。

環境哲学者のティモシー・モートンはそのような荒廃した空間における異物性との出会いによってエコロジーの目覚めが起こるのだと言う。
その意味でストランドビーストは、非常に愛らしく見る者のエコロジーを刺激する。

僕は近頃よく、人類の滅亡を想像する。
別に悲観的な気分からではない。異常気象にウィルスの蔓延に戦争に要人の暗殺。これらのニュースが人類の滅亡にすぐに結びつかずとも、想像を促すのは自然なことではないかと思う。
そして、人類がいなくなった世界においての人類の痕跡として何を残すことができるだろうかと想像するのだ。
ストランドビーストたちは、人類が滅亡した世界で紛れもなく人類の痕跡となる。しかも、それは人類の優しさや創造性の痕跡としてだ。
我々もまた人類の一員であるならば、人類がどのような存在なのかを証明することができる。
暴力に溢れる世界の中で人類の優しさや創造性を証明し続けたい。そして、あわよくばその痕跡を残したい。
そう考えると、死にゆく世界と共にあるこの現実に絶望せずに、想像力を羽ばたかせることができるように思えるのだ。


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